3LDK

@nekonohige_37

 彼らの住居は良くある一軒家だった。

 一階にはリビングダイニング、そして広いキッチンと6畳間が一つ、二階には洋室2部屋と物置と少し大きめのバルコニー、近くに大きな建物がないこともあってか、日当たり風通しともに良好で、築20年を過ぎていることさえ目を瞑れば過ごしやすい家だった。

 普通と違うところといえば、その家に住んでる3人とも血の繋がりは無く、職も、出身地もばらばらで、共通点といえば全員同じSNS繋がりである事、そして共にシェアハウスの仲間というだけである。

 そして、夕暮れ時の斜めに傾いた光を背中に受け、玄関前で鍵を懐から取り出す彼もまたその家の住人の一人だ。

 彼の名前は、佐野陶太(さの とうた)、体良く捕らえれば線の細い、見様によってはひどく虚弱体質に見える彼は、重い買い物袋を左手に持ち替えてドアを開き家に入る。

 視界に広がるのはいつもの光景、定期的に花を交換される一輪挿しの花に備え付けで年季の入った靴箱の中、しっかりと並べられた靴。

 ヤニの匂いの染み付いた壁紙。

 そして、玄関前に突っ伏した女と思しき影。

 何も無い、いつも通りの光景に小さく溜め息を吐くと、靴を脱ぎ家の中に上がり込む。

 左手で器用に煙草を取り出すと口に咥え、オイルライターで火を点けて自分の定位置でもあるダイニングキッチンへ足を進めようとするが、その足を掴まれる。

 今更驚くような事でもなく、むしろ素直に息を吐ける訳無いと初めから思っていた淘太は気だるげに、そして小さく紫煙を吐くと足元へと目線を落とす。

 「凛さん、俺疲れてるんですけど」

 淘太はこれまでにも幾度となく口にした名前を呼ぶが、肝心のその人物は反応が無い。

 「とりあえず座らせてください、電車立ちっぱなしで大変だったんですよ」

 無理に手を振りほどいて歩き出そうとするが、もう一方の足まで掴まれて派手に転ぶ。

 「ちょっと凛さん!」

 「電車で座れなければ今、椅子が無ければ……床に座ればいいでしょ!」

 所属不明な自信を放つ彼女の名前は小鳥遊 凛(たかなし りん)、この家の二人目の住人であり、ある種この家の疫病神でもある。

 職探しもせず、家の中でひたすらごろごろと過ごす、そんな人間モップと化した彼女は短く切られた髪の隙間から目をらんらんと光らせて淘太を睨む。

 「そんな自信過剰に言われても、っていうか今ので今日のご飯潰れたかも知れないですよ」

 淘太は自身の下敷きになってた買い物袋を持ち上げて凛に見せるが視線は揺るがず、淘太の顔を見つめる。

 いや、正確には淘太の咥えている煙草を睨む。

 「ドラッグが切れて苦しむ中毒患者に、淘太はそんな態度を取るんだ……」

 「ん? ああ、もしかして家のストック切れてたのか……」

 「その一本、渡して!!」

 勢いよく飛び掛ろうとする彼女の顔面に、淘太は袋の中のタバコをカートンさら突き立てる。

 「おご!……」

 「立て替えておきましたから、後で金払ってくださいね」

 「……ふぁい」

 おそらく『はい』と言いたかったのだろう、タバコと追突事故を起こした箇所をさすりつつ凛は淘太の後姿を見送ると、戦利品を見つめて小さく呟く。

 「とりあえず、腹減った……」



 空腹を感じる事はそれだけの飢餓が迫っている証拠、しかし空腹を感じるときはそれ以外に体に不調はなく、健康である証拠でもある。

 だからこそ、ご馳走が出来上がるのを待つ時間はとても幸せな事だ。

 自身のために、そして誰かのために食事を作り、楽しく会話をしながら出来上がった料理を突いての食事、それはとても大切な事だ。

 フライパンを小刻みに揺らしてパスタにソースを絡めながら、カウンター越しに放たれた視線を浴びながらそう淘太は考えていた。

 「まーだー?」

 「もう少し」

 この家での料理は基本淘太が担当している。

 理由は多々あるのだがその中での一番の理由は、彼以外の住人二人が過去にてんぷら鍋から火柱を生み出す小火騒ぎを起こした事だ。

 そもそもなぜそこまで料理ができない人間の家に電子レンジやてんぷら鍋があったのかとなるが、そこは淘太の仕事に秘密があった。

 淘太の仕事は料理研究家だった、しかも最近ではちょっとしたテレビ番組にもゲスト出演もするため、それなりの知名度がある。

 その事から家選びの条件の一つがキッチンの広い家であり、彼の拘りから選ばれたキッチンには所狭しと調理器具が並んでいる。

 「ところで今日の仕事では激しくミスしたの?」

 「何で俺が恥をかく事期待してるんですか?」

 「いや、そのほうが録画する甲斐があるから」

 子供の様に笑いおどけて見せる凛。

 「恥ずかしいから録画はやめてください、それ以前に今日の撮影は恐ろしく地味なんで見る価値も無いですけど……」

 淘太はフライパンの中のパスタを皿に盛り付け、上に刻んだパセリを散らす。

 「タンポポの根っこでコーヒー作る為に、ひたすら公園のタンポポを掘り返すとか?」

 「いや、天然の山芋取る為に山の中に入って、ひたすら穴を掘るだけの撮影です」

 「案外近いとは……」

 凛は苦笑いを浮かべつつ、椅子に座ってケータイで番組表を確認する。

 山芋掘りは言わずと知れた重労働であり、淘太のような人間にとってどれだけ辛いことなのかは明白だ、凛はそこ光景を頭の中で想像すると両頬の端を吊り上げて言葉を返した。

 「面白そうだから録画しと……」

 「やめてください」

 淘太の訂正と、料理が完成したのは図った様に同時だった。




 「不審者情報?」

 ガーリックの利いたオイルソースだけが、申し訳なそうにへばりついた皿にフォークを置くと、淘太はそう言って顔を上げた。

 「そう、夕方ネットニュースで言ってたけど、例のカメラ男まだこの辺ほっつき歩いてるみたい」

 「前に言ってた、夕暮れ時になると住宅街をごついカメラもって歩き回ってる盗撮魔の事ですか?」

 「それでなんで僕がその盗撮魔の事に気を付けないといけないんですか?」

 「何言ってるの、折角遠回しに監視の目がきつくなってる、って教えてやってるのに」

 「どうして俺が盗撮魔になっているんですか?」

 コップの中の水を飲み干すと、眉を寄せて淘太が抗議の意思を見せるが気にせずに凛は言葉を続ける。

 「ほらほら、そうやって下手な嘘を吐くと、公に知られたときに大変でしょ?」

 腕を組んで笑うと、凛は立ち上がりキッチンの冷蔵庫へと向かうが、その背中を淘太の声が追撃をする、しかし凛は笑みを崩す事無く冷蔵庫から缶ビールを取り出す。

 「……第一、俺はカメラなんて興味自体無いし、そんなこと言うならこれからご飯作りませ……」

 「おーおー、悪かった悪かった、まぁこれはお詫びの印だ」

 矢継ぎ早に言葉を続けていた淘太だが、自身のコップに注がれた琥珀色の液体に注目する。

 「何ですかこれ?」

 「発泡性リキュール、クリーミーな泡と香ばしい麦の香りがセールストーク、アルコール度数5パーセントの『クリアラガー』」

 と凛。

 「いや、そうじゃ無くて、このお酒凛さんのじゃないですよね?」

 「そうだな、でも淘太の酒でも無い」

 そう言って突き出された酒を、淘太は受け取るまいと抵抗するが。

 「じゃあ何で勝手に開けちゃってるんですか?」

 「だって共犯者が居たら怖い物は無いでしょ?」

 と呟き、凛は缶の中身を胃袋へ流し込んだ。

 その姿を見て酒が飲めないのを言い訳に逃れようとした淘太は、その言葉を飲み込み、無言でコップを受け取った。

 彼女の口実が理由ではない、ただ、『共犯者が居たら怖い物は無い』と言った彼女が、何処か彼の知る別の人間に見えたからだ。

 「これで淘太も共犯だな」

 「五月蝿い」

 のそのそとコップに口を付ける淘太を見て鼻を鳴らすと、凛は空になった缶と皿をシンクへと持っていく。

 「まぁ風呂入ってくるけど…………覗かないでね?」

 「興味ありませんよ、男の風呂なんて」

 「何時から私は性転換した、生まれてこの方25年、ずっと女だ、メスだ、23対目の染色体はXXだ!」

 と勢い良く言ったものの、返答が無いものだからと気になって振り返ると、テーブルに突っ伏して寝息を立てる淘太の姿があった。

 コップの中の酒は一口分しか減っておらず、かといって狸寝入りにしては自然に寝息を立てている。

 「えっと、それ酒に弱いとかそういう次元じゃ無いから……」

 という声も、当の本人の耳には届かず10畳間に反響するだけだった。






 彼らが住まう3LDKは基本的に広く、浴室も例外ではなかった、しっかりと手入れされて年季のわりに水垢の付いていないタイルにしっかりと磨かれた蛇口、三人分三種類セットになったボディーソープにリンス石鹸その他諸々。

 今は換気扇が故障してるため、溜まった湯気を逃がすには窓を少しだけ開けていなければいけないのが玉に瑕ではあるのだが、そんな事気にしない凛は瞳を閉じてお湯に頭のてっぺんまで沈める。

 こうして息を止めると、いろいろなことが脳裏を横切る、今日一日の出来事、仕事選び、そしてこの家における自分の立ち位置、つまりは矢鱈と男扱いされる事だ。

 別に彼女が男顔という訳では無い、良く見れば目鼻立ちははっきりしてるうえ、光を浴びない生活のおかげか、肌は白く透き通っている。

 ただどこか中世的な、俗に言うハンサム顔な上に日頃の男勝りな言動のせいでこういう扱いを受けているのだろう。

 少しだけこの扱いは不満ではあるが、一つ屋根の下で男二人と同居している今の生活を続ける上で、下手に異性として意識されると何かしらの不便が生じることは目に見えている。

 しかしもしそうでなかったとしても、彼女自身今のスタンスを変える気は無いのは明白ではあるが、こうして内面を悟られない生活は嫌いじゃない。

 今のまま、上から目線で意見を言えて、周りの人間があまり自身の内面を語らず、かと言って他人の内面に触れようとしない今の現状が心地良かった。

 「っぷは!!」

 水中から顔を上げる。

 広がる視界は湯気が籠っている為良く見えず、自身の声だけが反響する。

目が見えず音がよく聞こえない水中から顔を上げたところで結局自分は一人ぼっちだと気が付く。

 それはSNSと現実に良く似てもいた。

 目も見えず声も聞けない、一人ぼっちの水の中。

 そこから抜け出して広がる、視覚と音声が教えてくれる一人ぼっちの部屋の中。

 顔も見えず声も聞けず、文字だけの世界のSNS。

 そこから抜けて、本性も見えず本音も聞こえない、3人で一人ぼっちの3LDK。

 どちらもよく似てると思った。

 酷く半端で滑稽にも見える共同生活、きっと彼らも自分の本音を見せていないのは良く分る。

 だからこそ過ごしやすい、SNS内のようにキャラを作って馬鹿やって、決してお互いの痛いところは舐め合わない、舐め合ったらそれで関係が崩れてしまうような気がしていた。

 自分は果して何がやりたいのだろうか、一瞬泡のように沸いたネガティヴな考えを捨てるため、再びお湯に潜ろうと息を吸い込んだとき、彼女の頭上に、換気扇にこびりついた油汚れを思わせるだみ声がぽたりと落ちた。

 「おいねぇちゃん」

 ふと顔を上げると、開かれた窓から覗き込む中年男性……すなわち白髪の浮いたおっさんの顔があった。

 「何?」

 そう返事をしてふと自分が風呂に入っており、当然服を着ていない状態であることを思い出して絶句、そして近くにあった固形石鹸を握り締めると、全力で窓から見える顔に投げつけた。

