太一の勘違い

mojo

若き日のほろ苦い思い出

 ボディの側面に白抜きで、有限会社林工務店、とロゴが入ったオリーブグリーンのカローラバンは京葉道路から千葉東ジャンクションを抜け、東金道へ入った。

「そのうち中曽根が総理候補になるけど、太一くんたちの世代はそれを阻止しないとだめだよ」

 ぼくが運転する後ろの座席から坂下さんはいった。

「はあ、何故ですか?」

「あれが総理大臣になったら、徴兵制度ができてきみは兵隊に取られるからね」

 坂下さんはぼくのバイト先の内装工事店に住み込みで働く職人である。五十を過ぎた独身で、ことあるごとに政治や経済の話をしたがる困ったおじさんだ。

「太一くん、プラント輸出って知ってる?」

 ぼくがいい加減に応じると、坂下さんは待ってましたとばかりに、おそらくは新聞で仕入れた、プラント輸出、についてとうとうと語りだす。親方格の黒川さんは苦々しい表情で助手席に座ってタバコを吹かしている。ぼくたち三人はこれから東金にある京葉ホームセンターの改装工事現場に向かう途中である。

 たぶん坂下さんは、ぼくがこの工務店にバイトに来るようになった経緯を意識していている。ぼくがそう思うだけで坂下さんにはそんなつもりはないかもしれないが。じつはぼくの方はそのことをけっこう意識している。

 ぼくは大学をしくじり、父の紹介でこの工務店で働くようになった。工務店の社長はかつての父の上司で、脱サラしてこの店を立ち上げた。父の勤務先は建築資材メーカーで、社長はそのメーカーから材料を買い、工事現場での施工に使う。坂下さんと父とは巳年の同い年だった。そのことはぼくに色々なことを考えさせる。

 業界では知られた企業に勤める父。営業職で毎日帰りは遅い。休日はゴルフの打ちっぱなしに通い、テレビの相撲中継を見ながら晩酌する。そのころのぼくは、まだ父が嫌いでなかった。むしろ、どこにでもいる普通のお父さん、として誇りにしているようなところもあった。

 一方の坂下さん。妻も子もなく、家もない住み込みの職人。現場から帰ると暇を持て余し、新聞を隅から隅まで読みつくし、他に話し相手はなく、ぼくのような若造を相手に政治や経済の話を振ってくる。嫌だ。五十を過ぎて天涯孤独なんて悲しい。ぼくは自分の将来を案じ、坂下さんのようには決してなるまい、思っていた。

 カローラバンは東金インターチェンジから一般道に降りた。一般道といっても高速道路と同じ道幅があり、走っている車も少ない。この辺りは有名な「ネズミ捕り」ポイントで、ぼくは免許を取ってすぐに、九十九里浜へ魚釣りに行く途中「三十キロオーバー」で捕まった。

 制限速度を守りながら、カローラバンは京葉ホームセンターに向かう。そのせいか、坂下さんの機嫌はよい。いつもは「おれはお人よしだから、免許取立てが運転する車に乗ってやっている」などと嫌味を言うが、今日は暢気に鼻歌など歌っている。

 現場に着くと、店は改装中ながら営業していた。広い店内に入ると隅の一角は既に黄色と黒の虎ロープで仕切りがしてあった。ホームセンターの店長と打ち合わせ、その仕切りの内側の床材を剥がし、順次新しいものに張替えることにする。虎ロープを解き、隣のフロアに移動する。虎ロープを張りなおし同じ作業を繰り返す。

 ぼくは山芋を掘るようなごついケレン棒で床剤をバリバリ剥がしてゆく、剥がれた所に坂下さんが接着剤を塗り、そこに新しい床材を黒川さんが張ってゆく。店内の客は疎らだが、時折古い床材を剥がした所にも客がくる。これでは仕事がはかどらないし、第一虎ロープで仕切っている意味がない。それでも店長からの厳命で、お客が来たら作業を休止しなければならない。

 そのうちぼくは不思議なことに気がついた。それは若い女の子で、歳はぼくと同じくらいだろうか。彼女は作業中の場所に頻繁に現れる。何を買うふうでもなく、ぼく等が隣のフロアに移動すると、いつの間に彼女が居て、棚の品物を眺めている。それがスパナだったり電気ドリルだったりするからなおさら不思議である。

