第六章 声と手と



 零れた涙を言葉にし


 疼く痛みを声にして


 想いは旋律、願いは鼓動


 今日の向こうの明日へ向かう





 静まり返ったライブハウスに歌声が響いていた。

 ステージの中央。スポットライトの下。スタンドマイクの前に四条飛鳥がいた。昨日と同じように、この空間の支配者として立ち、旋律を紡いでいた。

 眼帯とエクステは昨夜と同じもの。変わったのは羽織っているブルゾンと、その手にギターがないこと。そして、彼女の歌うのメロディーが静かで、悲しげだったこと。

 その正面。客席の最前列にはラフな格好の合場佐が立っていた。彼は黙って飛鳥を見上げていた。恐らくは――彼女の、最初のファンとして。



 「―――飛鳥!!」

 「―――お姉ちゃん!!」



 僕と弥生ちゃんがほぼ同時に叫ぶ。

 飛鳥はボク達に目を遣り、歌声を止めた。

 「……来たね、二人共。折角なんだから、隆平や軽音楽部の後輩達も呼べば良かったかな」

 彼女の言葉が喉からの肉声とスピーカーからの音声の二重になって響く。歌声と同じく、力強い意思を秘めた声が。

 思わず飛鳥の元へ走り寄ろうとした僕達二人を制し、斉藤狼子が前に出た。

 今の彼女の腰には二振りの刀が差されている。特製らしい刀用ホルスターにあるのは白樫の木刀と飾りのない日本刀。

 流麗なほど手慣れた仕草で真剣の方を抜刀し、脱力し、下段に構えた。

 「おい……!」

 「安心しろ。あのむっつりもお前の友達なんだろう? ……殺さないよ」

 小声でそう告げてから斉藤狼子は声を張り上げて言った。

 「おい! 四条飛鳥!」

 「……なんだい、斉藤狼子」

 斉藤狼子の狼の瞳と四条飛鳥の残った片目。

 二人の視線が繋がった。そこには紛れもない敵意があり、けれども、何故か好意が見え隠れしているような気がした。

 「あー、お前。二つ名はあるのか?」

 「二つ名だって?」

 「ああ。私達裏家業の人間、その中でも特異能力者は全員二つ名を持っている。誰が決めたわけじゃあないんだけど、人ならざる力を振るう様を見て、自然と周囲が付けるんだ。ソイツの在り方を象徴する異名を」

 「『壬生の白狼』っていうのがそれかい?」

 「ああ。どうも私の戦い方が新撰組――左片手突きを得意とした斎藤一のそれに似ていたことと、決して己の道を譲らない姿がニホンオオカミの伝承と重なったから、らしい。あと、目が琥珀色だったせいかな」

 佐が斉藤狼子の前、飛鳥との間に割って入るように立ち、バンテージの巻かれた両の拳を上げた。左右の拳を顔の前に揃え、構える。左手はこめかみに。右の手は顎の位置に。オーソドックスなボクシングスタイル。

 「……へぇ。イカしてるな」

 「イカれてる奴等のイカれた慣習さ。で、お前にはあるのか?」

 「いや、ないよ。ボクのチカラのことを知っているのは『フリーダム・ライダーズ』のメンバーと、あとはボク達のパトロンくらいのものさ。ああ、でも……ネットサイトにこんな風に紹介されたことはあったかな」

 一拍置いて。

 酷く気取って、飛鳥は言った。

 「―――『エイトビートのセイレーン』ってね」

 「……オーライ、最高だ。刻んだぜ、四条飛鳥。お前の名も、お前の歌も」

 「光栄の限りだね」

 二人は笑った。

 何処か普通や平凡といった道から外れた者だけが見せる笑みで。

 「……行け、お前ら。飛鳥と話してこい」

 「佐。……ちゃんとボクを守ってくれよ」

 斉藤狼子と四条飛鳥がそう口にした瞬間、僕と弥生ちゃんはステージへと走り出していた。

 佐は僕達の方に目を遣りもしなかった。彼も信じているのだろう。緑化公園のステージでボーカルを信じて待つ『フリーダム・ライダーズ』の二人と同じように、四条飛鳥が僕達に屈することはないと――心が折れることはないと、信じているのだ。

 ステージ上。

 あまりにも熱いその場所に上った僕達は飛鳥と対峙する。

 「飛鳥……!」

 「お姉ちゃん……もう、いいでしょ? 帰ろうよ」

 血の繋がった妹の呼び掛けに飛鳥が答えることはない。ただ黙ってブルゾンの懐から黒光りする凶器を取り出すことで応じた。

 ポリマーフレームの自動拳銃。奇しくも僕が長谷さんの事務所で見たものと、同じ型。

 「……動くな、二人共」

 「嘘……嘘でしょ? お姉ちゃん……!」

 「実銃じゃない偽物って意味じゃ、『嘘』になるのかな。でも、出力を何倍にもしたモデルガンで鉄球を撃ち出すんだ.。人間くらいは撃ち抜ける」

 「お姉ちゃん、帰ろうよ……! 帰って、一緒に暮らそう? 広芝のおじさんの家がずっと揉めてたって、私知ってるよ? あの家に帰りたくないって言うなら、私と……!」

 「黙れ」

 飛鳥は歩み寄ろうとする妹に狙いを付けたまま、ゆっくりと後ろに下がっていく。その向こう、舞台袖は用具倉庫、更に関係者入口へと続く廊下へ繋がっている。

 「……飛鳥。お前、僕達と話そうと思ってたんだろ? 話す為に僕達を待っててくれたんだろ? あのベースの人が言ってたよ。だったら銃を下ろせ。こんな状態じゃあ話せる内容も話せない」

 「ヒサ、勘違いするなよ。ボクはキミ達とゆっくり話すつもりはない。何よりステージに遅れるのは困る。ファンを待たせたくないからね」

 視界の隅では客席で斉藤狼子が合場佐と相対している。じりじりと、焦らすように距離を計る斉藤狼子。素手に対し日本刀という圧倒的に有利な武器を持ちながら彼女は打ち込もうとしない。

 待っているのだ、僕の言葉を。

 僕が飛鳥を説得して、佐も飛鳥が諦めたことで拳を下ろし、デモは暴動へと発展しない。そんな、誰も血を見ず終わるような展開を待っている。殺し屋であり武道家である自分が刀を振るえば必ず誰かが血を見ることになるからと、ギリギリまで僕に期待し、待つつもりなのだ。

 なら、僕はその想いに応えなければ。

 それが飛鳥を止めることにもなるのだから。

 「話すつもりがないって言うなら、なんでこんなところにいたんだ。僕達に待ち伏せされてることも承知で。それは、僕達と話したかったからじゃないのか?」

 「違う――と言い切れないのが悲しいな。どうしてキミ達を待ったのか、正直、ボクにも分からない。でも、多分……。最後に、キミ達の顔を見たかったのかもしれない。たった一人の妹と、掛け替えのない親友の顔を」

 「最後なんかじゃない。今日のデモがただのデモで終われば、最後になんてならない。『OFR』が今までやったことについてちゃんと謝って償えば、全部元通りだ」

 「いいや、最後だよヒサ。だって、ボクはもう理解(わか)ってしまったんだから。ボクはもうあの頃とは違う。この街で、この国で苦しむ人達の声が聞こえるんだ」

 飛鳥はあの表情を見せる。

 苦痛と恍惚、情熱と冷静、自己と他者、大人と子どもが入り混じり混濁した、矛盾した微笑を。

 思えば、飛鳥はあの頃から明確に矛盾していたのだ。カッコいい弱虫、イカした意気地なしでありたいと語っていた高校時代の彼女。あの頃の飛鳥は他人の気持ちを分かりたいと語りながら、結局は――そう、結局は他人に自分の気持ちを分かって欲しかった。その想いを歌にしていたのだ。