 「何堂々と乙女のバスタイム覗いてんだ!!」

 『ニキビの原因菌に命中』なんてセールストークの石鹸は、見事に『男の額に命中し』彼と共に窓の奥の暗闇へと吸い込まれていく。

 「いや待てよ、乙女のバスタイムは色を付けすぎかだろ!」

 自分で言った言葉にセルフ突っ込みを入れつつ、頭をめぐらせる。

 風呂場を覗く、変質者、男、夜、緑川町2丁目、住宅街……

 これらの単語が集まり、一つの結論へと繋がる。

 「カメラ男!?」

 凛はさっきの男を確かめようと窓から顔だけを出すが、視界に広がるのは暗闇と草木とそして一匹の野良犬だけだった。

 「もう逃げたか、変態はすばしっこいな」

 諦め浴室につかり直そうとしたとき、こちらへと近づいてくる一匹の野良犬の異変に気が付いた。

一見するとそれはどこにでもいる犬だ、犬種はブルドックだろうか、短い足で懸命に歩むその姿は愛らしく、短い毛並みはとてもつやつやとしていた。

 だが部屋から漏れるわずかな明かりによって、少しずつ鮮明になるその姿に凛は再び絶句する事になる。

 なぜなら、その犬の首から上が異常だったからだ。

 オイルギッシュな肌に、太い眉毛、白髪の浮いた頭に、三白眼。

 それは完全に人間の物だった。

 それでも、光の当たり具合のせいだろう、そう思い込もうとした凛の思いはやすやすと崩れた。

 人の顔を持った犬は、その口を開き悪い夢の様にだみ声で話し始めたからだ。

 「おいねぇちゃん、いきなり石鹸投げるなんてひでぇよ」

 凛は再び絶句し、手元にあったシャンプーボトルを、その人面犬に投げつけていた。






 秋口らしい少しだけ乾いた空気の中に機械特有の鉄の匂いに整備油の匂いが混じり合う。

そこを行きかう大勢の人の何のとりとめも無い会話に訴えかける様、スピーカー越しに聞こえる掠れたアナウンスの声が響く。

 駅のホームは何時も通り平常運航で機能し、何の接点もない人達を次から次へと目的地へと向かう車両に載せていく。

 ごく簡素な椅子が身を並べる中、同じ様に同じ柄の鞄を持った学生が数人並んで座り、ケータイの画面に意識を向けている。

 何処にでもあるごく普通の光景。

 そんな中、規則正しく演奏を続けるオーケストラの中で響くケータイのアラームのように、ひとつの小さな不協和音が広がっていた。

 事の発端は、大都市らしいと言えば大都市らしい痴漢とのこと。

 多少の騒ぎにはなるが、大抵の場合ダイヤを乱す事も無く騒ぎは収まり、不快感はあっても面白みのない出来事は行きかう人の目には留まる事は無い。

 しかし今回は幾つかの点で少し違っていた。

 まず一つ目は、犯人が『冤罪』という意味を込めた語句を連呼しながらホームを走り抜けた事。

 次に、その人物を通りすがりの人物が見事な体術で取り押さえた事。

 そして最後に、その取り押さえた人物が屈強な体つきでもなければ、数に勝ったわけでも無く、小柄な一人の女性だった事だ。

 「いや、だから違いますって!!」

 「大抵の人はそう言う物でしょ」

 「いや、だから!……」

 さらに抵抗をしようと、女の下敷きになるような姿勢でもがく男は右腕を突き抜ける激痛で言葉の途中で声を詰まらせる。

 「い……!!」

 上に乗った人物は、掴んだ右手を自分に抱き寄せるように、男からすれば自身の背中に向かって捻ってけたけたと笑う。

 そうこうしてるうちに彼らをたくさんの群衆が囲み、逃げ道が奪われていく。

 「はーい、痴漢さんはちゃんと警察に行きましょうね」

 「わかったから……手を……離し……」

 「あーごめんごめん」

 小さく笑うと彼女は手をそっと離す、取り巻きに完全に囲まれた事で男が諦めたと判断したのだろう。

 「俺はやってない……って言っても信じてくれないですよね?」

 「何度も言ってるけど、悪人は大抵そう言う物なの、だから詳しくは署でってね」

 「にしても大体今のは何だよ、格闘技か何かですか?」

 男の問いに彼女は再び猫の様に笑うと、両手を開いて何も仕掛けがないことを見せ。

 「護身術の…………成れの果て」

 と得意げに言ってのける。

 「護身術の、成れの果てですか」

 溜め息を吐き肘をさすりながら、『男』こと佐野陶太はつぶやくのだった。


































 状況を整理すると、淘太が背負っている罪状は強制わいせつ罪、俗に痴漢と呼ばれている物である。

 この問題の最大の難所は、冤罪と言う言葉があってないような分野である。

 瓶詰めの風邪薬の様、狭いスペースへ押し込められた人の間で起きたトラブル、大抵の人は自分を取り巻く不快指数を下げる事にいそしんでいる中、そんな事を細かく見ている人間など居ない為、加害者側が罪を免れるために嘘をつくのは当たり前、結果として被害者側の意見が全ての証拠となる。

