ゼンザイ!

備成幸

第1話

 しばらく雨が続いていたため、澄んだ空がいつにもまして爽やかに映る。だがそれはそれとして寒い。こないだ新年を迎えたばかりであるから、風が吹くたびに縁側の床板に座る体が縮こまってしまう。そこで「ふぇっきゅぃ」と堪えていたくしゃみをしてしまったことで、妻が困り顔で振り返ってしまう。

「お前様、やはりお寒いのでは」

 そりゃあねえ。妻が仕立ててくれた足袋のおかげで足先だけは暖かいが、あいにく私は他に寒さを凌げる物を着ていし、めちゃくちゃに寒い。しかし甲斐性無しの夫の所為で使用人も雇えず、盥の水に赤くなった指先を突っ込む妻を目にして、どうして自分が羽織りを身につけていられるだろう。

「気にすることはない、お前が着ていなさい」

 それでも妻は諦めの悪い目で黒い上着に手をかけようとしているので「それにしても、今日は気持ちの良い日だなあ」と言って、いわゆる「空気を読む」というのをやった。彼女に風邪を引かれるのは嫌だし困る。そんな私の気遣いを知ってか、妻の視線が空へ移った。

「私は晴れが好きです。明日もこんな天気だったら良いのですが」

 それは困る。お天道様にはなるべく早く雨を降らせてほしい。

 というのは、私が別にじめじめしたのが大好きというわけではない。長州や土佐の浪士達が京や大坂に火を放たんと企んでいる昨今では、眠りから覚めた時に聴こえる雨音は「こういう日には火の手は上がらないよ」という意味を持つからだ。

 生憎この小心者には妻の好みを真っ向から否定する度胸はないため「ああ、そだね」とうやむやな物を彼女に押し付けた。

「そうだ、お前様。お荷物が届いておりましたよ。辰吉さんから」

「来たか」と反射的に私の脚が立ち上がった。辰吉は私の同郷の友人である。今は新選組の隊士をやっている彼だがもとは行商を営んでおり、そのつてで私の趣味物をあれやこれや調達してもらっている。もちろん、新選組には内緒だ。

 知らせを聞いて先ず、物欲を満たした快感がやってきた。そして次に、妻の顔が浮かんでそれが萎えた。まさに泡沫の如し。

「すまん。稼ぎも少ないくせに、このような物ばかり」

「良いのですよ、むしろ今までずっと私や隊士の皆様の為にお金を使ってくださっていたのですから」

 ああ、私はなんて良い嫁を娶ったことだろう。

「おはようございます、先生」

 スエを嫁にもらった時は「なんとまあお転婆な娘を押し付けてくれたものだ」と兄上を恨んだものだが、近頃は静かに、大人びてますます美しくなった。こういうのを、惚れ直す、というのだろう。そうなってしまえばすべてが愛しく思えるらしく、今では頬のほくろすら可愛らしい。

「先生、谷先生」

 こんなに可憐な彼女に今着ているような饅頭の餡子色の着物は似合わない。もっとおしとやかな、柔らかな色がきっと似合うはずだ。

「お前様、十郎さんが呼んでおりますよ」

 スエの言葉にハッとした時には、私はすでに何かを拒絶する顔になっていたことだろう。その名前は聞きたくない。何故こいつは私が妻に思いを馳せている時ばかりにやって来るんだ。振り向くと、如何にも「私は真面目なところが取り柄です」と言わんばかりの眉を拵えた青年が口をギュッと結んで正座していた。

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