 早くに両親を失くし、妹と二人で世界に取り残されたこと。引き取られた家の家族は毎日のように喧嘩を繰り返しており、そこに家庭としての温かさは存在しなかったということ。辛さに耐える為に必死で「自分は他の奴等とは違う」と気取って、更に孤立を深めていったこと……。

 そんな苦しみと悲しみが込められていたからこそ、彼女の歌は美しく、そこに少しでも共感することができた人間は、そんな苦痛を抱えながらでもステージに立つ飛鳥に自然と勇気付けられた。僕だってそうだった。彼女の歌に何度も助けられた。

 でも、今の彼女は違う。

 違った。

 「……飛鳥。お前が何を言っているのか、一晩考えてやっと分かったよ。お前が『他人の痛みが聞こえる』と語った時、僕は精神病の症状じゃないかと疑った。思考吸入とか想考奪取みたいなね。でも、違ったんだな」

 そう、今の彼女は本当に他者の苦しみが分かっている。

 痛いほどに。自らに傷を負うほどに。

 「お前のその状態、精神医学じゃ『外傷性逆転移』って言うんだよ。感受性の高い人間が深いトラウマを持った人間と接する中で、その被害者と同じような症状が出ようになる……」

 二次受傷、共感性疲弊とも呼ばれる現象だった。

 他人のことを想い、感じる、優しい人間にしか起こり得ない悲劇。

 「飛鳥、お前はアーティストとしての鋭い感性で、自分のファンの心の傷に心の底から共感し、理解してしまったんだ。だからファンの心情を――今の若者が置かれた厳しい状況を悲しみ、憎み、恨んでいる」

 「それがどうしたって言うんだい? 他者の気持ちを理解しようとするのは人間として当然の行動だ。そして、仮にそのことで傷付いたとして、だからなんだ? 現に彼らは誰かの助けを必要としていて、それは他人事じゃない、ボク達の問題でもあるんだぞ」

 「……お姉ちゃん……!」

 静かな声音だった。

 静かながら、彼女の強い怒りと悲しみが込められた言葉だった。

 泣きそうになりながらも僕は返答する。

 「……ああ、そうだな。本当にそう思うよ。僕達くらいの世代はさ、生まれてこの方ずっと不況で、それなのに大人から『今の子は楽だ』とかずっとあーだこーだ言われてさ、その割にいつの間にか、普通に就職して普通に結婚して普通に子どもを産み育てるみたいな、そんな普通すら難しい世の中になってたんだ。普通の幸せどころか、ビルから飛び降りたり電車に飛び込んだり、そんな奴ばっか増えてる気がするよ。知ってるか? 僕達くらいの年の奴らの死亡原因の一位って、自殺なんだぜ? 僕の大学の先輩にもいるよ。奨学金借りて大学行って必死に就活して馬鹿みたいに働いて借金返して、それで、それで――最後には公園で首吊った人とかさ」

 「だったら、」

 「―――だとしても! だとしても、それはお前が一人が背負うべきことじゃないんだよ!」

 声を張り上げ、真っ直ぐに彼女を見据え言った。

 四条飛鳥の友達として。

 彼女のことを想って。

 「お前一人が僕達のこと全部背負う必要なんてない!一人で潰れる必要なんてない!!」

 「一人じゃないさ――僕には『フリーダム・ライダーズ』と、そのファンがいる!」

 「それでも足りないんだよ! お前の歌がどんなに素晴らしくても、それで世界中の全員を救えるわけがないんだ! お前だって分かってるだろ? 国の、社会の問題は、日本中の全員で考えて背負わなきゃ駄目なことなんだよ! 僕は、」

 そう。

 僕は。



 「お前の気持ちは分かる――でも、知ったことか! 僕は友達として、お前が潰れていくのを黙って見ているつもりはない!!」

 「そんな理想論が――それがただの理想でしかないから、こんなに苦しいんだろ!!」



 飛鳥が引き金を引き絞り、改造モデルガンから発射された鉄球が僕の髪を掠めていった。

 それと同時、客席から金属が何かと何かがぶつかる音が、次いで重たいものが落ちる音が響いた。

 思わず何事かとそちらの方を見た。

 そこには驚くべき光景が広がっていた。

 「……悪い。『万が一の時は私がどうにかしてやる』と言ったが、無理かもしれない」

 斉藤狼子の手に刀はなく、彼女は落とした日本刀の代わりに黙って脇の木刀を抜いた。





 記憶を呼び起こし、視界の端で展開されていた二人の戦いを思い出す。

 僕と飛鳥の口先での戦いが激しくなっていく中、斉藤狼子は一気に間を詰め、上段から佐へと斬り掛かった。

 恐らくそれはフェイクだったのだろう。普通、人間は刃物を持った相手に襲われれば動揺し、身体を硬直させる。その一瞬の硬直の隙を突き彼女は佐の態勢を崩し、絞め技を掛けるつもりだった。

 が――斬り掛かられた佐は真剣での一撃を右腕で受け止め、そのまま刀を弾き飛ばしてみせたのだ。

 「ありえない……!」

 ありえないことだった。いくら佐が元ボクサーと言え、どれほど身体を鍛えても人間の腕は刃物に耐えられるようにはならない。刃物でないとしても、日本刀はその重量だけで一キロある。そんな質量を持った一撃をまともに受け止めれば骨が折れる。

 ありえなかった。

 ありえないことが起こっていた。

 「……あー、私としたことが迂闊だった。『超能力者に長く接した人間は超能力を発現しやすくなる』――それも私達の使う異能の基本的なルールだって言うのに」

 ありえない、常識を超えた力――超能力。

 「まさか、このむっつり君まで能力者だったとはね……」

 佐も、超能力者だって?

 僕が困惑を言葉にする前に佐が叫ぶ。


 「―――行け、飛鳥! もうそろそろ出発しないとライブに間に合わなくなる!」


 その言葉に飛鳥は黙って頷き、僕達を銃で牽制し、身を翻して舞台袖へと消える。裏口からライブハウスを出て公園へ向かうつもりなのだろう。

 飛鳥を追わないと。そうは思うものの、僕は斉藤狼子の方を見てしまう。彼女がいくら優秀な殺し屋だとしても、佐が超能力者だとしたら、もしかしたら、と。

 けれど彼女は僕の視線に気付くと笑ってみせる。


 「安心してよ、クロウ。……お前の言葉は胸に刻んだ。私は道を譲らない。だからお前はお前の我が儘を――意地を通せ」


 それはあの、年相応な、少女らしい、可憐な笑みで。

 ああそう言えば初めて名前を呼ばれたな、名前って言ってもあだ名だけど、なんて場違いにも思い。

 そうして。


 「後は頼む――狼子さん!」


 僕もはじめて彼女の名前を呼んで、弥生ちゃんと共に走り出す。

 飛鳥を追う為に。

 友達を止める為に。





 舞台袖を抜け、その先の倉庫も通り過ぎ、階段を蹴飛ばすように上がって一階へ。廊下を曲がって出演者控室を通り過ぎたところで飛鳥を見つける。


 「―――飛鳥!!」


 鍵を開けるのに手間取っていたのだろう。

 彼女が体当たりをするような勢いで通用口の扉を開いたところで、僕達は飛鳥に追い付いた。

 僕達に気付いた彼女は瞬時に振り返り銃を構える。

 「……ヒサ……。悪いけど、もう行かせてもらうよ。移動時間や道の込み具合も考えるとタスクの言う通り、そろそろ出発しないと」

 「行かせない……。行かせるわけには、いかない……!」

 一キロにも満たない、下手をすれば百メートルもない距離を走っただけだというのに僕の身体は悲鳴を上げていた。久々な本格的な運動に肩で息をする僕とは対照的に飛鳥は呼吸を乱した様子もない。ロックシンガーとしての彼女の体力、情熱を思い知る。

