冒拳すれば、奇縁に当たる

dandy

第1話

 いつからだろうか、グレムは拳を大岩にぶつけ続けていた。それを怠った日はなく、素手でそのまま殴っているだけに彼の手はボロボロになっている。しかし本人は治療などを一切せず、たとえ怪我をしても全て自然治癒に任せてきた。

「………ふぅ」

 今日もまた血塗れになった拳を見ながら日課を終えたグレムは、夕焼けに照らされた家路を急いでいた。特に急ぐ理由などはないのだが、特別な用事がない限りは日々の生活のリズムを崩すのはよろしくないという価値観を持っている。



 グレムの家は、街からだいぶ離れた場所にある一軒家。周囲に人は住んでおらず、倒壊した家屋の残骸が散らばっているだけである。

 家の周辺には畑しかなく、動物もほとんど見受けられない。普通の人間なら利便性を求めてもっと人の集まる場所に引っ越すなり何なりするだろうが、彼はここに住み続けた。その理由は、彼の拳が物語っている。


 ここには嘗て村が存在していた。それほど人口は多くなかったが、下手な街よりも活気があったのだが、十年前に魔物の襲撃を受けて村人のほとんどが死亡。隣の家の家畜小屋に隠れていたグレムは運良く見つからなかったのだが、隠れるように指示をした両親は殺されてしまった。

 このように魔物の襲撃があった際は、早急に近くの町にあるギルドから傭兵や騎士団が送られてくる手筈であったのだが、それがやってきたのが襲撃から一月後のことであった。

 以来、グレムは対応の遅すぎた街へ嫌悪感を抱き、たとえ自分だけとなってもこの村で暮らすと決心したのである。

「いただきます」

 家に戻ってきたグレムは、今朝畑で採れた野菜を夕食として食べている。手は洗っておらず、動かす度に滴り落ちる。近くに井戸や川が存在しないことが原因ではあるが、より過酷な環境で暮らしていた方が、有事の際に役に立つと考えている。もちろん、野菜なども洗っていない。

「………」

 話す相手がいなければ、食卓というのは静かなもの。おまけに土やらの自然そのままの匂いが染み付いているせいで、お世辞にも美味しいとは言えない。しかしながら、土が付いていて不衛生という点を除けば、この上なく健康的な食生活である。





 孤独な暮らしは、気ままに過ごすことができる。起床時間や就寝時間、農作業の時間や鍛錬の時間。全て思いのままではあるのだが、頼れる者が近くにいないためにやるべきことをやらなければ、自身の生活が崩壊する。それ故、グレムは早朝の農作業を欠かさない。

 農作業が終われば午前の鍛錬として、近くの木に拳を千回ぶつける。たったそれだけのことではあるが、十年も続ければその拳は岩のように硬いものとなる。

 土臭い昼食を食べた後は、森林に薪を取りに行く。持っている斧は錆びているのだが、作りがしっかりしてるため折れたりなんてことはない。幹ではなく枝を切り落とし、今日のうちに使うであろう量を取って帰宅。

 それからは、日が沈む時間まで岩に拳をぶつける。木よりも手にかかる負担は大きいのだが、グレムは顔色一つ変えずにそれを十年続けている。足の裏のように分厚い皮膚で覆われた拳は、岩の表面をしっとりと赤く濡らしていく。


 こうして今日も一日が終わる。何も変化がないままに十年ほど過ごしてきたが、それでも同じような明日がやってくる。こんな日々に何も感じないわけではないが、やはり退屈を感じている自分がいる。それは十二分に分かっていることだが、退屈を凌ぐ手立てがない。

「街、か……」

 自分には、この家と廃村、畑以外は何もない。生きるには十分だが、娯楽という娯楽は全くない。そんな日常に飽きを感じている。それを自覚しているが為に、十年という時間がものすごく薄っぺらいものに思えてきてしまった。

「………」

 街、というより街にあるギルドに嫌悪感を抱いているのは今も変わらない。しかし、ギルドの人間が悪人であるというわけではない。自分が勝手にそう思い込んで、意地でもここを離れようとしなかっただけ。グレム自身もそれは良く分かっている。

「行くか」

 たった一言であるが、グレムの中ではこの乾ききった愛おしい生活と決別の覚悟が言葉となり、その体を突き動かした。
















 この世に街は多くあれど、グレムの住んでいた場所から一番近い街、エレドは、その中でも有数の街であった。

 商人はもちろんであるが、各地から職人や学者、旅人や貴族なども集まるような街である為、一歩街に入れば喧騒の中で圧倒されるのが常である。グレムも類にもれず、乱立している建物や人ごみに目を奪われていた。

「これが街か」

 生まれてから十八年、グレムは生まれ育った村から出たことがない。そうなると、様々な建造物や技術進歩を見ることがない。まるでおとぎ話の世界に入り込んだような心境であった。


 街に来るにあたって、グレムは野菜を乾燥させた保存食しか持ってきていない。大問題ではあるのだが、何せ街の生活を知らないグレムは全く気にしていない。

 引っ切り無しに聞こえて来る店の呼び込みや、店先で店主と会話をしている声に耳を傾けると、段々とそれぞれの店の商品が気になってくる。ふと果物を売っている店の前で立ち止まった。

「………」

「お、いらっしゃい!」


 一番手前にあった果物を見ていると、店主が話しかけてきた。

「何をお探しだい?」

「あ、いや……良いものがないかと見て回ってる」

「ほぅ、ならこれならどうだい?」

 そう言って店主はグレムが見ていた果物を手にとって見せてきた。

「こいつは今朝入荷したもんでな。いつも納入してくれるおやっさんが、今までで一番良い出来だって言ってたくらいだからな。俺も食べてみたんだが、こいつは売値以上の価値がある」

「そうか」

 売値という言葉を聞いて、ようやく現金を持ってきていないことに気がついたグレム。ここまで話をしておきながら何も買わないというのは気がひけるのだが、現金がなければ買うことはできない。

「すまない。今は持ち合わせがなくてな」

「お? ………そういや兄ちゃん、見ねぇ顔だがよ。旅でもしてんのかい?」

「あ、あぁ……そんな感じだ」

「大方、路銀が尽きちまったのかい? そんならこいつは持って行きな」

 そう言って店主はグレムに果物を握らせた。

「いや、これは貰えない」

「若いモンがそんな遠慮すんな。こっちもタダでそれをやろうってわけじゃねぇ。今後ともうちの店を贔屓にしてくれってこった」

 バシンと背中を叩かれて、思わずよろけてしまった。そんな店主の勢いに負けて果物を返すことができなくなってしまったグレムは、店主に対して深々と頭を下げてその場を後にした。

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