第23話 神様
***
斜めに差す夕陽の中、小さな背が針葉樹の森に消えていく。冬でも葉を落とさず薄暗いその森は、エイラを飲み込んでしまいそうな気がした。幼い子供がするような不安を振り払い、一つため息をつく。ドアを閉めようとすると、隣からまた蝶番の軋みが聞こえた。
「おう、ロタ!」
「……なんでまた出てくるんだよ」
「そう嫌な顔しないでくれよ。せっかく新作マスタード食わせてやろうかと思ったのに」
エイラとの楽しさの余韻をぶち壊されたのが悔しくて、断ろうと口を開く。けれど、何もない部屋に一人で戻るのはどうにも寂しい気がして、ロタはもう一度ため息を付いた。
「……食べたい。ねえ、すこし一緒にいてもいい?」
「当たり前だ。たった二人の生き残り組だぜ?」
ロタが落ち込んでいるのに気付いてか、フレックはにっと笑ってみせる。頼もしげなその表情は、何人の少女の心をとろかしてきたのだろうか。少し愉快になって、笑みを返す。
「フレックには優しくしてもらってばかりだ」
招き入れるようにドアを大きく開き、フレックは片目を閉じた。
「当たり前だろう。紳士だからな」
一呼吸置いて、二人は顔を見合わせて吹き出した。フレックの部屋は、独特の匂いで満ちていた。ロタのものより少し大きな机の上には、小さな布の袋がいくつも置いてあり、そのうちの幾つかからは小さな実が溢れだしていた。
「これは、辛子菜の実?」
一粒を手に取り、指先で転がしてみる。
「そうだ。給金はこいつと塩と油を買うためにとってあるんだぜ。こっちにはワインビネガー。これが美味いんだ」
「こだわるなあ」
「どうせ壊れる装備にせっかく稼いだ金がみーんな消えるくらいなら、多少ケチって美味い思いしたほうが断然いいね」
肩をすくめ、パンを薄く切りながらフレックが言う。
「確かにそうかも」
「傷はどうだ。今日はかなり無理したんじゃないか」
座れ、と言ってフレックは椅子を引いた。礼を言って掛ける。確かに少し疲れてはいたが、起きて歩ける気分の良さのほうが大きい。
「ほんとに、結構良くなったんだ。次の聖戦がいつかはわからないけど、きっと戦える」
そう言うと、フレックの顔が露骨に曇る。
「おいおい、治ってねえフリでもすりゃ、次くらいは出ないで済むだろ。鈍った身体で生き残れると思うのか」
「無茶でも行かなきゃ」
「……バカだなお前」
声に、明らかな苛立ちが混ざった。その理由はよく分かる。けれど、わかっていても、決意は変えられない。
「……決めたんだ」
「お前が大好きな神様は、お前のために何かしてくださったってのかよ」
胸のチャームに手をやる。何度も触って、磨いたように滑らかになったその感触は、今でもロタを支えている。
「もし神様がいなかったら、私は生きてこれなかった」
「どういう意味だ?」
一瞬目を閉じ、幼いころを思い出す。父に家を追い出されて、一番近くの厩舎に逃げ込み夜を明かした夜。凍える寒さの中、ロタはひたすら祈っていた。
「母さんは気付いたらいなくて、私は父さんと二人暮らしだったんだ。父さんは私が嫌いで、よく殴った。酒を飲んでは暴れて、村の人にも嫌われてた。でも、私は父さんが好きだったし、たまに撫でてくれるのが嬉しくてたまらなかった」
フレックは向かいの椅子にを下ろし、切り分けたパンに燻肉をのせた。
「ほんとはすごく辛かったんだ。けど、そんな時でも、神様はいてくださるでしょう? 私は一人にならないで済んだ。父さんに街に売られたあとも、神様がいてくださったから、死のうなんて思わずにいられた。今ここにいるのも、だから神様のおかげだ」
ロタの生まれたような貧しい村では、さして珍しくもない話だ。けれど、フレックは俯いて黙りこんでしまった。落ち込んでいるロタを心配して声をかけてくれたのに、さらに悩ませてしまった。これだからあまり喋らないようにしていたのに。慌てて言葉をつなぐ。
「ごめん、こんな話するつもりじゃなかったんだけど、」
「俺は、ひでえ親父だって思うけど」
謝ろうとしたロタを、フレックの低い声が遮る。そして、彼は大きくため息をついた。
「お前はそう思わないんだろうな」
「……フレック」
「この話はやめようぜ。捨てられねえものは誰にでもある。……とにかく、お前は傷を早く治せ。嬢ちゃんと花祭に行くんだろ」
青年の優しさに思わず微笑んだが、途中でその笑みが固まる。
「なんで知ってるの」
あっと声をあげ、フレックは口に手を当てた。逸らした目に回りこんで睨みつける。
「……聞いてたんだ」
隠すことではなかったが、二人だけの約束でなくなってしまったようで面白くない。
睨み続けていると、フレックは観念したように両手をひらひらと振った。
「あー、しかたねえだろ壁薄いんだから! あとお前喜びすぎなんだよ声でけえぞ丸聞こえだ!」
「そんなに大きな声出してない!もう、盗み聞きしないで!」
「だからそんなつもりはねえって!いいからさっさと食えよ!」
「わかったよ!」
勢いのまま用意してもらったパンにかぶりつく。そしてその味に驚いた。ちょうどよく燻された肉に爽やかなマスタードがぴったり合っている。
「美味しい!」
「もぐもぐしながら喋るんじゃねえ!……美味いのは当たり前だ。黙って食え」
口調とは裏腹に嬉しそうなフレックがおかしくて、さっきの腹立ちを忘れる。フレックは自分もパンを手に取り、かじりついては満足そうに眉を上げていた。
「ありがとう」
この時間が楽しくて、いつまたエイラに会えるか分からない寂しさを忘れられた。
微笑んで感謝を伝える。
「おう」
二人は、どちらからともなくにやりと笑いあった。
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