 あくまでも、飛鳥はステージに立つつもりだった。僕達と会ったからと言って、説得に応じるつもりは欠片もなかったのだ。

 「お姉ちゃん……。もう、やめよう? もういいでしょ……?」

 「いいわけがあるかッ! お前みたいな、親が死んだからってだけで大学にも行けない奴をなくす為にも、誰かが動かないといけないんだ! どうして分からない!? 親がどうだったとか家庭がどうだったとか……そんなことで、子どもの夢が奪われていいはずがない!! 子どもが当たり前に生きて、当たり前に暮らすことのできないような、こんな異常な社会は変わらないといけないんだよ!!」

 涙を零しながらの妹の言葉にも飛鳥は揺るがない。心は折れない。

 ただ、そのよく似た瞳を潤ませただけだった。

 考えてみれば当然だ。僕達が飛鳥の為にここまで来たのと同じように――飛鳥は、僕達のことを想って歌を歌っているのだから。

 「飛鳥、そのことには僕だって同意する! この国は変えなきゃいけない。そうしないと、近い将来国ごと潰れることになる。僕だって分かってるんだ!」

 「だったら、」

 「だとしても! お前のやり方は間違ってる!! 辛い境遇に置かれた若者を煽って、暴動を起こして……。そんなことで社会は変わらない! 『ああやっぱり貧しい子どもは育ちが悪いな』って、ただ偏見の目が酷くなるだけなんだよ!」

 「はっ、社会学専攻らしくラベリング理論の講義でもしてくれるつもりかい? 最初はボクだってこんなことするつもりはなかった! 歌で勇気付けられたら、ライブで集まったお金で少しでも良いことができたらって思ってたさ! でも、そんな程度じゃ全然足りなかったんだよ! そんな真っ当なやり方じゃ、ボクのファンすら救えない――だからって、指を銜えて見てろって言うのか!? お前が借金に苦しんでることも、弥生が大学に行けなかったことも……全部仕方ないことで我慢しろって言うのか! いつか誰かが変えてくれる、良くしてくれるって、現れもしない救世主を待ち続けろって言うのか!」

 「違う!」

 「違うものか! お前は諦めたんだ! なまじ頭がいいから、やってもいないうちから世界は変わらないって……ボクは違う! ボクは絶対に――歌うことはやめない!!」

 そう吐き捨てて、飛鳥は扉の外へ出ようとする。

 「―――飛鳥!」

 意識するよりも早く身体が動いた。

 彼女を行かせるわけにいかない、こちら側に留まらせる為に、走り出す。飛び掛かる。

 その瞬間、飛鳥は銃口を向けてこちらをロクに見ることもなく引き金を引いた。

 発砲音が響くと同時、僕の身体に強い衝撃が走った。

 ただ、それは銃弾を受けたそれではなかった。もっと大きな質量が身体を横薙いだ。

 「……あさひ、くん……」

 壁に激しくぶつかったばかりの頭でも何が起こったか一目で理解できた。

 弥生ちゃんが――撃たれていた。

 可愛らしい刺繍が施された白いシャツが、彼女の白い肌が、脇腹を中心として赤く染まっていく。

 僕を庇ったのだ。飛鳥の銃口が僕に向き、引き金が引かれると思った刹那に、彼女は押し倒すようにして僕を庇った。

 僕の代わりに――弥生ちゃんが、撃たれたのだ。

 「や、よい……?」

 当事者である飛鳥も何が起こったのか理解できないようだった。

 いや、理解したくなかったのだろう。きっと彼女も本当に僕を撃つ気はなく、ただの脅しで、それがまさか実の妹に当たるだなんて想像もしているわけがなかった。

 だけど、だからってこんなこと、許せるだろうか?

 「あ、あ……飛鳥ぁっ! これが、お前の歌いたかった歌の結果なのかよ!! 音楽っていうのは誰かを楽しませるものだろ!? 悲しい時や辛い時に歩いていく勇気をくれるのが音楽っていうものだろう!! それなのに妹を撃って、これからも沢山の若者を煽って、傷付けて……それがお前のロックか!! 答えろよ!!」

 取り出したハンカチで傷口を抑えながら訳も分からず僕は叫んでいた。弥生ちゃんに対する心配、目の前で人が死ぬかもしれないという恐怖、撃った飛鳥に対する激怒。綯交ぜになった感情が奔流となって身体を駆け巡り言葉となった。

