第16話
顕さんは本気ではなかったようで、わたしから離れると
「ごはん食べよう。お腹空いたね」
そう言ってダイニングのテーブルに座った。カウンターキッチンなので隣にわたしも座る。わざと肩が触れるように椅子を近づける。上着を脱いで半袖のシャツになった顕さんの二の腕にわたしの二の腕が僅かに触れる。少しくすぐったいような感触が襲う。
ただ腕が触れているだけなのにお互いの気持ちが伝わって来るようだ。これがもう少し強引に近づいてしまうと何かが台無しになる気がした。わたしは取皿に色々なおかずを取り分け顕さんに渡した。
「ありがとう。買って来た惣菜でもこうして食べると一味違うね」
わたしは嬉しそうな顕さんの顔を見て、キスされて先ほどみたいに胸を弄られたいと思ってしまった。何を考えているんだろう、わたし……。
「確かにひと味ちがうかも」
わたしも惣菜を口にして正直な感想を言う。でも頭の中はこの先起こることを想像してドキドキしているのだ。
「お風呂のスイッチ入れておいたから、沸いたら入ればいいよ。汗を流した方がスッキリするだろう」
「うん。ありがとう」
色々な事が頭の中を巡っていたのに出た言葉はそれだけだった。段々何を食べているのか判らなくなりそうだった。わたし、怖いのかな?
怖い訳ないよね。だって好きな人と今夜結ばれるのだから……。それって恋する乙女だったら皆が願うことでしょ? だよね。だからこの胸にある若干の不安は何なのだろう。こんなことなら翠にもっと詳しく訊いておくんだったと後悔する。
食事が終わって後片付けをする。テーブルを片して綺麗に拭いて、洗い物を洗う。わたしが洗って顕さんが拭いてしまう役だった。
「怖い?」
「え」
「さっきから心ここに非ずという感じだからね。話ににも生返事が多くてさ」
わたし、そんな感じだったんだ。言われないと判らなかった。
「ごめん。そんなつもりじゃ無かったんだけど」
「別にそれは良いんだ。でもそんなに里菜を不安にさせているなら俺の責任だと思ってね」
顕さんはわたしの方を見ながら少し微笑んだ。その表情を見て顕さんも緊張してるのだと思った。
「実は俺も不安なんだ」
「え?」
「里菜に嫌われたらどうしようと思ってね」
「わたしから顕さんを嫌いになる訳がないじゃない」
「判らないよ。俺が強引なことしたりして」
「それだけは無いとわたしは思う」
「どうして?」
「判るんだ。顕さんはそんな強引なことはしないって」
そう、今なら判る。顕さんは人の嫌がるような事を強引にはしない人だと。
食器は綺麗に片付いた。流しの回りを拭いて磨き上げる。
「綺麗になった。これならおばあちゃんも喜ぶだろう。歳を取ると細かい所まで見えなくなってるから、磨き落としがあるんだ」
そうなのか。わたしは年寄りと一緒に暮らしたことが無いから、そんな事は判らなかった。
「お腹がこなれるまでテレビでも見ようか」
顕さんはそう言ってくれたけど、それなら顕さんの部屋にあった落語が聴きたいと思った。
「落語を聴きたいな。部屋にあったやつ」
「ああ、俺のじゃなくてね」
「駄目?」
「構わないよ。何がいい?」
「見て決めたい」
一緒に部屋まで行って、わたしは棚を眺めていた。
「これがいいな」
わたしが手にしたのは古琴亭志ん夕という人の「宮戸川」という噺だった。
「大師匠のだな。知っていた?」
「ううん。知らなかった。亭号が同じだから関係はあるかなとは思ったけど」
どうやら、顕さんこと古琴亭小鮒さんの師匠の師匠らしかった。後で知ったのだがミスター落語とまで言われた人だったそうだ。でも六十三歳でガンで亡くなってしまったそうだ。勿論顕さんが今の師匠に入門する前の事だ。
顕さんはわたしが選んだCDをプレーヤーに掛けてくれた。出囃子とともに再生が始まった。顕さんのベッドに座って噺を聴く。
「え〜男女の縁というものは実に不思議なものでして……」
マクラが始まる。なんと言うか噺を始めただけでその場の空気がパーッと明るくなった気がした。
「凄い! この人凄い!」
思わず口に出してしまうと顕さんが
「やはり判るんだね。そうなんだ。凄いんだ」
この噺は……将棋で帰りが遅くなって締め出しを食った小網町の半七は、霊岸島の叔父さんのところに泊めて貰おうと思っていると、向かいのお花もカルタで遅くなり同じように閉め出されてしまいます。お花は叔父さんの所に一晩泊めて貰えないかと頼むのですが、半七は早合点の叔父さんだから嫌だと断ります。お花から離れようと駆けだしていると、お花の方が速く、脇を走って追い越して、一緒に叔父さんの所に着きます。
飲み込みの良すぎる叔父さんは、案の定お花と半七をいい仲と勘違いして、二階に上げてしまいます。
しかたなく背中合わせで寝ることにしましたが、背中を向け合っていたのですが、折からの激しい落雷が近くに落ちたので、驚いてお花はが半七に抱きつきます。真っ赤な緋縮緬の長襦袢から伸びるお花の真っ白な脚。それを見た半七は思わず……この先は本が破れて判りませんでしたと下げていた。
「面白かった」
わたしの感想を聞きながら顕さんはCDをしまうと、わたしの隣に座り直り抱き締めて口づけをした。わたしはからだの力が抜けてしまい、もう何も出来なかった。
「わたしお風呂入ってないから汚いよ」
出来ればシャワーでも浴びて綺麗な体でしたかった。
「二人の間には汚いものなんて無いんだよ。気にしなくても良いよ。里菜の匂も何も全てが今日は俺のものだから」
「ホント?」
「ああ、嘘なんか言ってどうするのさ」
着ているものを脱がされてお互いに一糸まとわぬ体になった。
「すごく綺麗だよ」
顕さんがそう言ってくれた。それが嘘やお世辞では無い事がわたしには理解出来た。顕さんんで良かったと思った。
その夕、わたしと顕さんは身も心も一つになった。痛かったけど、それを上回る幸福感がわたしを包んでいた。幸せだと思った。
その後一緒にお風呂に入った。さっき「二人では入れない」と言っていたが、それは湯船のことだった。流し場は二人で入れる広さだった。さっきはベッドの上では裸を見られても恥ずかしくなかったが、今は顕さんの目の前で裸を晒すのが、何故か少し恥ずかしく感じてしまった。
お風呂から上がって冷たいものを口にする。隣には最愛の人が居てくれる。こんな幸福感は今まで感じたことが無かった。その後、顕さんのベッドで腕枕をされて眠りに着いた。ドキドキして中々寝付かれないわたしの瞼に顕さんが軽くキスをしてくれた。安心感を感じて、そうしたらいつの間にか眠りについていた。
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