 勿論被害者側の勘違いというケースや嘘の発言である可能性もあるのだが、上記の理由の為証明は出来ず。

 ましてや、男女平等を通り越して女尊男卑になりつつあるこの国では、その可能性すらあってないような物。

 結果、淘太は抵抗空しくお縄となった。

 布団に洗面台、トイレが揃った狭い4畳半のスペース、おまけに金属製の扉。

 それを見渡し、淘太はふてくされる。

 「衣食住、三食風呂付に防犯ばっちり……」

 皮肉を呟いてはみるがもちろん返事する人はいなく、一人不機嫌に溜め息を吐く。

 「まぁドリンクバーにネット環境があれば普段の環境と変わらないけどさ……」

 とふと右に首を振り、錆の浮いた蛇口から少しずつ水滴が落とされるのを横目で眺める。

 「いやいや、確かに飲み放題だけどさ、水道水じゃ……」

 苛立ちを感じながらも蛇口を閉め直し、再び布団の上に腰掛ける。

 不機嫌を紛らわすためにセルフコントをやっても、答えてくれるのは壁にかけられた時計の秒針が定期的に時を刻む音だけが答え。

 その当たり前ではある定期的な音が苛立ちを助長させる。

 色々な物があるが他には何にも無い、何かはあるが全てつまらない。

 つまりは無味乾燥な現実、何時もと変わらず変化のない日常が毎日続いて、ほんとに飽き飽きしてきた時にもまた、オブラートの様に舌に張り付く毎日が続く。

 舌に張り付く薄い膜を剥がしても、次に見えるディナーも代わり映えのない透明な薄い膜。

 効果は同じな栄養を口からではなく点滴で摂取して、口寂しさは味も無ければ歯触りも悪い毎日を噛み締めて誤魔化し、胃の中で重なったそれらが無意味に胃をもたれさせる。

 兎に角つまらない毎日で、大手を振って歓迎される場所は今では廃れたシャッター街と変貌を遂げ。

 代わりに出来たショッピングモールは、規格化された毎日を提供するだけの建築部に過ぎなかった。

 そんな毎日だからこそ、次に起きた出来事は一際物珍しく感じた。

 「もう出ていいぞ」

 不意にそんな声が響く。

 視線を上げてみると警官が淘太の前に立っていた。

 「え?」

 口を突いて出た言葉は酷く間抜にも聞こえるかもしれない、しかし淘太にとってこの出来事はそれだけ衝撃的な物だった。

 「まぁ詳しい話は上で聞いてくれ、兎に角迎えが来たんだよ」

「そんな適当な……」

 と、嫌味を口にはするが、彼の心境は複雑だった。

 迎えが来て自分がここを早く抜け出せるのは嬉しいが、迎えそのものが不安でもあった。

 何故なら、彼がどれだけ困ろうと救いの手を差し伸べる人物に心当たりはなく。

 仮に迎えが来たとしたら、それは彼が今一番会いたくない存在だったからだ。

 頭の中で期待と不安が入り混じり、決して綺麗とは言えない色が広がっていく中、彼の胸の鼓動が次第に強くなっていく。

 そして扉を開けた先で立っていた人物の顔を見て、数分前と全く同じ声を上げてしまう。

 「やぁ!」

 「えっと……?」

 目に映った人物と淘太にまともな接点など無い事もあり、予想すらもしていない人物だった。

 色の薄いくせ毛を揺らし飾り気の無い服に身を包んだ彼女は、ほんの数時間前駅のホームで淘太に馬乗りになった上、彼の右腕を思いきり捻った人物だった。

 「まぁ細かい事は追々話すとしてさ、それ……ちゃちゃっと書いちゃって」

 彼女が指差した先には、恐らくここを出るときの手続きのものであろう書類が置かれていた。

 「え……まさか、冤罪が認め……」

 「いや違うから」

 彼女は小さく鼻で笑って否定するが、これ以上は何も言うなといった目を向けて笑う。

 目を除いたパーツで満面の笑みを浮かべる彼女の表情に押されながらも、淘太はサインを済ませ、没収されていた荷物を受け取ると半ば強引にその場を後にするのだった。






 「一体何をしたんですか?」

 彼女が運転する車の中で再度さっきの質問をすると、彼女は再びけたけたと笑いながら説明を始める。

 「保釈金というか、示談金をちゃちゃっとね」

 「いや、ちゃちゃっとっていうか、まだそこまで話進んでなかったですよね?」

 思わず身を乗り出して話を聞こうとする彼の額に指を当てて制すと、再び話を続ける。

 「だから直接被害者の人に会ってきたの、そんでまぁこれだけお金くれるならって事なって、後はまぁ私のコネというか、まぁそういうのでさ、ちゃちゃっと」

 「いや、だから色々聞きたいんですけど、まずどうして見ず知らずの自分に……それにそのお金って絶対大金……」

 「身を乗り出しちゃ危ないよ」

 再び身を乗り出して喋る淘太の話を無視して注意を促すと、彼女は思いっきりブレーキペダルを蹴った。

 前のめりになって減速するSUV中で、身を乗り出していた淘太は思いっきりフロントガラスに顔面をぶつけて悲鳴を上げると、大人しくシートに身を埋める。

 「おっと危ない、アブラムシを轢きそうになった、あれ? 大丈夫?」

 「大丈夫も何も……なんてアブラムシ……っていうか! だからさっきのお金って……」

 鼻をさすりながら再び身を乗り出す淘太は、再び急減速した車体に押され、フロントガラスに顔をぶつける。

 「おっと危ない、今度はカブトムシを轢きそうに、だから危ないからちゃんと座ってなって」

 「いやだから今はカブトムシの時期じゃ無いです!!」

 そう言った瞬間再び車が減速し、フロントガラスに顔面をぶつける淘太、どうやら余計な質問するなとの事なのだろう。

 「おお、今度はスカシカシパンが道端に」

 「あいつは海洋生物です……っていうか、もうお金のことは聞きませんよ。

それなら話題を変えます、どうして俺を助けてくれたんですか?」

 「まぁ色々あるけど、まずは君本当に冤罪でしょ?」

 「ええまぁ」

 と鼻をさすりながら淘太は答えた。

 「そして面白そうだったから」

 「どこがですか……」

 「そしてもう一つは、君……実はその日暮らしのネットカフェ難民で、厄介事は避けたかったんでしょ?」

 「……どうしてそこまで知ってるんですか!?」

 と言った直後、再び車が減速すると思い身構えるが、何起きない事に疑問符を浮かべる淘太。

 「そこまで身構えなくても……その位5秒で分るでしょ」

 と目線を変えずに話す彼女を見て、再び口を開こうとした淘太よりも先に言葉が投げられる。

 「まずはその荷物、とにかく収納力だけを考えて買ったであろうリュックに、かさばる上に実用性に欠けるビジネスバック、そしてクリーニング屋の入れ物に入ったスーツ。