 対し飛鳥は苦痛と自責に歪んだ顔を――頭を、思い切り壁に打ち付ける。打ち所が悪かったのか、目元が切れたらしい。弥生ちゃんと同じ真っ赤な血が右の頬を濡らす。

 それはまるで――眼帯の下の無くなった瞳が流す、涙のようだった。

 「……そうだ」

 飛鳥は答える。

 血の涙を流しながら、顔を歪ませ。

 けれども、痛みで以て取り戻した覚悟を決して揺るがすこともなく。

 「これが、ロックだ。若者の苦しみや悲しみを……心の叫びを束にして、歌い上げる。それがロックだ……」

 「飛鳥……!」

 「だから、ボクは……! ボクは……歌う」

 飛鳥はそのまま扉を出、走り去っていった。

 もうこちらを見ることはなく、その瞳には恐らく、望む未来しか写っていないのだろう。

 「……行って、あさひくん……」

 「弥生ちゃん! 喋らないで、すぐ病院に連れていくから!」

 傷口を抑える僕の手を存外に強い力で掴んだ彼女は、ふるふるとゆっくりと首を振った。大丈夫だから、と。

 「私なら……平気。大丈夫だから……。救急車くらい、一人で呼べるよ……? だから、お姉ちゃんを……!」

 「でも……!」

 「お姉ちゃんね……本当は、優しいんだ。歌にしかね、興味がないように見えても……ちゃんと、いっだって私のことを……。私のことを、心配してくれてて……」

 彼女の想いの欠片が水滴となって頬を伝っていく。

 あるいはそれは想い出の記憶。

 姉と妹との大切な過去。

 「今はちょっと、混乱してるだけなの……。だから、だからね? あさひくん……。お姉ちゃんのこと、嫌いにならないで……」

 ……ああ、ひなこ。

 僕はお前の表現を褒めたけど、やっぱり、あれは文学的な形容でしかなかったんだな。

 『誰の目にも見えないけれど、本人達には確かに分かる繋がりの名前』――誰の目にも見えない? 嘘言えよ。

 彼女の姉への想いは、こんなにも――目に見える。

 感じられるのだから。

 「……嫌いになんてなるかよ。今更嫌いになんて、なれるか」

 そう呟いて、僕は立ち上がる。

 ―――行かないと。

 四条飛鳥が四条飛鳥である為に沢山の人の想いを背負って歌うと言うのなら。

 僕は飛鳥の友達である旭ヶ丘久良である為に、飛鳥を止める。

 「……連絡先も訊けたことなかったけど、本当はね、私……あさひくんのこと……」

 何か言い掛けた彼女を残し、僕は走り出す。

 飛鳥を止める為に。

 僕達の我が儘を通す為に。






  女は木刀を中段へと構える。

  男の方は変わらない。両の拳を顔の前で揃えたボクシングスタイルだった。

  「真剣は拾わなくていいのか?」

  男、合場佐が問う。

  女、斉藤狼子は答えた。

  「……私は、元はただの剣道家だ。真剣なんかよりもこっちの方が何倍も振るいやすいし、殺しやすい」

  狼の瞳。そう呼ばれる彼女の目で射抜かれても合場佐は微動だにしなかった。動揺もせず、困惑もしない。ただ意識を張り詰め、いつ打ち込まれてもいいように集中していた。

  「そう言う割には殺す気はないみたいだが」

  「あー、殺さないよ。お前、アイツの友達なんだろ? クロウとの契約で『誰も殺さず、極力傷付けない』ってことになってる」

  「殺し屋なのにか?」

  「そう。殺し屋なのに、だ」

  軽口を叩きながらも狼子は敵の一挙一動を観察していた。その時の彼女の心情は「驚いたな」というものだった。打ち込む隙が全く見当たらなかったのだ。

  否、厳密には違う。欧州最強とも呼ばれる殺し屋斉藤狼子がその気になれば目の前の程度の相手など三秒足らずで絶命させることができる。が、命を奪わないとなれば話は別だった。あまりにも完成度の高いボクシングスタイルが為せる業か、「命を奪わない」というルールの上での戦いにおいて、合場佐には僅かな隙もなかった。少なくとも、簡単に態勢を崩し、傷付けず意識を奪えるほどの隙は存在しなかった。

  「殺し屋なのに、殺さない……。それは油断してるってことじゃないのか?」

  「違うよ。油断はしていない。手加減をするだけだ」

  「同じことだろう」

  「違うことだよ。昔、野球好きの昔馴染みが言ってたことがある。『バットを持っていれば皆強打者だ、舐めていると痛い目を見る』って。そういうことだ。たとえ子どもを相手にする時でも私は油断はしない」

  そう、油断などしない。況してや相手は超能力者なのだ。その時点で、仮に素人相手だとしても油断などできるはずもなかった。

  超能力。異能。条理を超えた現象を引き起こす力。それがどれほど恐ろしいものかを斉藤狼子は知っている。他ならぬ狼子自身が能力者だからだ。ただ信じられない破壊を可能とする超能力にも限界がある。それも、狼子自身が能力者だからこそ理解できていることだった。

  ここにおいての問題は、ただ一つ。「合場佐の能力がどのようなものであるか」という点だ。

  先ほど佐は真剣での打ち込みを右の前腕部で受け止めた。当たらなかったわけではない。確実に当たっていた。ということは、数ある超能力のカテゴリーの中でも最もメジャーな一つ、身体強化系能力の可能性が高い。

  他の可能性も――例えば「概念干渉系能力で『決して傷付かない身体を作った』」という可能性も、「物質操作系能力で『剣戟の瞬間に窒素を固めて防御した』」という可能性もある。そう考え出していけばキリがないので、一旦狼子は「相手は身体強化系能力者だ」と仮定して考えることにする。

  狼子の直感が感じ取る限りではフェーズ――能力の強さはおよそ一、ないしは二。そこまで化け物じみた現象を起こせる段階には至っていない。

  さて、どうするか。

  斉藤狼子は考える。

  狼子は旭ヶ丘久良達が四条飛鳥を止められる可能性は低いと見ていた。何度も死線を潜り抜けてきた殺し屋としての直感で分かる。四条飛鳥のあの瞳は覚悟を決めた人間特有の目だった。生半可な言葉で心を折ることはできないだろう。見るからに口下手な旭ヶ丘久良が上手く説得できる可能性は低い。どれほど贔屓目で見たとしても五分以下だ。

  だとしたら、やはり、こうして睨み合いを続けているわけにはいかない。目の前の相手を無力化し、久良達を追いかけなければならない。面倒なことに「誰も殺さず、極力傷つけずに」だ。面倒な限りだったが、万が一の時は自分がどうにかすると約束した以上、斉藤狼子にも通すべき筋がある。

  問題は――目の前の相手は意地でも自分を止めようとしてくるだろうということ。

  「……なあ、むっつり君。私はただの人殺しだから難しいことは分からないんだけど、不思議なことがあるんだよな」

  一挙一動を観察しつつ狼子は口を開く。

  これで隙が生まれてくれれば儲けものなんだが、などと内心では考えながら。

  「私はこうやってお前の彼女を止める為に動いているけど、どうしてだろうね? クロウとお前の彼女のやり取りを聞いて、お前の彼女の発言にも一理あると感じた。いや正直言って、クロウの言い分よりもお前の彼女の発言の方が正論だとさえ思うんだ」

  「…………」

  「暴力が悪って認識が元々ないせいかな。お前の彼女はこの国の若者の為に戦おうとしている。それが間違っているとは、どうにも私には思えないんだよね。私みたいな人殺しは死んでも仕方ないだろう。でも無知であっても無能であっても、普通の人々が金がないからってだけで死ななきゃならない社会はどう考えてもおかしい気がする。……この間のニュース、見た? 都会の真ん中で若い母親と幼い子どもが餓死したって事件。あんなの、無茶苦茶だろ。そんなに命って価値がないものなのか? 人殺しである私でさえおかしいって思うよ。あんな風な不当に虐げられている弱者が地位向上の為に革命を起こす……。それは世界中、何処の国でもある、普通のこと。当たり前のことだ。だから、そこには一つの正しさがあるはずなんだ」

  合場佐の瞳は揺らがない。

  この程度の揺さぶりでは無駄かと理解しながらも狼子は続けた。

  「でも、クロウはそれを止めたいと言った。しかも、色々と御託こそ並べるけど、結局アイツが動いている理由は『友達が傷付くのを見ていられないから』なんだ。それってつまり、ただの個人的な感傷で、我が儘だろ?」

  「……我が儘、か」

  「ああ。アイツが言ってるのは、実はただの我が儘なんだよ。『友達には傷付いて欲しくない』『あの頃みたいに笑って欲しい』っていう、ただの我が儘。数千の若者を煽って社会を変えようとしている相手に対して、そんな我が儘を言っているんだ。面白いよね。最高学府で学ぶインテリ様が自分勝手な感情論を振りかざして、路地裏で歌ってる高卒のロックシンガーが社会がどうあるべきかを叫んでるんだから」

  「だったら今すぐ飛鳥の味方になれよ」

  「それがそうもいかない。私はお前の彼女の方が正論だと言ったけどね……。それでも、私はクロウの言い分の方が好きなんだ。友達が大切だっていう、そんな当たり前の心情の方が、難しい理想論よりずっとね。何より、仕事で来ているわけだし」

  距離を保ったまま、ゆっくりと円を描くように移動しながら、二人は言葉を交わす。

  「そう考えていくと、お前は逆なんだろう」

  「逆?」

  「ああ。実のところ、お前はクロウに勝って欲しいと望んでるんだろ。自分の好きな女を止めて欲しい、取り返しの付く場所に留めておいて欲しいと思ってる。それも当たり前の心情だと思うよ。今だってそう。何もかも諦めて、ただ自分の隣にいて欲しいって……。そんな感情がお前の瞳から読み取れるよ。その辺り、お前はどう考えているんだ? ちょっと不思議なんだけど」

  「……難しいことは分からない。俺が不思議に思うことがあるとすれば……そうだな。お前の口調が急に女らしくなったことくらいだ」

  「はは、悪いね。驚かせたかな。あー、マジになると素の口調が出ちゃうんだよね。ダサいからやめたいんだけど」

  一拍置いて彼女は訊いた。

  「……ところで、お前の方は二つ名、あるの?」

  狼子の問いを佐は否定する。

  「ない。俺の能力を知っているのは飛鳥だけだ。あるわけがない。……強いて言うなら、『フリーダム・ライダーズのマネージャー兼編曲担当』かもしれない」

  「それじゃ長過ぎるし、ただの役職だ」

  笑う斉藤狼子に対し、合場佐は思考する。

  事前の情報収集で『壬生の白狼』の基本的な戦い方は分かっていた。彼女のベースにあるのは、古武術において「膝を抜く」と称される特殊な歩法。地面を蹴らない特殊な移動法である。この方法で以て、彼女はいっそ美しいほどに敵の間合いへと入り込む。

