1.1 Bar C2

7月末日

「・・・・疲れた。」

 滝藤たきとうさくらは渋谷センター街を歩いていた。朝早くから仕事をこなして、友達と会う約束をしていたが、ドタキャンをされた。

 仕事の愚痴を聞いてもらいたく、本当に辛い悩みを抱えている状況である。

 一人でこのまま帰るには少し寂しい。どこかでお酒でも引っ掛けていこうかと考えて歩いていた。

 だが、人混みも多く、キャッチや酔漢から声をかけられて迷惑であり、そいつらから発するあらゆる匂いのおかげで渋谷はあまり好きではない。まして、7月で今年の最高気温を更新した今日なんて、人の汗の匂いも感じ取れるくらいに不快だ。


 やはり帰ろうともと来た道の反対側の道路を歩いていると、キラキラ光る看板の多い街中でふと目に留まったピンク色の文字で書かれた看板を見つけた。店の名前はC2シーツー

「"C2"。コマンドアンドコントロール?」滝藤はくすっと笑った。

 コマンドアンドコントロールとはボットネットや感染したコンピュータが接続されるネットワークに対して、不正なコマンドをリモートから頻繁に送信するために利用されるサーバを表す。C2と略されることもある。

 滝藤は日々の業務ではいわゆる情報セキュリティエンジニアとしての仕事を担っている。C2という言葉を知らない情報セキュリティエンジニアはいないだろう。

 その店は人一人が通れる程度の細い階段が地下へ続く。薄暗く中はよく見えないため恐る恐る下るしかない。入り口の立て看板のイベント告知を読み上げる。

「"Hack into Japan"。情報セキュリティに関するなにかのイベント?それともアンダーグラウンドなイベント?」

 いろんな妄想をしてると興味が湧いてくる。イベント参加の費用も千円。覗いて、飲むだけ飲んでつまらなければ帰ればいいや、と滝藤は怖さと楽しさの両方を持って暗闇へ続く階段を下っていった。


 頑丈な二重扉には屈強そうなガードマンなのかドアマンなのかわからないが二人立ち塞がっている。

「身分証を提示しろ。」

 そう言われて、運転免許証を提示すると、中に通してくれた。どうも未成年は不参加のイベントのようだ。

 受付で千円を支払って、左手の甲にブラックライトで光るタイプのスタンプを押される。入退室確認に使うためのもののようだ。

 ドリンクチケットを貰ったので、ドリンクカウンターでカシスオレンジを注文し、サーブされるのを待っていると、奥から聞こえてくるのはいくつかのIT専門用語だった。

「・・XSSクロスサイトスクリプティング・・WAFウェブアプリケーションファイアウォール・・HTTPリクエストヘッダー・・バイパス・・」

「ここはやっぱり情報セキュリティのイベントが行われているみたいね。」

 滝藤はそう確信した。店の柱にも今日の進行表が書かれて、タイトルには自分の理解に及ばないようなIT専門用語が並んでいる。ちょうど今は3番目の方の発表のようだ。

 中では大きなスクリーンが一枚、プロジェクターでスライドが表示されており、パイプ椅子に座って手帳にメモを取る人、テーブルを囲んでノートパソコンを開いて座っている人、立ちながらスマートフォンを片手に観ている人、彼らはみな聴講者のようだ。


 滝藤はあたりを見回して、スクリーンが辛うじて見える位置で柱にもたれ掛かりながら、カシスオレンジを飲む。

「以上で発表を終わります。ご静聴有難うございました。」

 会場の人々から拍手が湧く。結論しかまともに聴くことが出来なかった滝藤は、グラスをペチペチ叩くかのように小さく拍手してみせる。

 ステージの上では、次の講演者に交代するための準備が進められる。たまにはこういうイベントも悪くはない。

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