 つまりは自宅以外の場所に寝泊まりしながら仕事をしてるって事だよね? もちろんそれだけなら転勤族って可能性もあるけどさ。

自分で切ってるであろう、微妙にイケてないヘアスタイルに、歪んだ食生活から来る肌の乱れ。

それにさ、ちょっと失礼だけど……君、若干匂うからさ……ほら、ネットカフェってシャワー付きの処ってまだ少ないし」

 「ちょっとって言う前に、失礼過ぎますよ」

 「でも事実でしょ?」

 不機嫌な表情を作ってはいるものの、内心淘太は驚きを隠せないでいた、事実彼はネットカフェ難民と呼ばれている人間であり、決まった家を持たずその日毎の短期バイトで生活をしていた身だったからだ。

 「そんでもって続きね、君さ、痴漢云々で慌ててたのは、バイトの面接の時間があったとかだよね? 折角溜めた少ないお金を使って電車乗って、街中にいたってことは、結構分が良い仕事見つけたって事でしょ? でもって痴漢冤罪、家族とは会いたくないから、適当に偽名作って適当な住所で生活してる君としては、まぁ警察云々が厄介な存在だったってのもあるだろうけど」

 「いやなんでそこまで判るんですか!?」

 刹那急ブレーキ、そして顔面を打ち付ける淘太。

 「まぁ、そんなこんなで君の計画台無しにしちゃったのも事実だし、ここは私が一肌脱ごうかとね、そう言う事で、君の本当の名前は?」

 ものの見事に個人情報を抜かれた淘汰は、今さら嘘をついても無意味だと判断し、本名を述べる。

 「佐野 淘太」

 「ふーん、なんだ、偽名よりいい名前じゃん?」

 「ところで、今さらですけどあなたの名前は何ですか?」

 「私? 私の名前は、瀬谷 香夜子(せや かやこ)、なかなかいい名前でしょ?」

 「まぁ……」

 っと一応とはいえ恩人の名前を覚えとこうと必死に脳味噌の皺に香夜子という文字を挟んでいると、彼女が運転しながら飲んでいる物に目線が行く。

 「っていうかそれ! お酒ですよね?」

 「ん? これ?」

 瀬谷が持ってさっきからジュースのように飲んでいるもの、それはどこからどう見ても缶ビールだった。

 「そうそれです! 運転中ですよ」

 真顔になって抗議する淘太の言葉は、景気の良いケタケタとした笑い声に押され、代わりに淘太がこれから先忘れることのない言葉に上書きされた。

 「『共犯者が居たら怖い物は無い』」

 そう言うと、彼女は信号待ちのタイミングで後ろの席から缶ビールを取り出して淘太に渡す。

 「いや、共犯者って……」

 とは口で抗議を続けつつも喉が渇いていたのも手伝ってか、淘太は缶ビールを勧められるがまま口にするのだった……






 淘太は目を覚まして初めて、それが夢だと気が付いた。

 目の前に置かれたコップを夢うつつなまま眺め、自分が極端にアルコールに弱いことを思い出す。

 あの日の出来事はこれまでも、そしてこれから先の生涯でも忘れられない出来事だった。

一人の女の気まぐれが生んだ些細な出来事、だがそれはつまらない生活を続けていた生活から一転、今の自分を作るきっかけになった。

 『瀬谷香夜子』脳裏に必死になって刻んだ名前、それが自分にとっての一番の存在である事は間違いない。

 そんなことを再度、頭の中で反芻している淘太に、図太い声が降りかかる。

 「よぉにぃちゃん、やっと目ぇ覚ましたか」

 「え? どうも……」

 と答えた先、その相手を見る。

 その相手は、太い眉毛に白髪の浮いた髪、そして切れ長の三白眼をもった男だった。

 しかし首から下が異常だった、短い手足と愛くるしい尻尾に白い毛並み。

 まさにそれは人間というよりも犬のそれで、首から上にあたる部分だけが冗談のように中年男性の物だったのだ。

 普通はあり得ない組み合わせ、それは正に人面犬そのものの姿だった。

 「うわああああぁぁぁぁぁぁぁあ!!!!」

 と、絵に描いたような悲鳴を上げ、思いっきり後ずさり、後ろに置かれていた観葉植物と衝突事故を起こして倒れる淘太。

 「凛!! なんか、おっさんみたいな犬が!! ちょっと凛!!」

 「そげん驚かんでもだな」

 さっきの人面犬が呆れた声を出すが、もちろんパニックを起こしている淘太の耳には届く筈も無く、夜中なのにもかかわらず近所迷惑などたばたを続けていると、風呂から上がった凛がリビングにやってくる。

 「捨て犬拾った」

 「こんな捨て犬は居ない!」

 「いやぁ、可愛いでしょ?」

 「可愛くもない!!」

 何が起きているのか分っているのだろう、凛は今さら驚く様子もなく、髪を拭きながらボケを続ける。

 「可愛くないとは失礼な……」

 不機嫌そうにぼやきながら、人面犬は淘太の元に短い脚で歩み寄るが、突き付けれた人差し指にけん制される。

 「大体あんたは何者なんだよ」

 「んーまぁ、人面犬ちゅーところが正解やな」

 「だってさ」

 凛への突っ込みを繰り返したこともあってか少しだけ落ち着きを取り戻した淘太は、倒れた観葉植物を抱くような姿勢のまま目頭を押さえ、事態を把握しようと思考を巡らせるものの、もっともらしい結論に至らない。

 今起きている現象も夢の続きではないのかと結論を出そうとするが……

 「一応言っとくけど、これ夢じゃないから」

 と凛の言葉が希望をたやすく崩してしまう。

 「じゃあなんでこんな奴が……」

 「だから拾った」

 「まぁそういうこっちゃ」

 まるで捨て犬を拾ったという結論で収まってはいるらしいが、それは相手が本当にただの犬だったらの話であり。

 人間の顔をして、半端な方言混じりの言葉を巧みに使う犬など、都市伝説くらいでしか聞いたことがない。

 「そう言う事じゃ無くて、人面犬なんて都市伝説位でしか聞いたことがないでしょ普通……」

 「いやなぁ、なんちゅうか……わいは都市伝説や」

 「当たり前の様に言ってますけど、都市伝説ってのはあくまでも空想の話であって……」

 とぶつぶつと呟く淘太をの為に、凛と人面犬が説明を始めた。

 「いや、私もさっき説明されたばかりなんだけど、なんかこの町こういう人の想像っていうか、イメージの凝り固まったやつがこうして見えるみたいよ」

「なんでこげな事なっととかはよおワイも分らんが、まぁ集団で見れる幻覚みたいなもんと思ってくれや」

 「良くわからないってまた適当な……」

 「まぁ本人もよくわかってないみたいだしね」

 と凛。

 「普通幻覚ってのは個人に見える物であって……」

 「せやからようワイらも分らんと言っとるやないけ、せやけど実際ワイらを見る事ができへん人間は仰山おるしな、そげな奴らに話しかけても反応ないけん、おまけに気がついた時にはワイらとてこうやって存在してた訳やし」

