第2話

 日曜日は朝からいい天気で、わたしもいつになく早起きした。LINEで翠と時間の打ち合わせをする。わたしは市民会館の近くで待ち合わせしようと考えていたのだが、翠は

「色々と訊きたいから家に迎えに行くわ」

 そう言って来た。何を訊くのだろうか?

 落語のことなぞ訊かれても、わたしが答えられるはずがないじゃない。落語なんてろくに聴いたことないんだから。じゃあ小鮒さんのことかしら?

 これも大したことは答えられない。だってこの前少しだけ話をしただけだからだ。ま、いいか、考えても仕方ない。わたしは顔を洗いに洗面所に降りた。

 朝食を食べ終わり、出かける支度をする。支度と言っても何を着ていくか服を選ぶだけなのだけどね。スリムのデニムにボーダー柄のニットセーターに紺色のジャケットにした。落語会だからこれで良いと考えた。

 落語会は十一時開場で開始は十二時からだ。支度が終わってリビングでテレビを見ていたら玄関のチャイムが鳴った。

「翠ちゃんじゃない?」

 母もそう思ったようだった。立ち上がって玄関に行きドアを開けるとやはり彼女だった。

「少し早かったかな」 

 翠の言葉に時計を見るとそうでもなかった。

「ちょうどいいと思う」

「行く?」

「行こうか」

 上がってる暇はないので翠の提案通りに行くことにした。

「じゃ行って来るね」

「行ってらっしゃい」

 母の言葉を背に受けて玄関から車庫に回る。バイクの傍に置いておいた翠用のヘルメットを手渡す。

「今日も安全運転でね」

「当たり前じゃない」

 自分もヘルメットを被りキーを挿して撚る。クラッチを握りニュートラルになっているのを確認して、右側のキックペダルを踏み込むと一発でエンジンが掛かった。セルを回しても良かったのだが今日はキックで始動したかったのだ。

「乗って!」

 わたしの声で翠は後ろのシートにまたがる。今日の翠の格好はモスグリーンのワンピースに薄いグレーのカーディガンだ。スカートの下にはスパッツを履いている。

「ちゃんと捕まっていてね」

「大丈夫! 毎度だから」

 翠の声を背中で聴いてスロットルを回して走り出す。ギアを上げて加速して行く。風が気持ち良い。やはりバイクは温かい季節の乗り物だと実感する。

「気持ちいいね」

 翠も同じことを感じていたようだった。

 バイクに乗るようになってからは、雨さえ降っていなければバイクで出かけることが殆どになった。それまではバスとか鉄道だったけど、鉄道は東京近郊とはいえ地方都市に住んでるとあまり乗らないし、バスはバイクに比べればかなり不便だ。

 日曜なので道は空いている。特別飛ばす方では無いし、百二十五ccに二人乗りなら流れに乗って走るのが似合っている。

 さほど時間もかからずに市民会館に到着した。バイク置き場にバイクを停めて二人のヘルメット掛けにそれぞれのヘルメットを掛けた。

「あ、あそこに看板が立っている」

 翠に言われて指を差す方を眺めるとたしかに白い立て看板が立っていた。

「なになに? 古琴亭小鮒。これが里菜の彼氏か」

「ちょっと彼氏なんかじゃ無いわよ。単なる知り合いよ」

「そう、なんだ。他には誰が出るのかしら。ええと 三圓亭袁市、宝家馬富って誰も知らない」

「当たり前じゃない。今度二つ目というところに上がったばかりだそうよ。この前までは前座だったそうよ」

「なんだ。それじゃ仕方ないわね」

 正面玄関を入ると「小ホールはこちら」と書かれたプレートがあった。その指示方向に進むと左手に入り口があった。扉が開かれていて、出囃子というのだろうか、笛や太鼓の音楽が流れていた。

 入り口をくぐると席は百五十席ほどだろうか、舞台もしつらえており、そこには座布団と噺家の名前が書かれた立て札が立っていた。あとで「めくり」と呼ぶのだと教えられた。

 まだ時間が早いのだろうか、半分も人は埋まっていなかった。

「空いてるね」

 翠が少し不安げな声でささやく

「うん。人気無いのかもね」

 考えてみれば、そうだろう。この前に噺家としてやっと歩き出した三人なのだ人気などある訳がない。

「どこに座ろうか?」

「どうせなら真ん中がいいよ」

「真ん中? 里菜って意外と大胆なのね」

「違うわよ。どうせならいい席で見たいじゃない」

 わたしと翠は開場の真ん中の特上席に座った。後で、落語を聴く時はもっと前の方が噺家の仕草や目線も感じることが出来るので、そっちの方が良いと知った。

 人が少しずつ入って来て、段々と席が埋まって行く。緞帳が一旦下げられた。席は大凡半分ほどは埋まっただろうか、流れていた出囃子が止んで、「チョーン」と拍子木の音が響いた。

「本日はご来場ありがとうございます。これより『若手三人の会』の第一回落語会を開催致します。まずは、三圓亭袁市、宝家馬富、古琴亭小鮒ご挨拶申し上げます」

 緞帳が上がると高座の前に三人の噺家が並んで座っていて頭を下げていた。これが俗に言う「口上」と言うものだと思った。同じようなものをテレビで見たことがあった。

 三人のうちの一番左に座っていた噺家が顔を上げた。小鮒さんだった。

「本日は我々『若手三人の会』にご来場くださり、ありがとうございます。我々三名は師匠は違いますが入門も同時期で、修行も同じ時期でございました。そして揃って二つ目に昇進致しました。そこでこのような落語会を開催する運びとなりました。今後も長く続けて行く所存でございますので行く末長くご贔屓を賜りたいと存じます。どうか宜しくお願い致します。それでは各人ご挨拶申し上げます。まずは、三圓亭袁市から」