  もう一つ、彼女の特徴と言えるものがある。それは先の先、後の先の攻撃を主体としているというものである。どちらも武道の言葉であり、『先の先』とは相手の攻撃の瞬間を制して打ち込むというもの。『後の先』とは相手の技を躱す、あるいは返す形で打ち込むというものだ。

  この二つの事実を統合して考えると、『壬生の白狼』の基本的な戦闘スタイルはこうだ――「相手が攻撃を仕掛ける瞬間に加速し先制する、あるいは躱すか受けるかして攻撃を返す」。その好戦的な瞳に反して、彼女はボクシングで言うところのカウンターパンチャーだった。

  これは佐にとってかなり有利な点だった。何故ならば、合場佐の役目とは斉藤狼子をこの場に足止めすることだからだ。殺し屋である彼女は目的の為には手段を選ばない。四条飛鳥を止める為ならば、友人である旭ヶ丘久良や妹である四条弥生が決して取らない選択肢――「ステージに上がる前に飛鳥を殺す」というものを迷いなく選ぶ可能性がある。だから、彼女に飛鳥を追わせるわけにはいかなかった。

  相手がカウンターパンチャーであり、尚且つ、佐の目的が斉藤狼子を足止めすることである以上、何も佐から仕掛ける必要はない。

  ボクシングの試合とは違う。このまま時間切れになっても合場佐の勝ちなのだ。

  「ところで、クロウを追わなくていいのか? なんだかんだと話して、睨み合いをして、私をここで足止めしても、アイツが飛鳥を止めればそれで終わりだ。いいの?」

  佐がそんなことを考えていた最中に狼子はそう問い掛けてきた。

  まさか心を読んだわけではないだろうが、流石に多少は動揺する。

  「追う必要はないよ」

  けれど合場佐は揺らがない。信じているからだ。

  飛鳥ならば、誰に何を言われようとも心が折れることはないと。

  だが斉藤狼子が続けた言葉にはとても平静ではいられなかった。

  「信頼するのは結構だけど、クロウがお前の彼女を止められなかった場合……死ぬよ? 別の殺し屋が暴動を阻止する為に狙ってるから」

  「―――は?」

  ほんの刹那、合場佐の心が揺らいだ。

  嘘だ。

  なら、その嘘の意味は。

  ―――騙し討ち。

  その言葉が脳裏を過る。我に返った時には既に間合いを詰められていた。

  どころか、眼前に切っ先が迫っていた。

  力強い踏み込みと共に放たれるのは現代剣道最速の技、中段からの左片手突き。

  斉藤狼子がただの剣道少女だった頃に最も得意とした、最速故に最強の技。

  「ッ!!」

  右の鎖骨を狙って放たれた突きを寸前で捌けたのは弛まぬ鍛錬故か。

  拳で拳を払い除ける技術、パーリングの要領で右拳を使って木刀の切っ先を弾いた。

  身体は勝手に動いた。踏み込みながら逆の手、左拳で彼女の顔面を狙う。相手が手加減をしているなどという事実は関係ない。女子ということも。

  合場佐はただ、四条飛鳥を護る為に拳を振るう。

  が、その拳は狼子の身体の当たる寸前で引かれ、同時に佐は急激に間合いを取った。

  「この……っ」

  信じられないことをされた。右拳で剣を払い、ガラ空きになった身体に打ち込もうとした左拳。それを、斉藤狼子は右手の肘で受けようとした。

  エルボーブロック。ボクシングにもある技術だ。ただ恐ろしく完成度が高く、完璧なタイミングだった。あのまま打ち込んでいたら自分の左拳は粉々に砕けていただろう。そう佐が思うくらいには完璧な受けだった。

  「……なるほどね。とりあえず、その左拳は傷付かない、ってわけじゃないみたいだ」

  「ッ!!」

  その言葉で合場佐は理解する。斉藤狼子はわざと隙を見せ、自分に打ち込ませたのだということを。そうしていくらでも躱すことができた拳をわざと避けず、受け止めることで砕こうとした。

  そんなことをされてしまう実力差は問題ではない。向こうはプロの殺し屋。まともにやっては勝負にならないことは佐も百も承知だった。

  ただ――超能力の制約が見抜かれつつあるのが問題だった。

  「左拳は傷付く……しかも、思い返してみればお前、左手を握り締めたままだ。昨日の屋上でも右手で取り出し咥えた煙草に、右手で持ったライターで火を点けた。左手はずっとポケットに入れたままだった」

  斉藤狼子は笑みを見せる。

  それは残忍で狡猾で、けれど高潔で精悍な笑みだった。まるで狼のような微笑だった。

  そう、戦いが愉しくて仕方ないというような―――。

  「元々左利きで、高校時代は左利き用のギターを弾いていた。でもギターはやめた。ボクシングもサウスポースタイルだったけど、いつの間にかスイッチができるようになっていた」

  「……何が言いたい」

  「お前の能力と支払った代償、分かったって言いたいんだ」

  一拍置き、彼女は続けた。

  「お前――左手、もうロクに動かないんだよね?」

  参ったな、というのが佐の本音だった。

  バレないようにしていたつもりだった。事実として今まで誰にもバレていなかった。元々食事や筆記は右手でやるタイプの左利きだ、絶対にバレることはないと思っていた。

  なのに、この少女は。

  あんな僅かな情報と、獣じみた直感で、能力の代償を見抜いてみせた。

  合場佐は戦慄し、そして改めて理解する。相手が本物の殺し屋であること――『壬生の白狼』と呼ばれる、史上最強とも言われる剣士であると。

  「……ああ、そうだ。もう俺の左手はこうやって握り締めることがやっとで、スプーンすら使うことができない」

  「巧緻運動障害、か」

  「よく知っているな」

  「これでも殺し屋だよ。色んな怪我や障害を負った人間を見てきた」

  そう、合場佐の超能力における代償は「左手の細かな動作ができなくなること」だった。

  医師に言わせれば原因不明の巧緻運動障害となるらしい。治療法はないとも言われた。

  だが、それがどうしたと言うんだ?

  そう合場佐は居直り、口を開く。

  「これくらいの代償で飛鳥が守れるようになるのなら安いものだ。飛鳥と繋ぐ手は残ってる。だったら、それでいい」

  「ポエマーだね。でも、それで最後のピースが嵌った。……お前の能力は『右腕が決して傷付かなくなる』というものだ」

  斉藤狼子は白樫の木刀を中段に構えたまま、足先で間合いを詰める。

  それは恐ろしくも美しい構え。人を殺すことに特化した機能美だった。

  「身体強化系能力の場合、利き腕が強化できることになることが多いんだけど、お前は右手だった……」

  斉藤狼子はフッと微笑んで続けた。

  お前、優しい奴なんだな、と。

  「……殺し屋に褒められてもどう反応すればいいのか分からねえよ。第一、そんなのは普通のことだ」

  「普通のこと、か」

  「ああ、普通のことだ。……ただ、田舎生まれだっただけだよ」

  田舎にはこの街にあるような大きな歩道はない。だから、歩行者は原則通りに右側通行。誰かと二人で歩いていこうとして、その相手が愛する者だったとして、車道側に立つのは男としての基本的なマナーだ。

  だから、合場佐は何よりも右手が大事だった。

  利き腕である左手よりも。ギターを弾く左手よりも、ストレートを打つ左手よりも――飛鳥と繋ぐ為の右の手が大切だった。

  「……能力の内容が分かったんだ、もう容赦はしない。お前を倒して、お前の彼女を追わせてもらう。骨の一、二本くらいは覚悟してもらうよ。クロウにも、もしも友達を止められなかったら私がどうにかしてやるって言っちゃったからな」

  「させない。たとえ負けても、敵わなくても……。お前を足止めする為に、俺は立ち塞がり続ける」

  斉藤狼子は言って。

  合場佐が返した。


  「『最後のゴングが鳴るまで立っていられたら、俺はただのゴロツキじゃないことを証明できる気がするんだ』、か……。ロックだねえ」

  「そりゃロックじゃなくて、ロッキーだ」


  そんな軽口と共に、二つの影は激突した―――。





 どうすればいい。

 どうすればいい。

 どうすればいい―――?