 あまりにも突飛な内容の為、訳が分らないままだったが、このままでは話が進まないと判断すると、淘太は質問を変える。

 「とりあえずあなたが何者なのかは置いとくとして、どうしてうちに居るんですか?」

 「それはだな」

 と人面犬が言おうとしたとき、凛が大声をあげて人面犬をびしりと指差す。

 「そうだお前! 風呂覗いてただろ!!」

 「ちょいまちーな、確かに覗いたのはほんとやけど、ちゃんと意味があるねん」

 「なんだ!! 言ってみろ!! 盗撮か? 覗きか? 性的欲求を抑えきれずにか!?」

 「そげな……お前さんもちったぁ上品な言葉遣いをだな、兎に角お前さん、あん時盗撮されとったんよ」

 「やっぱり盗撮してたのか!!! このスケベじじい!!」

 勢いに任せて人面犬に飛びかかろうとする凛を慌てて抑えると、淘太が再び口を開く。

 「凛、あの体でカメラは持てないって……それに、彼が言ってるのは自分以外の誰かって事でしょ」

 「あ……まぁそうか」

 凛が振り上げていた手を下したのを見て、人面犬は短い前足を使って器用に腕を組むと、説明を始めた。

 「あん時やな、何かごっつー高そうなカメラ持ったやつが、風呂場を覗いてたねん、そんで声かけてたらその男はあわててどっか行くけん……そやから、せめて覗かれてたって事を教えたんよ、そしたらお前さん、いきなり石鹸とかシャンプーボトルとか投げつけてくるけんな。

 いくら何でもあれはやりすぎっちゅうねん」

 「またベタなリアクションですね」

 と、とりあえず一服と煙草に火をつけながら、淘太は呟く。

 「ま!! あんちゃんの方がおもろかったけどな」

 人面犬の言葉に合わせて、凛がけたけたと笑い始める。

 「どれだけ怖かったんだよ淘太、いくらなんでも観葉植物に抱き付くってな」

 「抱き付いたんじゃなくて、倒れこんだんですよ、観葉植物に……」

 「倒れた!? 淘太が? こりゃもう傑作だ!!」

 と凛は笑ってのけた時、表情が一転する。

 「あー!! っていうかおっさん、さっき何て言った?」

 「あんちゃんの方がおもろかった」

 「ん? 『シャンプーボトル』か?」

 「もっと前!!」

 凛は今にも噛みつきそうな勢いで人面犬へ歩み寄る、それに押されるように人面犬は後ずさりをしながら口を開いた。

 「『カメラ持ったやつ』か?」

 「それ!!」

 と凛は人面犬を指差し、何かを掴んだ様な表情をする。

 「凛? 一体……」

 と紫煙を吐き出しながら淘太が歩み寄った先に、凛の携帯の液晶画面が向けられる。 「ん?『今日のニュース、緑川市2丁目で……』ってなんですかこれは?」

 彼女の持つケータイには、彼らが利用するSNSの画面が表示されており、その中には、不審者情報の記事が大雑把に書かれていた。

 「だから、最近話題の不審者情報、そしておっさんの言っていたカメラ持った奴って」

 淘太の頭の中で、凛の話した単語一つ一つが形を少しずつ変えて繋がり、一つの言葉に姿を変えてゆく。

 「……そうか!! カメラ男!!」

 合点がいったように目を見開く淘太を眺め、自身が面倒な出来事に巻き込まれつつある事に気付くと、人面犬は溜め息をついてその場に座り込むのだった。






 人面犬自身、自分が何者なのかは疑問だった。

 気が付いた時には今と変わりない日常があり、ごくごく自然な街の中人々の視線を集める事無く気楽に散歩をしていた。

 その異形とも言える姿が見えないのか、その場の人間は気にも留めず歩き去り。

 人のそれと寸分変わらない声色を使って言葉を投げかけても、誰も振り向かない。

 そこまで来たとき、初めて自分が人間から認識される事の無い、幽霊の様な存在なのだと気がついた。

 例えるならば、色弱の人間に赤い絵の具で描いた絵を見せる様な、真っ黒い紙に黒いインクで書かれた絵を見せるように。

 たとえ存在はしていようとも、見る事が出来ないい人には認識すら出来ないのは当たり前だった。

 しかし稀に赤い色の違いを見抜け、黒い紙に盛られたインクの凹凸を見抜けるような、そんな人間が存在することに気が付いた。

 そう、この場合で言えば人面犬の目の前にいる二名の人物だ。

 名前は、佐野淘太と小鳥遊凛と言うらしい、そしてその時自分の呼び名が『人面犬』だと呼びにくいとの事で、初めて彼は名前を付けてもらった。

 自身を認識できる人間は少ない上、自分に名前を付けてくれた存在など初めてで、つけられた名前を彼は、存在するかもあやふやな脳味噌の皺に刻み込もうとするが……

 「『犬夫』? ってまぁなんちゅー名前や!」

 「可愛い名前でしょ?」

 「そげな問題やなか!」

 と抗議する声は、静かな住宅街に響き渡った。

 そう、今は室内から外に出て、問題となった風呂場の窓辺へとやってきている。

 「あの凛さん? それで、一体何を始める気ですか?」

 「決まってるでしょ、カメラ男をとっ捕まえる!!」

 その根拠のない自身に裏付けされた計画を聞き、犬夫はふといやな予感に顔をしかめる。

 「手掛かりも無しに?」

 「そこは大丈夫、犬夫がついてるからね、さ!! 犬夫」

 と凛がカメラ男が立っていたであろう場所を指差すのを見て、犬夫は溜め息を吐いて口を開くが、言葉を紡ぐ前に凛の眼以外の部位で作られた満面の笑みが『やりなさい』と無言の問いかけを始めるのを見て、しぶしぶ指差された箇所の匂いを嗅ぎ始める。

 「いや、顔は人間なんだから匂いで追いかけるとか絶対無理だろ」

 「犬夫の辞書に不可能という文字はない!!」

 「いや、どう考えても……」

 と言いかけて、犬夫が匂いを嗅ぎながら歩みを始めてるのに気がつく。

 「……不可能という文字は今の所なさそうですね」

 「でしょ?」

 犬の嗅覚は人間のそれを遥かに凌ぐ物で、一説によれば人間の1億倍とまで言われている。

 その嗅覚を使えば、大都市の上空100メートルから1gの酢を撒いた事も臭いで知る事が可能だと言われている。

 その為、警察では犯人捜索のための手段として使い、空港などでは麻薬探知系としての使い方もされ、場合によっては災害救助犬として活躍し、雪崩や建物の崩落に巻き込まれた人を探し出すことにも役立ったりしている。

