第8話 狂気ノ殺意

 ギシッとなにかが軋む音が脳に響き、美和はゆっくりと目を覚ました。


 徐々に意識が覚醒していくのにあわせて、右側にひんやりとした感触を覚えながら目を開ける。


 最初に目に映ったのは真っ暗な闇だった。


 しかし、時間が経つにつれてここがどこかの室内で暖色系の薄暗い照明が部屋の輪郭をぼんやりと浮かびあがらせていることに気づいた。


 ここはどこだ。

 どうして自分はここにいるのか。


 なにをしていたのか思い出せない。


 しばらく思い返してみたが、目覚める前の記憶は霧がかかったように不明瞭だ。


 代わりに自分が床に寝転がされていることに気づいて、もっと周りを確認しようと身じろぎする。


 だが手が思った通りにまったく動かず、体を起こすことができない。


 手元に目をやると、手首に荷造り紐が巻きついていた。


 知らない場所にいる自分の状況に徐々に不安が増していく。

 助けを呼びたかったが、思ったように声が出ない。


 もどかしさを感じつつも美和はどこにいるのかだけでも理解しようと周囲に目を配る。


 白っぽい壁にフローリングの床、木製のテーブル。


 外の光が完全にさえぎられ、頼りない照明が唯一の光源のなかで確認できるものは少なかったが、あるシルエットが美和の目に止まる。


 美和から二メートルほど離れた位置――ダイニングテーブルの側に誰かが仰向けで横たわっており、胸の膨らみから女性であることが察せられた。


「す、すいません」


 美和は息をためて吐き出すようにして彼女に声をかけてみるが反応はない。


 仕方なく縛られていない足でうまく立ち上がり、彼女の隣に腰を下ろした。


 横たわっている女性は美和と同じくらいの年齢のように見えたが、衣服や顔立ちをよく見ると少し年上のように思える。


 彼女は眠っているように安らかな顔をしていたが、美和その表情があまりに整いすぎていて逆に作り物ではないかと思ってしまった。


 ここまで近づいているのに反応がないことに怪訝な顔をしながらおそるおそるその肌に触れようとした。


「起きましたか?」

「…………ッ!」


 しかし誰かが声をかけてきて、美和は反射的に女性に伸ばしていた手を引っ込め、声のしたほうを向く。


 廊下へと繋がっていると思われるドアのところに吉田がいた。


「先生……? どうして? ここって……」


 見知った人間が現れたことにホッとした表情をしながら、美和は訊ねる。


 目の前で手首を縛られているのに平然としているのが引っかかったが、そんな疑問をかき消すように吉田は答えた。


「安心してください。ここは僕の家ですよ。なにも心配ありません」


 そういって吉田は微笑む。

 おぼろげな記憶をたどりながら美和は呟く。


「私は、一体……」

「もしかして記憶が思い出せないのかい?

