第8話 起きて夢を見る
ダム湖沿いの公園はタイルが剥がれて一面の花畑と化していた。その割に時計台の錆は綺麗に取り除かれていて、時計の針は二時半と、昼過ぎのこの時間帯をきちんと指しているようだった。
人間の遺したものを受け継ぎつつも、妖精らしく自然と調和した意匠を施す。そんな工夫が随所に見受けられて、実に興味深かった。
「なんだか面白い妖精だね。ドワーフって」
「でしょ? ちなみにあの仮面は呪術的な意味合いもあるけれど、一番は同胞以外に顔を見られたくないからなの……あっ」
ドワーフの後ろを並んで歩いていたエコナが、ふと湖の方を見て声を上げた。
「ソウ、見てっ」
エコナが微かに声を弾ませて僕の腕を引っ張った。
「なに?」
「ほら、あれ」
エコナは苔むしたコンクリート製の欄干(湖への転落を防ぐための壁で、腰上ほどまでの高さしかない)に寄って湖面を指差した。
よく目を凝らして見ると、深緑色の水面に鮮やかな朱色の影が見えた。それもかなり大きく縦長で、鯨が泳いでいるところを上から見た形に似ている。
次の瞬間、朱色の影は一度姿を消したかと思うと勢いよく湖上に舞い上がった。
それは、まるで金魚が竜に化けたような姿をした巨大魚だった。嫌味のない上品な色合いの朱が映える細長い胴体には羽衣のようにひらひらと波打つ優雅な
首だけは蛇のような格好をしていて、下あごからは絵画に描かれた水龍のような二本の長いひげが生えていた。
「魚竜さまだ!」
ドワーフは欄干の上に飛び乗って感嘆の声を上げた。
「っ……」
僕は言葉を忘れて、すっかりとその美しき姿に見入っていた。
魚竜は虹のように半円の弧を描いて、ゆったりと湖水へと飛び込んでいった。
「湖上が騒がしかったから起こしてしまったみたいですね。湖に堕ちたクロオニの残骸も魚竜さまが後で打ち上げてくださるはずです。そしたらあっしらがコアを取り出して届けますよ」
「ありがとう。でもそれはあなたたちにあげる。橋のことと、案内の対価として」
「いや、それじゃあっしらが貰い過ぎてしまいます……」
「じゃあ、また今度お魚を分けて?」
「あい、喜んで! へへ、これでまた新しい呪術具が作れます」
エコナとドワーフが言葉を交わす横で、僕はまだ今しがたの光景の余韻に浸っていた。
「……どうだった? 綺麗でしょ?」
エコナがちょっと得意げに僕の顔をのぞき込んできた。
「うん……あれが、竜。初めて見た」
「そう、湖水の魚竜。このダム湖に住み着いている竜の一種で、この辺の守り神みたいなものね」
「魚竜さまがいらっしゃるからこそ、この辺には大型の機械兵器は滅多に近寄らないのですけどねえ」
ドワーフはため息を吐きながら欄干から飛び降り、ダムの方へと歩いて行った。
「ここはもう
ドワーフは呆れたように愚痴る。あどけない少年のような声でそんなことを言うのだから、かえって不気味な気配がかもされる。
彼(実際のところ性別は判然としないが)の後ろをついて行く僕に、エコナは一瞬気遣うような視線を送ってきた。
「それについては心から同感だよ」
僕はそう言って苦笑いを浮かべ、エコナの方を向いて肩をすくめてみせた。
「……驚いた。人間にもそう考えるのがいるんですねえ」
ドワーフが虚を突かれたように反応した。
「いや、僕みたいに考える人間は稀だよ。だからこそ僕は今ここにいるんだろうなあ」
するとドワーフは愉快げに笑い、エコナも思わずといった風に「ふふっ」と笑い声を上げた。
僕らは湖をせき止めているダムの中腹に差しかかった。ダムの上は緩やかなカーブを描いていて、両脇は岩を積み上げた急斜面になっている。まるで巨大な城壁だ。
向かって右の、ダム湖の反対側からは谷の合間から広がる盆地が見渡せる。このダム湖から流れ出ているのだろう河川に分断されるようにして、左側には一面の廃墟遺跡とその中心地に造られた真新しい大型の建築物や倉庫群が(あれがトウノ呪機商会の基地か)、右側には森が見えた。森の中にはぽつぽつと家屋の屋根と思しき影が散らばっていた。
「わあ、結構高いな」
「右に見える森が、あんた方の目的地・ニンフの集落ですよ。そして左に見えるのが『西の平原』。今は人間が支配している危険地帯です」
ドワーフが短い腕を一生懸命に伸ばして説明してくれた。
「良い眺めでしょ? ……あそこに見えるトウノの基地がなければ、もっといい眺めだけど」
ツタの巻き付いた青い欄干に寄りかかり、エコナが珍しく恨み言を吐いた。広がる景色に遮るものもなく、先程よりも強い風がエコナの若草色の髪を乱す。
