004 探偵は咳をする

 西暦二〇三六年。

 刃物を持って銀行に押し入る強盗は過去の遺物となったが、他人から金を奪おうとする犯罪者は後を絶たない。

 駅で捕まる痴漢の数は十年前と比べて劇的に減ったが、性犯罪の件数は増え続けている。

 人混みで自爆するテロリストは姿を消して久しいが、テロ事件の数はまるで減る見込みがない。

 つまり、犯罪者たちの活動領域がシフトしたというだけの話だ。彼らはより安全で、効率的で、自由度の高い楽園に活動拠点を移した。

 人類にとって無限の可能性を秘めた第二の地平でありながら、あらゆる汚濁が行き着く肥溜めでもあるアナザーワールド——サイバー空間。

 日に日に進化するサイバー犯罪者たちの手練手管に対して、日に日に進化して生活を豊かにしてくれるテクノロジーに頼りきりの人々は、自分の身を守る手段や意識を健全に養ってこなかった。人間、怠惰のツケは必ずまわってくる。いざその時になって「悪いことをする奴が悪い」「自分は悪くない」などと言ってみたところで、盗まれた個人情報や金は戻ってはこないのだ。


「つまり、あなたの意識が低すぎるのが悪いってことですよ」

 先ほどの優しい微笑みはどこへやら、サイバー探偵はご高説とともに哀れな依頼人を情け容赦なく斬って捨てた。

「だってまさか詐欺だなんて思わないじゃないか……」

「続きは中で聞くですよ。ほれ、降りた降りた」

 そう言ってガレージに停めたミニから降りると、さっさと歩いて行ってしまう。俺はなんだかパトカーで連行された容疑者のような気分で(釈然としないけど)彼女に追従した。

 階段を昇り、二階の事務所の扉を開けて中に入る。

「どうぞです」

「おお……」

 そこには目を見張るような立派な応接室が、なかった。

 マホガニーの机も、立派な本棚も、ありがちな地球儀も。むしろ探偵事務所らしい要素は一つもない。

 まず、入って左側には大小様々な機器が収納されたラックがずらりと並び、壁を覆い隠していた。機器の冷却のためか、冷房がガンガンに効いている。

 正面の壁は一面がホワイトボードになっていて、アルファベットや数字の羅列がびっしり書き殴られている。

 そして右側。手前に何故かハンモックが吊るされていて、その奥に細長い革製のソファと炬燵が……コタツって、今は七月だぞ。

 汚いとかセンスが悪いというならまだ突っ込みやすいのだが、あまりに統一感がなさ過ぎて、居を構えている人間の営みがまったくイメージできない。

「おかけになってお待つです。コーヒー淹れてくるです」

 そう言い残し、彼女は事務所の奥に消えていった。

 おかけになってと言われても、座る場所が炬燵しかない。仕方なく中に足を入れて待っていると(冷房が効きすぎているためかちょうどいい)、マグカップを二つ持って戻ってきた彼女は俺の正面に着席した。どうやらこの炬燵が事務所の応接セットらしい。

「本当に君一人だけなんだ? 大変そうだね」

「そんなことないです。一人の方がよっぽど楽です。人間は面倒です、プログラム通りに動かないですから」

 なんだか社会不適合者みたいなことを言いながら、四角いケースから何かを取り出す。

「改めて、わたくしこういう者です」

 渡された名刺には、『ひなのサイバー探偵事務所 サイバー探偵・雛野つばめ』と書かれていた。

「探偵の雛野つばめです。つばめちゃんとでもお呼びください」

「それじゃあ、つばめちゃん」

 つばめちゃんがコーヒーを噴き出した。

「ほんとにいきなりちゃん付けするですか、普通」

 ゴホゴホと咳込みながら睨んでくる。

 呼べと言われたから呼んだんだけど……。

 学校にまともに通っていないせいか、他人との距離感を測るのはどうにも苦手だ。社会不適合者は俺の方かもしれない。

「ごめんごめん。それであの、踏み込んだ質問かもしれないけど、自宅はここから遠いの? もう時間も遅いし、そろそろ帰らないと」

「家はここですよ」

 彼女はそう短く言った。

 まさか、本当にここで一人で暮らしているというのか?

 なぜ探偵事務所を? ハッキングの技術はどこで? 家族は? 学校は? なんでカタコトの外国人みたいな喋り方を?

 ……訊きたいことはいくらでもあったけど、それ以上は踏み込んではいけないように思えて、質問タイムは切り上げることにした。

 つばめちゃんが気を取り直すようにエヘンと咳払いをする。

「話を戻すです。柊翼斗さん、あなたが被害に遭った事件について詳しく教えてください」

「はいです」

 炬燵の中で足を蹴られた。

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