 三圓亭袁市と紹介された噺家は小鮒さんより少し大柄で年齢も上の感じがした。

「三圓亭袁市(さんえんてい、えんいち)と申します。社会人を経験しておりますので他の二名より少しトウが立っていますが、心は少年でございます」

 そんなことを言って笑いを取っていた。次が宝家馬富という噺家だった。

「え~宝家馬富(たからや、ばとう)と申します。出来が悪かったら、どうか罵倒してください」

 この人も笑いを取っていた。何だか口上と言っても堅苦しいものではなく楽しかった。

 最後が小鮒さんだった

「古琴亭小鮒と申します。実はこの地の生まれでございまして、その縁で今日はここで落語会を開かせて戴きました。もうね、親戚や親類総動員でございまして、電話でお願いするのが大変でした……なんて。まあ、ありがたいことに高校の時の仲間も来てくれたので嬉しい限りでございます。今日は精一杯やらせて戴きます。どうか宜しくお願い致します」

 チョーンと拍子木が鳴って三人が頭を下げて拍手の中緞帳が降りた。

「宝家馬富さんて人。結構いいかも」

「え? まだ噺聴いてないじゃない」

「違うわよ外見のこと」

 わたしは正直、翠のこんなところが羨ましかった。明るくて開放的で両方ともわたしには無いものだった。

「じゃあ、アタックしたら? 小鮒さんに言えば連絡先ぐらい教えてくれると思うわよ」

「そうしたら里菜は小鮒さんと付き合っちゃえば?」

「そんなこと出来る訳ないじゃない」

「どうして?」

「だって、彼らは修行中なのよ」

「修行中だと恋愛しゃいけないの? 噺家さんて年寄りになるまで結婚も出来ないの? そんなのおかしいじゃない」

 筋を通して考えれば、翠の言うことが正しいのだが、わたしは何だか違うと感じていた。でも、後で判ったことだが噺家のほとんどは二つ目のうちに結婚して子供も設けているのだった。

 やがて出囃子が鳴り出した。緞帳が上がって出て来たのは三圓亭袁市さんだった。彼はマクラをふると噺に入って行った。植木屋さんがお屋敷の旦那夫婦のやり取りに感心して自分の家でもやりたいと言い出して失敗する噺で後で「青菜」という噺だと知った。

「結構面白いわね」

 下げを言って下がると翠が拍手をしながら感想を言った。わたしも感心して聴いていた。前座から上がったばかりだと言うから、どんな噺を聴かせるのかと思っていたのだが、ちゃんとしていたので「悪くない」と思った。

 次が翠の好みの宝家馬富さんだった。翠の体が少しだけ前のめりになるのが判った。

 馬富さんは座布団に座ると扇子を前に置いて頭を下げた。

「え~ようこそのお運びでありがとうございます。三人揃っての初めての落語会でして、今日は一人一席なんですが二回目以降はもっとやろうと考えておりますので、宜しくお願い致します。まあ、今は流通システムが発達したりして季節以外のものも手に入りますが、昔はそうは行きませんでした。その時期のものしか手に入りません。真冬に胡瓜を食べたいと思っても駄目なんですね」

 挨拶を終えると早速噺に入って行く。翠はかなり真剣に聴いている。最初の袁市さんの時とは明らかに態度が違う。翠よ馬富さんは、そんなにあんたの好みなのかい? そうツッコミたくなった。

 噺は真夏の暑い時期にみかんが食べたいと若旦那が言い出す。若旦那はみかん食べたさに病気になる始末。昔の若旦那って弱いんだと感心してしまった。大旦那は息子可愛いさに番頭さんに何としてでも、みかんを見つけて来るように命令する。しかし、これ当時としてみれば、かなり無茶な話で番頭さんも困ってしまう。しかし悲しいかな宮仕え。江戸の街を探し回る。やっと見つけたのが神田の青物市場にある老齢の青物問屋。そこになら、あるかも知れないと言われる。そこで尋ねてみると、確かにしまってあるので探して見るという。問屋の番頭さんはみかんがしまってある蔵を幾つも開けてやっと一つ無事なのを探します。殆どは蔵ごと腐ってしまっていましたが、幾つか目の蔵に無事なのが見つたのだ。値段を尋ねると「千両」とのこと、呆れて店に帰り大旦那に報告すると「安い! 千両で息子の命が買えるなら安いものだ」と言って千両持たされる始末。

 先程の青物問屋で千両でそれを買い求め店に帰りみかんを渡すと若旦那は十あった房のうち七つを食べて残りの三つを

「お父っあん。おっ母さんにも食べさせておくれ、残りの一つはご苦労だったお前がお食べ」

 そう言われて、みかんを三房持って若旦那の部屋から出て来る。だけど……。

「千両で十房、ここに三房ある。するとこれが三百両。来年暖簾別けで貰える給金が五十両ほどだろうなぁ~」

「そう考えた番頭さん。そのまま、みかん三房持ったまま行方が分からなくなりました」


 馬富さんが下げを言って頭を下げた。一斉に起こる拍手。翠は夢中で拍手している。

「良かったねぇ」

 せっかく喜んでいるのだから、わたしは何も言わなかった。

「ねえ、終わったら楽屋を訪ねようよ」

 まあ、わたしは最初からそのつもりだった。改めてバイクのお礼もしたかったからだ。

 でも、わたしも少しだけだが期待が膨らんでいた。

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