エピローグ 明日はきっと晴れになる



 命の価値など分からない


 だから生きよう


 自分の価値が分かるまで


 生まれた意味を知れるまで






 「顔色が悪いよ。……ははあ、なるほど。クロウ君は一昨日の東京でのデモが中止になったのを嘆いてるんだね?」

 少しだけ遅れていつもの居酒屋にやってきた若宮四季は、僕の正面の席に座りそう言うと、店員にジントニックを注文する。

 時給千円で働いている若い男が異様に大きな声で了承を告げるのを待って、僕は「違うよ」と苦笑いをしてみせる。

 「……来週、妹が来るんだ」

 「え? あの可愛い子が?」

 「そう」

 先に注文していたチューハイを一口飲んで、続ける。

 「京都観光がしたいとかで、三日も僕の下宿に泊まるんだ。……三日もだぞ? 三日泊まるわけだから実質四日だ」

 「四日も可愛い女の子と二人きりってことでしょ? 何が不満なのさ」

 「気まずい……」

 あの狭い下宿の中で僕とひなこが二人きり。四日間、寝食を共にする。きっと僕が街を案内することになるだろうから、昼間もずっと一緒だ。今から胃が痛い。

 将棋の対局中は間が持つが、まさか、延々二人で将棋を指すわけにもいかない。多少は話さないといけないわけであって、ひなこと話せそうな話題を手帳に書き溜めている最中だったりする。

 そんな僕の心労が分かるはずもない四季は、

 「あの妹ちゃん、クロウ君のこと大好きだと思うけどなあ」

 なんて、馬鹿なことを言っている。

 嫌いではないと信じたいが、大好きはありえない。

 「兄貴のこと大好きな妹なんてラノベの中にしかいないんだよ」

 「いやでも絶対好きだと思うんだけどな」

 絶対って……。

 お前、一回実家に遊びに来た時に会っただけだろうが。

 「まあでも、そんなに気分が沈んでるなら、明日バッセンでも行く?」

 「悪い。明日はお見舞いがあるんだ」

 「お見舞い?」

 運ばれてきたグラスを礼と共に受け取り、一気に半分ほど飲み干した四季はそんな風に鸚鵡返しをする。

 「ああ。友達の……親友の妹が、ちょっと怪我しちゃってさ。入院してるんだ」

 「ふーん……。結構、酷い怪我なの?」

 「いやまあ……どうだろ。全治何週間かは分からないけど、後遺症はないみたいかな。多少、痕は残るだろうけど」

 「女子の柔肌に傷が付いて、痕が残ったんだ。そりゃ君は責任取らないとね」

 出し抜けに言われてアルコールを吹き出しそうになる。

 「僕が? なんで?」

 「え、君が傷付けたんじゃないの? そう顔に書いてあるけど」

 「……そうかな」

 確かに僕を庇って傷付いたのだから、弥生ちゃんの怪我は僕のせいであるとも言える。

 病室を訪れると弥生ちゃんは笑顔で迎えてくれるが、本当のところはどうなのだろう? 僕を恨んでいるのではないだろうか? 自分の傷の原因となった僕を――結局、飛鳥を止められなかった僕を。

 僕はデモを止めただけ。

 飛鳥のことは結局、止められなかった。

 ……彼女の消息は杳として知れない。

 「まあ、こういう思考自体が男性的だなーって、ジェンダー論的にはなるのかな? 『俺が責任取る』ってよく聞く言い回しだけどさ、普通に考えたら、相手を傷付けた場合には賠償が先だと思うし。しかも責任の取り方が付き合うとか結婚とか、猶更訳分かんないよね」

 「それもそうだ」

 「だから、さっきのは冗談だよ。勿論、『責任取って結婚してください』って言われちゃったら断れないとは思うけどね」

 一杯目のジントニックを飲み干した四季はウインクして追加注文。相変わらずよく飲む男だ。

 しかし弥生ちゃんからそう言われてしまった場合、僕はどうすればいいのだろ――なんて、ありえない夢想に浸ってみる。これを機にお付き合いを、となれば嬉しいが、そんなことはありえない。