 とりあえず弥生ちゃんの為に救急車は呼んだ。だがもう飛鳥の姿は何処にも見えない。

 今から追ったところでどう考えても間に合わない。そう理解していても僕は走り出していた。

 やがて飛鳥はステージに上がり、『フリーダム・ライダーズ』のライブが始まり、そこで彼女は超能力を使うだろう。集まった数千の若者を暴徒に変える為に。

 現実的に考えれば、公園に集う若者全員が『フリーダム・ライダーズ』のファンであるはずがない。ただ、飛鳥の能力で洗脳されるのは全員じゃなくともいいのだ――多くの人間が暴れ始めれば、それを見ていた人々も空気に流され暴徒化する。そんなものだ。

 今から飛鳥に追い付き、止めることは難しい。ならデモ自体を中止させるしかない。けれどもそんな方法が思い付いていたならばとうの昔に実行している。

 「どうすれば……どうすれば……」

 路地を抜け、大通りへ。

 馬鹿みたいに交通量が多い中、一度目に訪れた際に目印にしていた総合ディスカウントストアの前で手を上げる。

 タクシーは、止まらない。

 「……くそっ!」

 将棋中くらいにしか満足に働いてくれない鈍い頭が恨めしい。

 勉強ができるだけで他には何もできない自分に心底に腹が立つ。

 僕には飛鳥のような決意も覚悟も行動力もなかった。

 ……何もないのだ、僕には。

 両親が死んで、どうして世の中がこんなにも理不尽なのかを知りたくて歴史や社会の勉強を始めて、その内にいつの間にか、諦めていたのだろう。

 飛鳥の言っていた通りだった。

 「どうせ世界は変わらない」――深く学べば学ぶほど、何処かでそう思うようになっていた。

 誰かが変えなければ何も変わらない? 確かにそうだ、ご尤も。でもそれは自分じゃないと思っていた。歴史に名を残す天才や英雄が変えるものだと思っていた。あるいは国家の側が上から変えていくものだと。

 そうだ、世界は変わらない。国家は変わらない。社会は変わらない。何もかも変わりはしない。

 大事な法律はいつも気付かない内に国会を通る。個人の力はちっぽけなもの。別の国じゃ、市民運動を防ぐ為に公園を封鎖したり水を撒いたりするくらいだ。市民としての自覚や民間の活力が重要だとか言われながら、いつだって僕達の声は蔑ろにされて。

 いや――待てよ?

 「……デモが企画された段階で、デモ隊が集う公園を理由を付けて封鎖して、デモ自体を中止させる……」

 そんなことを海の向こうの国がやっていたはずだ。

 だったら。

 「運転手さん、ちょっと待ってて! 三分で戻ってくるから!!」

 ようやく停まったタクシーの運転手に怒鳴るように告げて、僕はディスカウントストアへと走り出した。





  右鎖骨、左腕、左脚、右肋骨二本。いずれも亀裂骨折。

  自らの身体の状態を把握した合場佐は激痛の中で目を閉じる。

  「……強いな」

  「あー、お前も強かったよ」

  「お世辞はいいよ」

  「お世辞じゃない。骨折られても立ち上がったのは大したもんだと思うよ」

  切っ先を弾けば手首の力だけで返して打ち込まれ、間合いを詰めれば柄と肘で反撃される。

  手も足も出なかった。それが紛れもない事実だった。

  ……やっぱり、負けたか。

  予想通りの結果に溜息を吐きながら、やはり傷一つ付かない右腕をポケットに入れた。

  そこにあるのは小さなスイッチだった。押せば最後、事前に仕掛けておいたプラスチック爆弾で出入り口、そしてこの客席部分が崩落する。プロの殺し屋を相手取り足止めする為の正真正銘の最後の手段だった。

  飛鳥にさえ秘密の、最後の手段。

  最初で最後の隠し事だった。

  「悪いな……」

  聞こえないようにそう呟いた。

  それが誰に向けたものだったのかも分からぬまま、合場佐はスイッチを押した。

  激しい爆発音。

  慣れ親しんだライブハウスが轟音と共に崩れていく。

  そうして佐が見たのは自分を押し潰すような軌道で倒れてくる巨大な柱だった。

  ……四条飛鳥と歩いている時、いつも佐は考えていた。最後の瞬間に自分は彼女のことを想えるだろうかと。この命が潰える瞬間に彼女の歌声を思い出せるだろうかと。それこそが本当の愛の証明だと思っていたから。

  目を閉じると思い出すのは涙を堪えて舞台に上がる彼女の横顔。

  彼女の痛みも苦しみも分かっていた。ずっと昔から知っていた。

  でも、何もできなかった。当たり前だ、自分のことさえ満足にできない子どもが誰かを幸せにできるはずもない。両の拳を握り締め、自身の無力を何度呪ったか分からない。

  だからこそ一緒にいようと思った。

  何もできないのなら、せめて一緒にいよう。この小さな身体では彼女の不幸を背負うことができないのなら、せめて隣に立って、その手を握ろう。世界中の誰か敵に回ろうと、自分だけは彼女の隣にいよう。彼女の全てを肯定しよう。合場佐はそう誓い、願い、祈った。

  はじめて彼女の手を握った日を思い出し、目を開けた。

  ……結局、彼は飛鳥の歌を思い出すことはできなかった。


  「―――馬鹿か、お前は。爆発物を使う時は自分が巻き込まれないような場所に仕掛けるんだよ。常識だよ?」


  合場佐の身体を押し潰さんと倒れてきた柱が――狼子の振るった一刀で、真っ二つになったからだった。

  「は……?」

  信じられない。

  ありえないことだった。

  仮に日本刀を手にした達人であってもコンクリートの塊をあんな風に、溶けたバターでも切るように両断することなどできまい。況してや、斉藤狼子が手にしていたのはただの木刀だったのだ。斬れるはずもない。

  ありえない、常識を超えた現象。

  それはつまり――超能力。

  「……これが私の能力。『あらゆる存在を断ち切る能力』――実際に切れるかどうかは関係がない。木刀でも竹刀でも、私が手にして刀として振るえば、ありとあらゆるものが斬れるようになる」

  「……俺の右腕も、か……?」

  「多分ね。それに、お前の彼女の歌も。能力自体を斬ることだってできる。……一流の武道家は湖面に写った月のような実体のない存在すら両断できる。いつか、そうなりたい。そんなことを思ってたら、こんな力を手に入れてたよ」

  その時、合場佐は斉藤狼子の中に光を見た。

  光と言っても、誰かを導くようなそれではない。鋭く輝く銀色は、敵を断ち切る時を今か今かと待つ白刃が宿す光。殺す覚悟と死ぬ覚悟。そして何より、生き通そうとする意思。その三つを備えた人間だけが見せることができる本物の刃の光。