 とは言え……

 「本当に出来るなんて」

 「正直私でも驚いている……」

 と会話をする二人を余所に犬夫は住宅街を進んでいく。

 家を出発してからもう30分ほど経つが、犬夫の歩みは止まることはなくどんどん住宅街の奥へと進んでいき、ちょうど10個目の十字路を曲がった先。

 閑静な住宅街から申し訳なさそうに漏れる蛍光灯の明かりに照らされている場所でもぞもぞと動く姿が見えた。

 その人物は手にプロ仕様の一眼レフカメラを構え、住宅街の植木の隙間から必死に家の中を覗っている。

 「もしかしてですけど……」

 「ほんとにカメラだね……」

 と小声で会話をすると、二人は忍び足で近くまで歩み寄る。

 カメラ男と思われる人物は二人の存在には気が付かないのか、暗がりの中無心でシャッターを切り続けていたのだが、二人が後数歩というところまで近づいた時、ぴたりと動きを止める。

 恐らく直ぐ傍までやって来ている事に気が付いたのだろう、しかし相手が背を向けている絶好の機会と凛は一気に飛びかかるが、刹那白い閃光が目前に弾けた。

 「きゃ!」

 カメラのストロボを焚いたのだろう、思わず声を上げた凛の一瞬の隙をついて、カメラ男は駆け出す。

 しかしその瞬間、男は前のめりになって地面に思いきり顔面をぶつける。

 淘太は彼に足払いをかけた足ですぐにそこに駆け寄り、彼の右腕を掴むと軽く捻り動けなくする。

 そして地面に転がっていたカメラを取り上げると、撮影されていた画面を確認する。

 「ちょっとお借りしますね……って、これは完全にアウトだよなぁ」

 淘太は奪い取ったカメラに記憶されていた、ある意味ピンク色な画像を見て溜め息を吐く。

 「どこでそんなの覚えたんだよ淘太、もしかして化け物?」

 「いや、俺に教えた人間が化け物みたいな奴だったんです」

 まだ網膜に映るストロボの影をなだめながら凛も歩み寄ると、淘太の持っていたカメラを奪い取ってため息をつく。

 「とりあえず捕まえたは良いけど、どうするの?」

 「一応連れて行っとくべきじゃない?」

 と凛は言い、交番がある方向を指差した。

 「あー、あんまり仕事柄へんなスキャンダルは避けたいんだけど……」

 と呟きながら淘太はカメラ男を立ち上がらせると、近所の迷惑になる前に交番へ連れて行く事にした。

 カメラ男も、勝ち目は無いと堪忍したのか、しゅんとした表情のまま、無言で淘太に押されて歩みを進める。

 男が自分の家からあまり離れていない所で盗撮を再開していたお陰で、自分でも思っていなかったほどあっけなくカメラ男の捕獲は上手く行き、内心小躍りをしていた凛だったが、このときずっと無言だった犬夫の『匂いが違う』という呟きがどうも引っかかっていた。

 そして男が凛に感付かれたにも関わらず、遠くに逃げようともせずに撮影を始めていた事、この二つの謎の意味が解けるようになるのはこれからすぐ後の出来事だった……






 「あー、もう絶対雑誌に変な事書かれる……」

 淘太が一人ぶつくさと悪態を垂れたのは、二人と一匹、もとい三人が男を交番に連れて行った後、家路へと向かっている最中だった。

 テレビや雑誌の取材ではちょっと間の抜けた天然キャラを演じている淘太にとって、盗撮魔を捕まえ、交番に届けたなどと言う出来事は彼としては避けたい出来事だった。

 「まぁいいじゃん、一発屋な芸能人からが返り咲くチャンス」

 「芸人じゃなくて料理研究家です、それに俺自身は一発屋を望んでるんです」

 「なんやお前さん、そげん有名なんか」

 テレビなど見ない犬夫が知らないのも無理はないが、事実として淘太のブームは少しずつ右肩下がりで落ちてきているのは事実だ。

 勿論淘太にとってはこの出来事はまた話題を集めるチャンスではあるが、あまり目立つ事を好まない淘太にとっては気が重い話でもある。

 「にしても変だ、さっきのあんちゃんは」

 「匂いがどうのこうのって話?」

 凛が問いかけるが犬夫は答えない、気のせいだと思ったのかもしくは……

 「なんちゅうか、顔はそっくりやったんやけど、動きっちゅうか仕草っちゅうか、匂いっちゅうか、色々違うねん」

 「色々って?」

 「だから色々やねん」

 淘太の言葉に僅かにイライラを浮かべながらも犬夫は更に言葉を続ける。

 「なんちゅーかな、顔はそっくりなんやけど、なんか別人なんや、双子ににとーけど、それともちゃう、まるで変装かなにかみたいに……」

 と言いかけたところで犬夫が言葉と足取りを止める。

 その目線の先には、一人の人物が立っていた。

 夜に目立ちにくい黒っぽい服装、度の強そうなメガネ、そして短く切られたくせ毛に手に握られた大きな一眼レフ。

 それは正に……

 「嘘……カメラ男……」

 凛は驚きに息を飲むが無理も無い、カメラ男は交番に届けた為そう簡単に抜け出ることは考えられず、抜け出したとしても三人の進路に先回りするのは容易な事では無い。

 だとしたら考えられるのは……

 「あれや、ワイがお前さん家で見たのはあのカメラ男や」

 犬夫は開いた口が塞がらないといった風に呆然とする中。

 そのカメラ男は不敵な笑みを淘太達に向けた後、暗闇の中へ消えてゆく。

 犬夫も凛も驚きを隠せないでいる中、淘太は人一倍大きな動揺を隠せないでいた。

 都市伝説が現れる町、つまりはあのカメラ男も都市伝説の産物だとしたら淘太には最悪な結末しか浮かばない。

 つまりは。

 「凛……犬夫……早くあいつを捕まえないと!!」

 これまでにない動揺を見せる淘太に驚きつつも凛は事情を聴くが、次に淘太が言った言葉に思わず息を詰まらせるしかなかった。

 淘太が脂汗を浮かべながら言った言葉、それが。

 「俺の予想通りなら……あのままあいつを取り逃がすと最悪……カメラ男の命が危ない……」

 だったからだ。






 「……最悪カメラ男の命が危ない……」

 淘太の言葉は確かにそう聞こえた、しかし、凛にはその意味が分らずにいた。

 性格には、起きている現象そのものが分らないでいたのだ。

 交番にいるはずの男が、交番から抜け出し、そして自分たちを追い抜いて先回りしていたのだから。

 「凛、とにかく追いかけるよこれだけはまずい、あれがさっきのカメラ男とは別の存在だったらほんとにまずいんだ!」

 「なに言うちょるねん、ワイにはさっぱりわからんわ」

 凛よりも早く犬夫が尋ねるが、淘太は歩みを速め、さっきカメラ男が姿を隠した方向へ向け駆け出した。

 「淘太! 一体何が問題なの? 何でそっくりさんがいただけで命の危機があるのか説明をして」

 つられる様にして駆け出しながら凛が尋ねると、淘太はそのまま説明を始めた。

 「さっきから気になっていたんだ、犬夫が言う『匂いが違う』ってやつ、あれは気のせいだと思っていたけど、本当に別人だったんだよ、つまりあの男は凛の風呂を覗いていた本当の犯人、だけど僕たちは手違いで別のカメラ男、つまりはオリジナルの方のカメラ男を捕まえたんだ」

 「ちょっとまって、オリジナルってどういう……」

 「ドッペルゲンガーだよ、そういう都市伝説を聞いたことはない?」

 「ドッペる……なんやそげは変な名前は」

 淘太は息の上がったまま唾を飲み込み言葉を続ける。

 「ドッペルゲンガーも有名な都市伝説だよ、ある日を境に、突然自分と瓜二つの人間を見るようになる、そのもう一人の自分ってのがドッペルゲンガー、この都市伝説自体にはいろいろな説があるけど、どれもが三つの特徴を持ち合わせているんだ、まず一つ目が『ドッペルゲンガーは周囲の人間と会話をしない』そして二つ目『本人の関係のある場所に出没する』これは今までの出来事と当てはまっている」