 なら心配ない。

 薬のせいで一時的に記憶が曖昧になっているだけだ。いずれ思い出すよ」

「……薬?」


 美和が問いかえすと吉田は無言で頷いた。


 なぜだろう。

 口調や言葉は同じはずなのに嫌な悪寒を覚える。


 思えば最初から変だ。


 その場に突然現れたかのようにまったく気配を感じなかったし、手首が縛られているのは見えているはずなのにそれに触れようともしない。


 それにさっき薬のせいで記憶が曖昧になっていると言った。


 暗い背景のなかに浮かびあがる吉田の笑みに無意識の嫌悪が広がる。


「どういうことですか……?」

「暴れられると困るので薬で眠ってもらったんですよ。

 ちょっと予定外の事態で急遽決行したので、用意できる薬の量が少なくてもしかしたらと思って戻ってきたらやっぱり起きてましたね」


 しれっとした口調でそういった吉田は美和のほうに歩み寄ってきて彼女と同じ目線まで屈む。


 その顔を美和はじっと睨んだ。


「私を、誘拐したんですね」

「その通り。やはり、君は優秀ですね。理解は早くて助かります」

「彼女もですか?」


 美和は隣で眠るように横たわる女性を一瞥して吉田に問う。

 学校にいる時となにひとつ変わらぬ表情で頷いた。


「そうですが、彼女はすでにこの世界から救われました。そこにあるのはただの抜け殻です」


 その言葉に美和は思わず隣の女性に目を向ける。


 彼女が、死んでいる。


 吉田に告げられた言葉に現実感がもてず、美和はおそるおそる彼女の手首に触れてみる。


 しかし彼の言ったとおり皮膚越しに彼女の脈を感じることはできず、肌も凍りついたように冷えきっていた。


「まさか、あなたが連続誘拐殺人の犯人……? なんで……なんで殺したんですかッ」


 消え入りそうな声で美和は呟く。


 頭がクラクラする。


 遺体にしては恐ろしく美しい彼女の表情に現実感がなさすぎて体が震える。


 そんな美和を見ながら吉田は立ち上がる。


「殺した? 滅相もない。救ってあげたんですよ。この辛く苦しい世界から」


 理解できない言葉を発する吉田に目だけを向けて表情を窺う。


 彼は授業でもしているかのように至極真面目な顔をしたが、理解できない美和の心情を察して説明を始める。


「いまのこの国はおかしいでしょう?

 主婦は年収低い夫の暴力に耐えながら家事をこなし、学生は必死にバイトをしてお金を貯めている。

 君だって、だから水商売にまで手を出してお金を稼いでいる。

 でも、君がそんなことをする必要はない。

 この世界とは別の場所へ行けば煩わしい世間のしがらみから解放される。

 僕はその救済を手伝っているだけです」

「……狂ってる」


 自信ありげに自らの思想を語った吉田にそれだけを絞り出す。


 吉田の主張はただの押し付けでしかない。


 それを理解したとき、美和の中で吉田は気のいい学校の先生から理解の範疇を超えた化け物へと変貌していた。


「私も殺すんですか?」

「えぇ、そのためにここに連れてきたんですから」


 そういうと吉田はキッチンほうへと一度消え、なにかを持って再び現れる。


 光源をギラリと反射するそれは細く鋭いナイフだった。


「いつもは眠ったまま処置をするんですが薬がないので仕方ありません。抵抗すると危ないので大人しくしておいてくださいね」


 呟きながらナイフ片手に吉田が迫ってくる。

 美和は顔を引きつらせながら後ずさる。


 まだ死にたくない。

 こんなところで殺されるのはゴメンだ。


 ならどうすればいい、どうすればいい。


 考えろ、考えろ、考えろ。

 この状況を切り抜ける状況をッ。


 その時、プルルッと場違いな着信音が廊下から聞こえ、吉田がそちらのほうに気を取られる。


 美和はチャンスを逃すことなく体全体を使って吉田に体当たりし、彼を突き飛ばした。


 予想外の行動に反応が遅れた吉田はすぐに体勢を立てなおすことが出来ず、美和は手を縛られた状態でリビングを飛び出してそのままドアのほうへと駆けた。


「待て……ッ!」


 そんな声が聞こえたが、構うはずもなくドアを開ける。


 外に出ると、まず目に飛び込んできたのは青空だった。左右を見渡す。


 どうやらここはどこかのマンションのようで、柵の設けられた廊下がずっと続いており、その最果てを目指して走り出す。


 自分が何階にいてこのマンションのどの位置にいるのかなど把握していなかったが、一刻も早く離れなければならないことだけははっきりしていた。


 角を曲がり、階段を登り、自分でもわけのわからない逃げ方をして最終的に渡り廊下近くの少し開けた空間に息を潜めるように体を落ち着ける。


 周囲から足音が聞こえてこないか気を配りながら荒くなった呼吸を整える。


 これからどうすればいい。


 壁に半身を預けながら考える。


 ただがむしゃらに逃げてきてしまったが、位置的には多分吉田よりも上の階にいるはずだ。


 逃げるという気持ちが先行して焦って階段を登ってしまったのだが、普通なら下に降りるところなのでもしかしたら裏をかけるかもしれない。


「おいッ」

「ヒッ……」


 そう思った時だった。


 背後から声と同時に肩を掴まれ、心臓が飛び出しそうになる。


 しかし、声の主を見て美和は別の意味で驚いた。

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