  ……それが概念すらも切り裂く最強の異能が見せた輝きなのか、それとも自分が生死の狭間で見た幻影だったのか、合場佐には分からなかった。

  でも、一つだけ、分かったこともあった。

  今の自分では――どうやっても彼女には勝てなかったということ。

  「敵わねぇなあ……」

  「……敵う必要なんてない。ある意味で、こんな力があったせいで私は殺し屋になる羽目になったんだから。あー、戦うことは好きだから別に後悔はしていないけど、大切な人がいるのなら、その人を大事にするべきだと――手を握っててあげるべきだと思うよ。こんな力なんて使わずに.……」

  あまりにも儚く笑って狼子は続けた。

  私にはそんな相手がいなかったんだ、と。

  「こっちにはいつでも来れる。でも、一旦こっちに来てしまったら、絶対そっちには戻れない。お前も、お前の彼女もだ。だから、道を定める前にはよく考えろ。精一杯迷い、惑え」

  彼女は決して道を譲らない。

  目の前の全て斬り捨てて、ただただひたすら真っ直ぐに、自分の信じた道を征く。

  たとえ、それが間違っていたとしても。

  故に――『壬生の白狼』。

  「ほら、さっさと起きてよ。傷付けないことは無理だったけど、誰も殺さない契約くらいは守らないと沽券に関わる。私も意地を通さないと」

  先ほどまで戦っていた相手に肩を貸されながら、合場佐はまだ生きていること、また彼女に会えることができるという事実に、静かに涙を流した。





  四条飛鳥は都内のあるビルの屋上に立っていた。

  五階建てのビルからは自分達がライブをするはずだった公園とステージがよく見えた。

  今、その公園にいる人影は少ない。加えて誰もが制服を着用していた。

  警察によって公園は封鎖された。理由は「爆破テロの予告があったから」だそうだ。デモに集っていた若者を狙った無差別テロらしい。

  必然的にデモは中止。今警察は必死で爆発物を探している。

  見つかるはずもない架空の爆弾を。

  タクシーの車内で会場のメンバーから連絡を受けた飛鳥はすぐにその光景を見ようと、近くの屋上に上った、というわけだった。その光景――つまりは、自分達の夢の跡。

  「やられたな……」

  溜息を一つ吐くと、飛鳥は彼を見つけた。

  緑化公園のすぐ近く、現場から離れるようにして足早に歩いている自らの親友、旭ヶ丘久良の姿を。

  その神懸かり的な偶然に無性におかしくなって、スマートフォンを操作する。

  『……はい』

  「やあ、ヒサ」

  『飛鳥……』

  電話先の久良は驚いたようだった。

  だが、驚いたのはこちらの方だ、と飛鳥は思う。

  まさかこんな方法で阻止されるなんて、と。

  妹のことを訊きたい気持ちはあったが、そんなことを尋ねられる立場ではないと自嘲し、わざと皮肉っぽく笑った。

  「上だよ、上。キミから見て右斜め上のビルの屋上……そう、ここだ」

  自分を見つけたらしい旧友に手を振って、飛鳥は続ける。

  「爆破予告、キミの仕業だろう?」

  『ああ。……もう、それくらいしか方法がなかった』

  「見事な手段だったよ。ボイスチェンジャーを用意する余裕はなかっただろうから、ディスカウントストアでヘリウムガスを買って声色を変え、警察に逆探知をされても問題がない公衆電話から爆破予告の電話を掛けた……。そんなところかい?」

  『ああ。お前のお陰だ。お前のファンが率先して避難してくれたよ。お前から散々「自分を愛せ」と言われていたからだろうな……』

  飛鳥は『フリーダム・ライダーズ』のライブでファンに幾度となく「自分を愛せ」と呼び掛けていた。デモを企画した理由も、集った若者を暴徒化させようとした理由も、結局はそれだった。

  生まれが悪くとも、金がなくとも、能力がなくとも、競争に負けたとしても――自分で自分の命を奪うほど、自分を否定することはない。自分を殺してまで、社会に尽くす必要はない。

  誰だって本当は生きたいし、生きていたっていい。当たり前のことだ。

  四条飛鳥はこの社会の若者達に自分自身のことを大切にして欲しかった。

  そして、若者を――自分達を大切にしてくれる社会に変わって欲しかった。

  それ故に、この結果は必然だった。

  「……キミはやっぱり頭がいいよ、ヒサ。ボクの能力を逆手に取るなんて」

  『そんなことはない。僕は馬鹿だ。お前のこと、何も分かってなかった……。友達だっていうのに……!』

  「いや、いいさ。ボクにはこんなことしか思い付かなかったし、こんなことしかできないけれど、キミならもっと良い方法を見つけられるだろう」

  『……続けるつもりなのか、飛鳥』

  「さて、ね……。とりあえず、もっと多くの人にボク達の想いを届ける為にもメジャーデビューでも狙ってみようかな」

  そんなただの軽口にも、久良は泣きそうになりながらこう返す。

  『戻ってこいよ、飛鳥。また皆で遊ぼう、カラオケに行こう。お前は自分の想いを素直に歌にしてる方がずっと似合ってる』

  「そうかな」

  『そうだよ。訳分かんない能力なんて使わなくたって、お前の歌声には誰かの背中を押す力がある。お前がただ歌ってるだけで、僕達は何度も勇気づけられたんだ。だから……!』

  「ありがとう、ヒサ」

  それは正直な言葉だった。

  友達へと向けた、素直な言葉だった。

  あんな策など関係なく、自分はもう負けていたのかもしれない。今更ながら飛鳥は思う。

  こんな気分で、こんな気持ちで、心を震わせる歌など歌えるはずがない。これほどまでに自分を想ってくれる相手がいる。そのことを思うだけで胸が温かなもので満たされる気がした。

  そう、こんな心情で、社会を恨み憎む歌なんて――歌えるはずがないのだから。

  「本当にありがとう、ヒサ……」

  弥生によろしく。

  短く告げて四条飛鳥は電話を切った。

  これ以上話していると、決意が揺らいでしまいそうだったから。




 都会の雑踏の中、人々の声がいやに遠い。

 ツー、ツー、という通話の終了を知らせる電子音だけが耳に響いていた。

 ……掛け直さないと。

 そう思った。

 こんな程度じゃ足りない。まだ何も話せていない。きっと飛鳥は僕達の街へは戻ってこないだろう。弥生ちゃんにどう説明すればいいと言うんだ。隆平には、他の人達には? このままじゃとても顔向けできない。

 けれど、分かってしまった。

 屋上に立つ飛鳥はゆっくりと首を振る。

 それだけで分かってしまった。僕は、彼女の心を動かすことはできなかったのだと。

 もう、あの夕暮れに染まった軽音楽部の部室には二度と戻れないということを。

 考えてみれば当たり前のことだ。過去は過去、青春の一ページに過ぎない。僕達がそれぞれの未来を選ぶ前だったが故に、ほんの一時だけ道が重なった。それだけのこと。

 「そうか……。そうだよな……」

 当たり前のこと、だけど。

 でも、悲しかった。

 飛鳥はこれからも『フリーダム・ライダーズ』のボーカルとして活動していくのだろう。どんな手段を選ぶかは分からないが、少なくとも、この社会で苦しむ若者を救う為に歌い続けるつもりなのだ。それがきっと彼女の選んだ道だから。