 まだ正午にはならないが、きりのよいところで昼飯にする。この辺りは海に近く、漁港もある。なんでもない定食屋のメニューにも、鯵の叩き定食、があったりする。ぼくたち三人はそういう店に入った。ぼくが注文したのは、鯵のなめろう定食。坂下さんは鰯焼魚定食で黒川さんはモツ煮定食を頼んだ。

「なぁ、太一くん、なめろう、って何のことかわかる?」

「青魚を使った漁師料理でしょ?」

「そうだけど、なんで、なめろう、なのか知ってる?」

「そこまでは知らないよ」

 また坂下さんの薀蓄が始まった。ぼくは坂下さんのこういうところが苦手である。開陳したいのなら、人を試すようなことをしなければいいのに。

「漁師がさ、美味すぎて皿を舐めるようにして食べるんだ。だから、なめろう」

「へぇ、そうなんですか」

 ぼくは心中で舌打ちしながら素っ気無く応じる。坂下さんはどうでもいいことを良く知ってますね、とは言わずに。

 黒川さんはモツ煮の汁を丼に余った白飯にかけている。美味そうだ。明日はモツ煮定食を注文しよう、とぼくは思う。

「ところでさ。坂下さんも太一も気づいてるか?」

 いつもは寡黙な黒川さんが話題を変えた。

「おれらが張り替えてる辺りに女の子がしょっちゅう来るだろ。あれはなんだろうな?」

「あー、あれは不自然だよね。もしや太一くんに気があるんじゃないの?」

 自然な会話の流れだが、坂下さんが言うとなんだか気に食わない。それに、ぼくは当時、自分の容姿にコンプレックスを持っていて、接着剤で汚れたジャージ姿のぼくに女の子が興味を示すとは考えられなかった。

「やっぱり太一だよな。それしか考えられないよ」

 黒川さんも興味津々である。

「いや、おれ、女にはモテないっすから」

 ぼくは弱々しく応じる。

「よし、午後からその辺を観察しながらやろう」

 そういう坂下さんの眼が、ぼくには底意地が悪く光るように思えた。

 昼休みが終わって作業に戻った。女の子は相変わらず買い物カゴを手に持ち、ぼく等三人の近くで棚の品物を物色している。いま施工しているフロアはもうすぐ仕上がる。ぼくは隣のフロアに移った。虎ロープを張る。ケレン棒で古い床材を剥がす。黒川さんと坂下さんは一服つけに店外にでていった。それなのに女の子は居る。ぼくは照れた。作業に没頭する振りをしながら女の子を背中で意識した。一服から戻った二人はにやにやしている。そんな風にその日の作業は終わった。

 帰宅したぼくは夕飯のあとに風呂に入った。浴槽に浸かりながら、女の子のことを考えた。本当にぼくに気があるのだろうか。ジーンズにTシャツの地味で田舎くさい女の子。東金に住んでいるのだろうか。デートするなら父から車をかりよう。片貝漁港の堤防に二人並んで釣り糸を垂れたらどうだろう。いやまてよ。あそこはトイレがないから女の子には無理かもしれない。

 翌日、ぼくは新しいジャージを着て出勤した。

「おや? 太一くん。小奇麗なかっこしてるじゃない」

 事務所で新聞を読んでいた坂下さんが顔を上げていった。

「ふむ。太一にもいよいよ春がくるか」

 黒川さんはそういうと作業着の胸ポケットからハイライトをだして一本咥え、ぼくにも箱を差し出した。

「いや、そんなんじゃないです。そろそろ新しいジャージにしようと思っていたところ。あれ、接着剤でガビガビになっちまって、洗濯しても落ちないし」

「べつに照れることないじゃないの。おれが太一くん位のときは、女関係は結構盛んな方だったけど、あの子は地味でいいよ。尽くすタイプ。太一くんみたいなぶっきらぼうにはちょうどいいんじゃないの?」

「いや、そんなテレビや映画のような話になるわけないじゃないですか」

「そうでもないぞ。男と女ってのは些細なことがきっかけでくっ付いちまうもんだぞ。おれと女房とだってそんなもんだったよ」

 黒川さんは言う。だけど、あの女の子の態度はちっとも、些細、ではないではないか。

 カローラバンは再び東金ホームセンターに向かった。

 ホームセンターから与えられた納期は二日間。作業が順調に進めば今日の夕方には完了する。例により、ぼくは虎ロープを張り、作業場を確保する。ケレン棒でザクザク古い床材を剥がし、埃が舞い上がらないように如雨露で水をまく。ほうきで塵を掃いた床に坂下さんが接着剤を塗り、黒川さんが新しい床材を貼ってゆく。ぼくら三人は黙々とその作業を繰り返した。ふと気づけば、いつの間に例の女の子が近くにいる。やはりこれは何かあるに違いない。

