第3話

着替えを済ませ、中島さんと女の子に顔が見えないようにこうべを垂れながら、お先です、と小さい声で言った。二人とも上辺ではお疲れ様です、と労わるけれど、本当はそんなことちっとも思ってないんだろうな、と余計なことを考えてしまう。お荷物、出来損ない、無能。僕に当てはまる名前は案外たくさんある。「伊坂陽介」なんて立派な名前は僕には不釣り合いな気もする。名前負けってやつ。

「うるさい、黙れ。」

自分の中の自分にぼそりと抵抗してしまうのも、まだどこかでそうじゃないと思い込みたい自分の悪い癖だ。いつの間にか日が落ちている。街灯やチェーン店のネオンの看板、バスのヘッドライト、信号機の赤が夜の街を照らす。眩しい。太陽の光はあんなにも優しいのに、この街の光は酷く眩しく襲いかかる。街全体が僕を責め立てているみたいだ。こんな日はいつも、人混みの中で僕だけが浮いているような、ふわふわとした孤独感が、風船のように膨らんでいくのだ。中身は空っぽなのに。商店街を、足早に通り抜けようとする。ふと、急ぐ僕の耳に、透き通った、けれど力強い歌声が飛び込む。顔を上げると、シャッターの前でアコースティックギターを掻き鳴らす少女の姿が見える。

観客は一人もいない。立ち止まって耳を傾けてくれる人はいない。ただ虚空に向かって社会への皮肉紛いを歌う少女。彼女のような人間は、この街では珍しくない。バンドマン、シンガーの他に、一人芝居を披露する役者、胡散臭い占い師までこのシャッター街に露店を構える。もう慣れきってしまった光景だ。何度も見て、僕だって、まるで彼らがいないような素振りで通り過ぎてきた。彼女の姿が近付く。声も大きくなる。あどけない、罪なんて持ち合わせていない、汚れのない、透明な少女の姿は、何も知らない他人から見れば痛い。

「お仕事お疲れ様です。学生さんは、今日も授業お疲れ様です。みんな、お疲れ様です。」

アコースティックギターの音色にのせて、鈴のような声が誰もいないのに誰かに向けて発せられている。

「失敗したり、躓いたり、生きるのは全然簡単じゃなくて、毎日辛いかもしれません。どうか、私の歌を聴いてください、なんて言ってもそんな余裕ないと思います。だから、帰り道の心地良いBGMだと思ってください。お疲れ様です。みなさん、お疲れ様です。」

なんでもない言葉だ、お疲れ様です、なんて。でも、どうしてだろう。止まってしまうと泣きそうになってしまいそうだ。顔を下げて、僕は知らん顔で彼女の前を通り過ぎた。彼女のか細い声が、遠くなると力強い歌声に変わった。僕は足早に去った。

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