「じゃあいつか、心から良い眺めだと思えるようにしようよ」
「え……?」
エコナが少し驚いたような表情で振り向いた。
「どうすればいいかなんてまだ分からないけれどさ、僕はいつか人間とニンフ、二つの世界の住人が互いの存在を脅かすことなく平和に暮らせる日が来ればいいと思っている。もしそんな日が訪れたら、この景色もまた違って見えるはずだよ」
「ソウ……」
「だから、その時は……」
そう言いかけたとき、視界がぐらりと揺れる。全身からさーっと血が引いていく感覚と共に、力が入らなくなった。
「っ……!」
そのまま欄干にもたれかかり、がくりと膝を突いた。指先に絡まり食い込むツタの感覚を頼りに意識を保とうとするが、まるで大波に押し流されていくように思考が沈んでいく。
「ソウっ、どうしたのっ? ソウ!」
僕の名を呼ぶエコナの声が遠くから聞こえたが、直後には何も分からなくなって……。
――そのまま、僕の意識は途切れてしまった。
それからどれだけ時間が経ったのか。
次に目を覚ましたとき、僕はベッドの上にいた。そのため一瞬だが、長い夢から覚めたのかと思った。ニンフの美しき乙女にさらわれて、機械兵器と死闘を繰り広げたのは、胸の奥でくすぶり続ける現実逃避願望が見せた
だが
蛍光灯のない木の天井。粘土で固めたような白くザラザラとした壁。そこに取り付けられた引き戸式の鎧戸は、妖精が通り抜ける小さな扉のようだった。オレンジ色の夕陽が、そこから差し込んでくる。
あれ、もしかしてここ日本ですらない可能性があったりするのか? いや、故郷の都市にもこんな西洋風の宿とかあっただろう。ではここはどこかのホテルの中か?
……って違う。僕はニンフの集落に行こうとしていたはずだ。それがどうしてどこかのホテルの中で寝ていることになるのだ。
体を起こして窓の外を眺めてみた。何かの植物が規則的に植わった草むらが目に入った。草むらの横には小さな花の
その向こうには林が広がっていた。スギやブナの木、そして花が散って若葉が瑞々しいサクラなどが不規則に間隔を空けて生えている。そのどれもが陰りゆく西日によって染められている。
そのとき、部屋の戸が開けられる音がした。僕はびっくりして身をすくませる。
「目が覚めたかい?」
明朗な青年の声と共に現れたのは、三十歳前後と思しき背の高い男だった。
ニンフは女性しか存在しない。とすると彼は人間か? しかしあの格好は何だ。まるで西洋の絵画に描かれている農民みたいな服装をしている。
と言うか、何で西洋民家風なのに引き戸? しかもよく見たら、それは竹で出来ているし。なぜそこだけジャパニーズ?
「何が何だか分からないって顔だね」
男は笑いながら、僕の困惑を見抜いたように声をかけた。
「ちょっと待っててくれ。いまお茶を用意する」
そう言って男は色褪せた竹の引き戸を閉めてどこかへ行ってしまった。
僕は口をぽかんと開けたまま、もう一度窓の外の景色を見遣って首を傾げた。
間もなくして戻って来た男の手には、盆に乗せられた白いティーカップがあった。彼はそれをサイドテーブルの上に置いて言った。
「霊力回復の効果があるハーブティーだ。飲むといい」
「あ、どうも」
勧められるがまま、ルビーのように赤く透き通ったハーブティーに口をつける。爽やかな酸味とハーブ特有の草花の芳香が口の中に広がった。すると、全身に重くのしかかっていた倦怠感が少し和らいだような気がした。
「慣れない味かも知れないが、薬だと思って全部飲み切ってくれ。今の君は無理に霊力を消費して生命力が枯渇している状態なんだ」
そう言いながら男は丸椅子に腰かけ、反応の薄い僕にお構いなく喋り続けた。
「君をここまで運んでくるのは少々苦労したよ。仲間のニンフが助けに行ってくれたからよかったけれど、あのエコナちゃんがボロボロになって帰って来たときはびっくりしたよ」
仲間のニンフ。エコナ。それらのワードを聞いて僕は速攻で身を乗り出した。
「エコナの仲間なんですかっ?」
「そうとも。まあ見ての通り、俺は人間だけどね」
「じゃあ、ここは……」
僕の問いに答えようとして男が含み笑いを浮かべたとき、竹の引き戸が開いて一人の女性が入ってきた。
「ああ、起きましたか」
ニンフだ。見た瞬間に直感した。海のように深い青の瞳と、同じ色をした長く艶やかな髪。儚げな微笑を
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