 昼食は昨日と同じ店に入る。僕はモツ煮定職を注文し、昨日黒川さんがしたように汁を丼の白飯にかけた。

「太一くん。午後からはすぐに完了しちゃうよ。そうしたらカローラで船橋の事務所に帰るだけだよ。男の子なんだからそれまでに何らかのアクションを起こさないと」 

 坂下さんはいう。

「アクションって、どうすればいいのかな」

「まず話しかける。彼女、それをずっと待ってるんじゃないの?」

「そのことなんだが」

 黒川さんが応じる。

「どうも、様子を見ていると、そういう雰囲気でもないような気がする。あれは確かに太一を意識しているが、女が男を見初めるって感じとは違うようにも思えるんだな、おれには」

「黒川さん、おれもなんだか色っぽい感じはしないんですよ。確かに彼女はおれを意識している。それは解るんだけど……」

「太一くん、もっと楽観的にいこうよ。どうせいま彼女いないんでしょ?」

「坂下さん、おれ、女慣れしてないのは事実だけど、あれはやっぱり見初めるって雰囲気じゃないよ」

「もったいないなぁ。おれが太一くんなら絶対ものにしちまうんだがなぁ」

 坂下さんは食後の一服を吸いながらにやにやしている。

 昼からの作業は僅かなスペースしか残っていなかった。古い床材を剥いで床面の埃をほうきで掃き取ると、ぼくの仕事はなくなってしまった。

「一服しに行ってきます」

 ぼくは黒川さんにそう告げ店外にでた。ハイライトを咥え火をつける。煙をフーと吐き出し、あの女の子について考える。決して可愛いとはいえない。どこにでもいるような地味で目立たない子だ。それでも僕に好意を寄せてくれているなら嬉しいじゃないか。僕は未だに彼女に話しかけるか否か逡巡していた。このぼくに女の子の方からカマをかけられるなんてことがあるのだろうか。

 現場に戻ると、ちょうど黒川さんが最後の一枚を貼り終わり、腰に手をあて背中を伸ばしていた。

「太一、作業完了だ。店長から印鑑を押してもらってきてくれ」

 ぼくは、施工完了証明書、を持って店長のいる詰め所に行った。すると、そこにはあの彼女がいるではないか。ぼくは思わず「どうも」と声をかけてしまった。ばつの悪そうな笑顔で「お疲れ様でした」と彼女。店長から受領印をもらう間、ぼくのあたまは真っ白になった。何故彼女がここにいるのだろう。空気を察したのか店長がいう。

「あ、彼女ね。じつはこの店には万引きが多くてね。監視員として働いてもらっているんだ」

 店長から受領印を貰うと店内に引き返す。やはり色っぽい話ではなかったのだ。彼女は万引き予防のためにぼくをマークしていたのだ。ぼくの風体からは、それは当然だったかもしれない。

 カローラバンは工具類を積み終わり京葉ホームセンターを後にする。時刻は午後三時を回っておらず、黒川さんの提案で近所の片貝漁港の堤防で魚釣りをすることになった。いまはイシモチの投げ釣りのシーンズンである。林工務店の客筋は殆どが千葉県内の業者で、ぼく等はこの日のように仕事がはやく片付くと近隣の防波堤で魚釣りをしながら事務所へ戻る時間を調整する。

 漁港の突端の堤防に竿が三本並ぶ。西日が海面をぎらぎら照らしている。

「太一くん、けっきょく何もアクションをおこさなかったんだ。意気地がないなぁ」

 坂下さんは自分のことのように残念がった。

「うん、おれ、あういう子は趣味じゃないんだ」

 ぼくは悔しさを押し殺してそう応じた。

「もったいないなぁ。尽くし型だと思ったんだがなぁ」

 ことの成り行きを知らない坂下さんは、そう呟くと仕掛けを海面に投げ入れた。

 潮風にのったカモメが数羽、ぼく等の頭上を旋回しながら鳴き交わしていた。

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