俺は太宰に勝てるのか。
他日
『津軽』を買いに行った日
「ふぐおぅっ!」
「……どうした?」
俺は前を向いたまま助手席に問いかける。雨の日の運転はいつも以上に気を付けなければ。わき見運転ダメゼッタイ。
「いや、もう、最後が」
読み始める前に最後の方を見る彼女の癖。さっき買ってきたばかりの本を早速袋から取り出してぱらぱら見ている姿は買ってもらったお菓子やおもちゃに飛び付く子どものよう。
「最高に太宰って感じで」
どんな感じだ。俺にはわからん。
「惚れ直した」
なに?惚れ直しただと??
彼氏兼恋人である俺を目の前にして、全集持ってるのに『津軽』を買いに行きたいという彼女のために雨のなか車を出した俺を目の前にして、本と珈琲はセットだと言い張る彼女のために星乃珈琲まで運転中の俺を目の前にして。
惚れただと!?
いやいや落ち着け俺。相手は故人だ。何年何十年と前の人物だ。
そう、お前はもう死んでいる。
俺は心の中の太宰治に向かって宣言した。
そんな俺の心境を知ってか知らずか彼女は更に言葉を重ねる。
「生きててくれれば良かったのに。生きてたら」
生きてたらどうするつもりだ。俺を捨てて乗りかえるのか。あっ、まさか心中するつもりか。やりかねない。こいつはやりかねない。
俺は恐る恐る次の言葉を待つ。
「絶対サイン会行った」
サイン会だった。よかった。
出不精の彼女に絶対行くと言わしめた事実と捨てられる可能性を無視し、俺は思わず口許を緩めた。
そんな俺の謎の笑みを不思議そうに見つめながら彼女は口を開く。
「本好きなんだから君も読めばいいのに」
もう幾度目かわからない誘い。書店員だからとはいえ読まないものだってあるのだ。
それに全く読んだことがないわけではない。
国語の教科書に載っていた走れメロス。メロスが走るやつだ。あとあれだ、セリヌンティウス。人間失格は中2の時に親から買い与えられたが途中で挫折した。俺にはまだ早い、しばらくサヨナラだ、などと思いつつ本棚の端にいれた。未だに読めていない。元カレのことを知るみたいで読みにくい。
奇しくも、彼女も中2の時に人間失格を読んだのだという。そして太宰治にドはまりした、と。
「あ、太宰」
初めて聞いた彼女の声。
3年前の夏の日。
俺は仕事中で、新刊を平置きにする作業をしていた。俺が手に持っていたのは太宰治だった。夏に出る新しいカバーの太宰治。
「そのカバー良いですよね」
あの時、俺が違う本を持っていたら、きっと彼女は声をかけてはくれなかっただろう。そして、今こうしていることもなかった。
すなわち、太宰治が愛のキューピッドだったと言えなくもない。
言えなくもないが認めない。
「生きてる人のなかでは君が一番だよ」
彼女は本を大事そうに鞄にしまいこみながら唐突にぽそりと呟く。
赤信号。とまる。
車の前を傘を差した人々が通りすぎていく。
彼女の顔をまじまじと見つめる。頬をほんのりと赤く染めているようだが、生きていない人も含めるとどうなんだ、とは怖くて訊けない。
彼女と俺が出会ったのは3年前だけど太宰は10年前に出会っている。彼女は俺のことをそっけなく君と呼ぶ一方で親愛を込めて太宰と呼ぶ。彼女の部屋に俺との写真は1枚もないのに太宰は全集が揃っている。彼女から俺に好きだと言ってくれた回数は片手で足りる程度だが太宰のことはためらいもなく好きだと言う。
まだまだ敵わないのかなぁ。
まだまだ敵わないんだろうなぁ。
「今日もアイスコーヒー飲むの?」
ゆっくりと車を発進させながら、うん、と答える。コーヒーはアイスに限ると俺は決めている。なぜなら
「猫舌だもんね」
助手席の彼女がちょっと微笑みながら言う。覚えていたのか。なんか、ちょっと嬉しい。
彼女と言葉を交わせる。
それだけで、生きててよかった、と心から思う。
そうだ、俺は生きている。焦らず、少しずつでいい。太宰より俺が好きだと言ってもらえるようになりたい。いや、なる。打倒太宰。目指せ太宰より良い男。
俺は固い決意を胸に宿し、駐車場へと車を進めた。
俺は太宰に勝てるのか。 他日 @hanayagi
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