 「『ドッペルゲンガーは周囲の人間と会話をしない』たしかにさっき一言も話さずに、こっちを意味ありげに見ただけ……」

 「そして二つ目の『本人の関係のある場所に出没する』これもそうだ、カメラ男が目撃されている場所はこの緑川町2丁目だけ、そしてあいつもこの場所にいた」

 一息に言いきると、淘太は鬱陶しく目元を叩く前髪をかき分けて少しだけ呼吸を整えると、最後の特徴を説明した。

 「最後の特徴が問題なんだ、それが『ドッペルゲンガーを目撃したオリジナルはほどなくして命を落とす』」

 「ちょっとまって、なんで死ぬの? 襲いかかったりとかするの?」

 「詳細はまちまちだけど、そう言われているのは事実なんだ、だからあいつとカメラ男が顔を合わす事を無くせば、時間稼ぎ程度にはなるはずだから……」

 そう言ってはいるものの、自身の脚力の無さに苛立ちを覚えていた。

 昼間の仕事の疲れからか、ちょっと走り出しただけで膝は震え始め、文字通り淘太自身を膝が笑っているように感じていた。

 それでも人一人の命がかかっている、その正義感だけが彼の走らせている。

 何より、もう二度と同じ真似をしたくない、自分の無力さが原因でこんな目に会うのは嫌だという思いが、彼に力を与えてはいた。

 しかし……

 「んなあほな……」

 犬夫は淘太の言おうとした言葉をそのままトレースした。

 ドッペルゲンガーが曲がった角の先に広がっていたのは、薄暗い街灯の続く三叉路だったからだ。

 「こんな時に……兎に角あいつの足取りを……」

 「そうだ犬夫! さっきみたいに匂いでなんとかならないの?」

 凛が犬夫に問いかけるが、犬夫は寸胴な体で首を振るとうなだれるように言葉を続ける。

 「んなん無理や……こげな速さでかけとったら、匂いもなんもの残っとららへんわ」

 犬夫と同じ様にうなだれる凛を余所に、淘太は全力でブロック塀を殴りつけた。

 息も絶え絶えに壁を殴りつけた右手。

 その手が少しだけ間をおいて右手が痛みを感じ始めるが、もちろんそれ以外の答えを教えてくれる訳も無く、一掃と苛立ちと焦燥感を高めてゆく。

 一度見失ってしまった相手、仮に今用意された三つの道から、ドッペルゲンガーが逃げた先を見つけることが出来たとしても、規則正しく碁盤状に続いた住宅街、同じような分かれ道は幾つもある、だからこそ『3×∞』に続く迷路の中から彼の後を追いかけることなんて到底不可能なのだ。

 つまりこれは、事実上の敗北宣言でしかなかった。

 唯一の頼りである犬夫の嗅覚も当てにはならない。

 自分自身の無力さに嫌気が注す、一人尻尾を振ることが得意な癖に、いざという時何の役にも立たない駄犬だと認める無力感。

 結局いざという時に力を発揮出来ない、番犬にすらなれない自分は今も存在している。

 そんな思いが数年ぶりに頭の中に渦を巻いて膨らみ、苛立ちとも後悔ともつかない感情が自分を飲み込んでいく。

 夜の静寂が広が広がる三人の間に広がった、諦めという名前の霧を耳触りな音がかき消したのは少し経ってからの事だった。

 「……?」

 ふと鼓膜を震わせる異音に目線を上げた先には、一台の車があった。

 違反駐車と思われるその車はハザードを点滅させ、耳障りなサイレンを響かせている。

 恐らく何かの拍子でカーセキュリティーが誤作動しているだけ。

 そう結論を出そうとした瞬間、今度は夜道を照らす街灯が一斉に消えた。

 いや、正確には一本の道を除いた街灯だけ、サイレンを鳴らす車のある通りを除いた全ての街灯が消えていた。

 「なんやこれは」

 犬夫も思わず言葉を漏らす。

 「これって……まるで」

 偶然起きたにはあまりにも不自然過ぎる現象、何が起きたのかは不明だがこれはまるで……

 「誰かが道を教えてるような」

 ぼそりと口をついて出た言葉、あまりにも都合がいい出来事だったが、今の淘太にこれ以外の可能性に縋る以外の選択肢は無い。

 「行くよ凛!!」

 一度は諦めかけたものの、再び淘太は決意を決めると一気に駆け出した。

 呼吸を荒くしながら、閑静な住宅街を駆け抜ける淘太と凛と犬夫。

 その行く手の三叉路では、さっきと同じような現象が次々と起きた。

 か細い街灯の明かり、突然大当たりのアナウンスを流す自動販売機、不自然に点灯を始める看板の明かりに誘わて、夜の羽虫のように三人は道を進んだ。

 そしてちょうど10個目の角を曲がった時。

 男の後ろ姿が狭い路地裏に入るのが見えた。

 「凛! 俺が左から回り込むから、凛はそのままあいつの後を」

 淘太はそう言い残すと、一人別の道に進んだ。

 その先の角をすぐに右へと曲がり一直線に走ると、すぐに男が右手の細い道から顔を出した。

 淘太はそのままの勢いを殺さずに上半身に力を入れて身を固めると、右肩からタックルをした。

 60キロ弱の自重をそのままドッペルゲンガーにぶつけた淘太は、激しく転んだ相手の背中に飛び乗り押さえつける。

 カエルが潰れたような声を上げる相手を余所に、強引に手を掴むと完全に相手の動きを抑え込む。

 「もう……逃がさない」

 体制的に絶対的優位の立ち位置についた淘太は、荒い息を切らし内心安堵を浮かべてはいたのだが、その安堵は次の瞬間畏怖へと変化した。






 「見つけた!」

 凛は角を曲がった先で、淘太が男を抑え込んでる姿を目の当たりにした。

 だが、暗がりの中二人に近付くにつれて異常な事態が起きてることに絶句する。

 汗だくになりながら淘太が抑え込む相手。

 その相手の顔が、淘太のものと全く同じだったからだ。

 更には背格好服装も同じ存在が、必死に助けを求めている。

 「凛! こいつの正体はドッペルゲンガーじゃない、シェイプシフターだ!」

 「凛! 助けて、こいつはどんな人間にも化ける事が出来る!」

 二人の淘太が声を上げる。

 「え? どっちが本物!?」

 必死に取り押さえる淘太と必死に抜け出そうとする淘太、その二人を見比べてみるが結論が一切出ない。

 二人が言っている事がどちらも本当だったとして、相手はシェイプシフターと呼ばれる存在、そしてそれは姿を好き勝手に変えられるということだ。

 だけど、今の凛に二人のうちどちらが本物かを確かめる判断基準は無く、このままではらちが明かないと再び駆け出した。

 とりあえず凛は取り押さえている側の淘太に対して、慣れない動作でラリアットを繰り出した。

 両手の自由を奪われていた淘太は、成す術もなく凛の二の腕を顔面で受け止める形になると、そのまま後ろ向きへ倒れこむ。

 「あれ? ラリアットってこんなのだっけ?」

 二の腕をさすりながら凛は疑問符を浮かべてみるが、その胸を、正確にはその対角線上の道を淘太に指差されている事に気がつく。

 「あっちが偽物!」

 凛が振り返ると、二人から逃げるように駆ける後ろ姿が見えた。

 あわてて後を追う凛だったが、先ほどのやり取りで随分と距離が空いてしまいもう追いつくのは困難かと思った矢先、凛にとっては幸運が、犬夫にとっては不幸が舞い降りた。

 隙をついて駆けだしたシェイプシフターに、遅れて駆けつけた犬夫が踏みつけられた。

 意図しない出来事にバランスを崩したシェイプシフターは、犬夫の悲鳴に合わせバランスを崩して転倒する。

 そこに目を光らせて飛びかかる女ニートの姿。

 暗がりの中相手も見えない中でキャットファイトをする凛、もみくちゃになる中で彼女は奇妙な感触に襲われた、相手の手の感触が瞬く間に柔らかく崩れ、形を変え、再び人の形をとったのだ、その一連の変化が済んだ時、異様な物を目にする。