 もう二度と出会うことがなかったとしても――それは、彼女の選んだ道だった。

 それでも救われることがあるとすれば、たった一つ。

 彼女の左の頬に涙が伝ったこと。

 説き伏せ道を変えさせることはできなかったけれど、でも、僕も少しは彼女の心を震わせることはできたのだ。

 溢れ出た心の欠片に飛鳥は驚いたようだった。慌てて顔を隠そうとするが、それより先に誰かが彼女の頬を拭った。

 佐だった。

 激しい戦いの後だろうに、相変わらず朴訥とした表情の彼はそのまま黙って飛鳥に口付けた。

 再会できた喜びを表すように。互いの無事を祝うように。

 次いで彼は僕を見て、大きく一度頷いた。

 「ありがとう」。そう言ったように見えたのは気のせいではないだろう。

 そうして二人はもう一度だけ僕に視線を送り、それを別れの挨拶として、二人で屋上を去っていく。

 あの頃、誰も見ていない場所でそうしていたように、しっかりと手と手を繋ぎ合って。

 僕はただ、二人の両手が二度と離れないように祈った。

 「……なーに浸ってんだよ」

 誰もいなくなった屋上を見上げていると後ろから声を掛けられた。

 路肩に停めたクルーザーにもたれて、狼子さんは笑う。

 「……佐、殺さなかったんだな。ありがとう」

 「当たり前だろ、そういう契約なんだから。そういうお前は……あー、暴動自体は止められたみたいだな」

 「当たり前だろ。それも、そういう約束だったんだから」

 彼女は自らの道を通し、僕は自分の意地を通した。

 正しいことだったのかは分からないが、これが僕達の行動の結果だった。

 「お互いに無事、仕事終了ってわけか? あー、いや、お前のお友達は戻ってきそうにないから、私の方の達成度は半分ほどか」

 「意外とアンタ、自分に厳しいんだな」

 「これでも武道家だ。自分には厳しくすることにしてる。他人には、まあ、そこそこ優しくしようとも思ってるぜ。だからお前の嘘のテロ予告、公安の方の知り合いに手を回しておいたから、捕まることはない。……多分」

 「多分って……。でも、ありがとう」

 「気にするな。雇用主様からのサービスだよ。労働者としちゃ、サービス残業になっちゃうがな」

 言って狼子さんは実に楽しそうに笑う。

 切羽詰まっていたので手段を選んでいられなかったが、冷静に考えてみると僕の行為は純然たる犯罪だ。理解はしているし正直警察のお世話になっても仕方ないのだが、前科はできれば遠慮したい。人生の重荷は借金だけで十分だ。

 スクーターを近くの駐車場に停め、二人で手近にあったベンチに腰掛ける。今度は僕が奢ろうと自販機で炭酸飲料を二本買い、彼女に手渡した。

 「ほら。これくらいしかできないけど、僕からの雇用主としてのサービスだ」

 「そりゃどーも。でも次からは水を買え。あたしは炭酸が嫌いなんだ」

 「それは失礼しました、雇用主様」

 弥生ちゃんが搬送された病院を調べ、とりあえずそこへ向かおうと話が纏まった頃、狼子さんが言った。

 「ところで、四条飛鳥の代償はなんだったと思う?」

 「え?」

 「だから、代償だよ。能力の使用には必ず代償が必要だって言ったろ? お前のお友達の『自らの歌を聞いた相手の特定の感情を増幅する』って能力の代償、なんだと思う?」

 「ああ、それか。……ステージで僕が言った話、覚えてるか?」

 空き缶をゴミ箱に押し込んで僕は続けた。

 「『外傷性逆転移』って現象の話なんだけど」

 「あー、なんだったっけ? 人のトラウマの話を聞いていると、自分も同じようなトラウマを負ってしまう……だったか?」

 「それそのものか、それと同じようなことが代償だったんじゃないかな。超能力っていうのは本人の願望が形になったものなんだろ? 他人の心を歌で動かしたいと思った飛鳥は曲調や歌詞に応じて観客の感情を操作できるようになった。でも、そうやって歌を通して他人と繋がった結果、ファンの感情を異常なまでに敏感に感じ取れるようになってしまった……」

 今の自分は観客の痛みや苦しみを感じ取れる。そう飛鳥は語っていた。

 それは比喩ではなく、そのままの意味だったのかもしれない。「声が聞こえる」は言い過ぎにしても、感情が伝わってくるようになってしまったのではないか。

 「だとしたら、アイツ……」

 「そう。飛鳥は能力で観客の感情を増幅したけれど、その増幅された感情は飛鳥にフィードバックする。あとはもう、その繰り返し」

 弥生ちゃんは「今のお姉ちゃんは混乱している」と言っていたけれど、まさにそうだったのかもしれない。他者の苦痛や悲哀を歌にした飛鳥は、歌で以て観客を動かすことができるようになったが、その結果、自身の許容量を超えるほどの苦しみや悲しみを抱え込むことになってしまった。

 そう仮定すれば、『フリーダム・ライダーズ』が急速に支持を得たことも、『OFR』のような過激な親衛隊が結成されたことも、今回のようなデモを暴動に発展させるという強硬手段に打って出ようとしたことも全てが理解できる。

 尤も、観客に何度も歌を聴かせなければならない以上、『フリーダム・ライダーズ』が支持された最大の理由は飛鳥の才能にある。若者の心を理解する感受性、それを曲という形にする音楽センス、そしてそれを伝える歌唱力……。それだけでもミュージシャンとして十分過ぎるほどだったのに、そこに超能力というものが加わってしまったが為に、ここまで大事になってしまったのだろう。

 「……厄介な対価だな。でも、アイツらしい」

 「アイツらしい、って……。アンタ、飛鳥の何知ってんだよ」

 呆れたように僕が言うと彼女は笑ってこう返す。

 「何を知ってるかって? 最高にイカした歌を歌うロックシンガーだってことを知ってるよ。それじゃ、足りないのか?」

 「……いや。十分だよ、それで」

 僕にはとても歌の上手い女友達がいる。

 彼女が自分の痛みを伝えたいと願い、同時に他人の心を理解したいと願った――紛れもないロックシンガーであることは、きっといつまでも変わらない。

 飛鳥の歌が素晴らしいことと同じく、そのことだけは今も昔も変わらない真実だった。

 「ところで、それで思い出したんだけど」

 「なんだ?」

 狼子さんの後ろ、バイクの後部座席に乗った僕はヘルメットを被ってから問い掛ける。

 「アンタも超能力者なんだろ? 結局、アンタの能力とその代償はなんだったんだ?」

 「……はっ、バーカ」

 エンジンを始動させて彼女は笑みを見せた。

 琥珀色の目を細めた、高潔で精悍な狼のような微笑を。

 「お前、んなこと他人に言うわけないだろ。能力者にとって能力と代償を知られることはできる限り避けなきゃいけないんだよ。それがそのまま死に直結したりするからな」

 「いや、アンタさ……。さっき飛鳥の代償の話をしたところだし、どうせ佐の代償も見抜いたんだろ? そのアンタがそんなこと言うのか?」

 「言うさ。アイツら所詮、お前の側の人間――ただのロックバンドだしな」

 ハンドル脇のスイッチを操作しドライブモードへ。

 ゆっくりと動き出すクルーザーが車道へ出て、スピードに乗り始めた頃、彼女は呟く。

 風の音に掻き消えてしまいそうな、彼女らしくない、小さな声で。

 

「あたしはこれでもプロの殺し屋なんだよ。……お前らとは、もう違うんだ」


 何故だろう。

 その時、何故だか僕には彼女が酷く小さく、寂しそうに見えてしまった。

 けれどもどうすればいいかも分からなかった僕はただ黙って彼女の腰に手を回す。

 バイクは音を上げ他人だらけの街を進んでいく。

 確かに僕と彼女の生きる世界は本来異なっているのかもしれない。

 それでも、今この瞬間だけは二人で道を行く。

 二人だけで街を往く。


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