 あれくらい可愛い子ならば引く手数多だろう。僕が隣に立つことはありえない。ひょっとしたら既に彼氏や好きな人がいるかもしれない。

 「……ああ、そうだ四季。お前に訊きたいことがあったんだ」

 「面白い話?」

 「多分、僕達にとっては」

 そう、つまり僕達にとってお馴染みの話題――社会学についての話だ。

 「今の社会には数え切れないくらいの問題があるよな。じゃあ……世の中って、どうやったら良くなると思う?」

 「んー、どれくらいのレベルで? ミクロ? メゾ? マクロ?」

 「日本社会、くらいのレベルで」

 「まあどれでも僕の答えは一緒なんだけどね」

 そう前置きしてから四季は続けた。

 「一人ひとりが希望と善意、後は少しの知性を持って生きていけば、きっとすぐ良くなるよ」

 「それだけでか?」

 「それだけでさ。誰もが社会について考え、意見を出し合い、討議し、そうして民意を形成する……。ちょうど、この間の定期試験でハーバーマスの公共圏についても出ただろう? あんな感じ」

 一人ひとりの人間が社会問題について知り、学び、考えていけば、社会は良くなる。

 なるほど。確かにそれだけのことなのかもしれない。そして、たったそれだけのことができないからこそ、この社会は悲しみに溢れている。

 「社会の問題は全員で考えるべきだ」と主張した僕に対し、「それが理想論でしかないからこんなにも苦しい」と飛鳥は反駁した。

 ……僕は、その言葉に反論できなかった。

 「……それは理想論だ、って言われたら四季はどうするんだ?」

 「だからどうしたの?って言う」

 「え?」

 「理想論なんてことは僕だって分かってるよ。だから、現実をその理想に少しでも近付ける為に頑張るんでしょ? まさか何億年後かに現れる弥勒菩薩様みたく、今すぐこの世全てを救えるとでも思ってたの?」

 当たり前のように四季はそう言った。

 「いや、ああ……そうか。そりゃ、そうだよな」

 「理想はただの理想でも、皆がそれを信じれば、いつかは現実になる。予言の自己成就ってやつ」

 そう、理想はただの理想だ。

 けれど、それを目指して少しずつ進んでいくことはできる。

 「明日はきっと今日より良い日になる」と子どものようにそう信じ、行動していくことで、それは現実になっていく。

 「難しいよな、社会って……」

 「難しいから、勉強するんでしょ?」

 そんな風にいつもの結論に辿り着き、僕達二人は乾杯をする。

 明日が良い日になるように祈りながら。





 高く上った太陽が古都を照らしている。

 病院から市内に戻ってきた僕は市バスを乗り継いでそこへと向かう。

 日活映画館のすぐ近く、三階建てのビル。

 すっかり錆び付いた階段を軋ませながら上り、最上階へと辿り着く。

 そして、僕はドアをノックする。

 「お前か? 入れよ」

 本当に誰か分かってんのか?と疑問に思いながら扉を開ける。

 「クロウ、昼まだだから作ってくれよ」

 カーテンの向こう、裸のままで鍛錬用のマットに寝転がっていた彼女が言う。

 「いいから服着ろよ、狼子さん……」

 「だって暑いじゃん」

 「エアコン点ければいいだろ……」

 冷蔵庫の扉を開けて、何があるのかを確認していると彼女が問い掛けてくる。

 「なあ、クロウ」

 「なんすかー」

 「お前、元の名字はなんて言うんだ? 旭ヶ丘は引き取られた家の名字だろ?」

 何も食材が残っていないことに嘆息してから答えた。

 「菊屋ですよ。菊屋久良」

 「……へえ。じゃあ、あたしとお前で『菊と刀』じゃん」

 「『菊と刀』読んだことあんのかアンタ」

 ともあれ、かくもあれ。

 四条飛鳥の一件を完全に終えることができなかった殺し屋は、未だに『誰も殺さず、極力傷付けない』という僕との契約を守っている。

 そうして僕は相変わらず四百万強の借金を抱えて、彼女の世話をしている。

 明日がどうなるかなんて、分からない。

 それでもやはり、明日はきっと良い日になると信じながら、精一杯、生きていくしかないのだろう。




おわり


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