 街灯の明かりに照らされた相手の顔は、自分のそれと同じだった。

 「え?」

 相手の手を掴んだまま固まってしまう凛。

 そこに淘太も駆け寄るが、状況は分るもののどちらが本物なのか分らずに首をかしげる。

 「「淘太! こいつ私に化けた!」」

 ステレオ放送で聞こえる凛の声に眉根を寄せる淘太、頭の片隅でこの場合どうすればいいのかと脳をフル回転してみると、意外な秘策を見つけた。

 「「淘太!!」」

 「なぁ凛、一つ質問するから正直に答えてね」

 淘太は、少しずつ歩み寄りながら一つの質問を投げかけた。

 「冷蔵庫の中にあったケーキ、あれを勝手に食べたのは誰?」

 僅かな沈黙の間、そして回答が提示された

 「……ごめん、我慢できなくて……」

 「え? ま……まさか、私が食べるわけ……ねぇ、ほ……ほら、きっと気のせい……」

淘太はとりあえず自分の罪を否定した方の凛に拳で制裁を加えた後、身に覚えの無い罪を被った方の凛を全力で取り押さえた。

 しかしその影は水のように溶けると地面を伝って少し離れた場所へ流れ、再び人間の姿を取った。

 その姿は、カメラ男でも凛でも淘太でも無い、初めて見る姿だった。

 「やっぱりばれちゃった」

 子供のような笑みを浮かべるその姿は見ようによっては子供に、見ようによっては大人に。

 そして男にも、女にも見える姿だった。

 声も中性的な澄んだ声で、その姿はまるで人という存在を大まかに象った様な姿だった。

 「待って待って! もう逃げないよ」

 再び身構える淘太に、手のひらを見せるように突き出して無抵抗な意思を主張すると、シェイプシフターは無邪気な笑みを中性的なその顔に浮かべながら二人の元へ歩み寄る。

 「ちょっとからかっただけなのに、ここまで追いかけてくれるとは思ってもいなかった、ありがとう」

 今までのやり取りが遊びに過ぎなかったこと、そして最後に言った『ありがとう』という言葉に本日何度目になるか分らない疑問符を浮かべ、淘太は口を開く。

 「ありがとう?」

 「そう、ありがとう、ここまで自分を認識してくれた人は初めてだから」

 再び疑問符を浮かべる二人、そこに顔を近づけてシェイプシフターは言葉を繋ぐ。

 「人面犬さんと一緒にいたからもう話は聞いたと思うけど、自分達は都市伝説、ううん、正確には人の概念が凝り固まった存在、だからその概念を持っていない人間には姿形は見えないから、こうやって接してくれる人は初めてなの」

 「いやいや!! ふつうこんな変な奴がいたら誰だって驚くでしょ!!」

 思わず凛が声を上げるが、シェイプシフターは予想外といった風に目を見開く。

 「誰だって驚くけど、誰でもはそんな不自然な相手と仲良くなろうとはしないよ。

普段ありもしないはずの存在を見たら、皆、見間違いか幻覚だと思うからね」

 淘太の頭に犬夫が言った『集団で見える幻覚のようなもん』という言葉が横切った。

 常識的に考えてみればそうだ、大多数の人間から見えない存在を見た場合、そのことを誰かに相談しようにも信じてもらえない、挙句の果てには妄想癖だの精神的な疾患だのと言われてしまうのが目に見えている。

 だったらどうするか、普通は見て見ぬ振りをする。

 相談出来る相手もいないのに彼らの存在を主張した所で、白い視線を痛いほど向けられる、それなら自分も見えなくなればいい、見えないふりをすればいい。

 シェイプシフターが言った言葉の意味はそういう事だと淘太は確信した。

 町の人間ならそうすれば良い、彼らを認識できる人間なら認識しなければ、何ら変わりのない普通の生活ができる。

 それでは都市伝説はどうすれば良いか。

 見えない壁越しに幸せそうな日常を眺め、決して交わることの無い幸せな日常を指を咥えて眺めていた彼らは。

 親に構ってもらいたい子供が悪戯に走るように。

 都市伝説は各々の方法で自身をアピールして。

 「まさか! 君は自分を認識してもらいたくて、少しでも反応をもらいたくてカメラ男に化けて……」

 「そうだけど、恥ずかしいからそういうことは口に出さないでよ」

 にししと笑いシェイプシフターは淘太の結論を裏付けると、突然凛と淘太に抱きついた。

 まるで家族を抱き締める父親のように、小柄な体で二人の首に手を回すと。

 「だから、ありがとう」

 とだけ言って手を離した。

 「なんだかよくわかないけど……」

 思考が追い付いていない凛は一人眉根を寄せる。

 「細かいいことは良いじゃん自分はさっき言ってたように、シェイプシフターっていう都市伝説らしいの」

 「案の定だけど、やっぱシェイプシフターは長いな」

 淘太がぼそりと呟いた言葉にシェイプシフターは食いつき、淘太の目前数センチの所に顔を寄せてきて、口を開く。

 「じゃあ、なんか名前つけてよ!」

 「いや……顔が近い……」

 目をらんらんと光らせる中性的で年齢不詳な顔を見て、淘太はふと頭の中に『ニュートラル(中間)』と言う意味の単語を頭に思い浮かべ、そして。

 「それじゃ、ニューとか」

 と呟く。

 「ニュー!! いいね! 呼びやすくて覚えやすくて、それでそれで、なんか新しそうな名前!!」

 ニューという名前がよほど気に入ったのか、満面の笑みを浮かべニューは淘太に抱きつく。

 「っていうか、ニューは自分たちがどうして生まれたのか知ってるの?」

 「ん? ほとんど分んない、だって気がついたらこうやっていたからね」

 癖の無いまっすぐな髪を揺らして凛を向くニュー。

 「でも少しくらいは勉強したよ」

 「それで、肝心なところはまだと……」

 「そうそう!!」

 やっと淘太を解放すると、ニューは地べたに座り込むとある願い事をした。

 「だから、もっともっといろんなことを知りたい、だけど、自分の力じゃ出来ることは限られちゃうから、一緒に調べてほしいの」

 「いやだから……」

 とはいったものの、内心都市伝説が何者なのか、どうしてこの町に存在するのかを知りたいという知的欲求は風船のようにどんどん膨らみ。

 「分った……じゃあやってみるか」

 「私は暇だしね」

 と安直な回答をしてしまう二人だった。

 もちろんこの日を境に、古びた3LDKに住まう住人が色々な出来事に巻き込まれることは言うまでもなく。

 想像していた以上の出来事に膨らむことは、まだ誰も想像していなかった。

 ただこの時は、ニューがドッペルゲンガーじゃなかったということ、それが嬉しかった。




 予断だが、ニューに踏まれ、文字通り腰砕けになった犬夫はこの間。

ずっと一人もがき苦しんでいたが、これから数十分後あわてて家から戻ってきた淘太に介抱されることになった。

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