ぬり絵の恋
アンジェラ
第1話 第1章
「日本の方ですか?」
「はい、そうですが」
僕は運転席の窓を開け答えた。
「終バスに乗り遅れて、どうしようか迷ってしまって……」
終バス? ここはツアーバスしか来ていないはずだけれど……
「亀田麻友と申します。バースの駅まで送っていただけませんか?」
ここはイギリス、ソールズベリー平原にあるストーンヘンジ。
広大な草原に、未だ未解明の石たちが配置され、また重ねられている。
考古学者らは、この直立巨石が紀元前2500年から紀元前2000年の間に立てられたものと考えている。それを囲む土塁と堀は、紀元前3100年頃まで遡るという。
宇宙との交信場所説、そして治療場説。
治療場説の根拠として挙げられたのは、ストーンヘンジ周辺に埋葬された遺体の多くに、ひどい外傷や奇形の兆候が見られたことかららしい。
僕はこの後ロンドン・ヒースロー空港近くのホテルに向かう予定で、ブリストルでの仕事から帰る途中、バースを経由し足を伸ばし、帰路にあるここで観光をしていた。3度目の訪問である。
彼女の言うバース駅へは、ヒースロー空港とは反対方向になり、逆戻りのルートである。小一時間かかる距離であるが、今晩はフリーで、仕事や私的なスケジュールは何もない。
「いいですよ」笑顔で答えた。
彼女は胸を撫で下ろし、
「よかった」とため息とともに、安堵した素振りをみせた。
「じゃあ乗って下さい」
僕は世間でいう醤油顔系、身長165cm、痩せ型。男としては小柄だ。
大学時代は宴会で女装をすると、サークルの同級の女子以上に奇麗にみえることもあったらしく、男の先輩に、冗談を交え、抱きつかれるほどのまあまあの顔つきであった。
彼女は少し照れくさそうに助手席に乗り込んだ。
僕はブリストルで仕事を済ませ、バース方面へは逆走になっている事には触れずにした。帰りはバースからA46で北上し、高速道M4に入りロンドンへ向えばよい。
ストーンヘンジの駐車場からゆっくりと左へ曲がり車を走らせた。
彼女は、「自己紹介いいですか?」と話し始めた。
「私、精神保険福祉士で、三年働いて貯金したお金で海外旅行をするの。今年はまだその一度目。また帰国してから仕事をみつけ、三年働いてまた海外旅行するのよ」
なるほど、彼女は仕事柄か、人の心を和ませる言葉使いや仕草をしている。
小さくて丸顔の可愛い娘。スリム体型ではないが、程よい中肉中背。ほんのりと甘い、いい香りがする。
「あなたのお仕事は?」
「ただのサラリーマン」
「ただのサラリーマンさんが、なんでジャガーに乗って、観光してる訳?」
彼女は微笑んで質問してきた。
僕は、
「車は社有車、観光は仕事帰りの便宜かな」と答えた。
「バースから何処へ行くの?」
僕は彼女に尋ねた。
「電車でロンドンまで」
「だったら、僕もロンドン方面に向かうから、バース駅へ行かずに僕の帰るルートで送ろうか?」
「あのね、バース駅で友達と待ち合わせしているの」
「ブリストルにいるメル友の女の子」
「会うのが楽しみなの!」
彼女は嬉しそうに答えた。
僕は、「ブリストルフェアリーって、何の花の名前か知ってる?」 と問いかけた。
「花の名前ねー」
彼女は集中したふりをしているような、そうでないような仕草の後、甘えた声で「教えて」とつぶやいた。
「日本でたくさん流通しているカスミソウの品種名だよ」
「美しい名前でしょ、ブリストルの妖精って」
「お友達に話してごらん」
彼女は幼い子供のようにはしゃいで喜んだ後、穏やかで優しげな少女の表情に戻った。
たわいもないおしゃべりをしているうちに、バース駅についた。彼女は僕の住所を知りたいというので情報交換することにした。
彼女は、静岡県に住み、一人旅をしているらしい。亀田麻友。「か・め・だ・ま・ゆ」と微笑んでメモを渡してくれた後、僕は加藤雅彦、名刺を渡した。自宅住所を書き込んで。
「えっ、住所はアムステルダムなの?」
「どうして?」
僕は通りすがりの人に余計な話はしない。
「会社の研修みたいなもので、ホームステイしている。イギリスには月に3回くらい来ているかな」とだけ話した。
バース駅でお別れの挨拶をして、僕はヒースロー空港近くのホテルへ向かった。明日一つ仕事を済ませ、ロンドンのオフィスに車を返し、アムステルダムに戻る。
彼女からは、アムステルダムのホームステイ先に一週間に一度くらいの頻度で、旅先から絵はがきが来るようになった。
この日は仕事とストーンヘンジ観光、ちょっとした人助けのまずまずの日で終わるはずであったが、この後テムズ川沿いで、この日の続きが待っていた。
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