7 やっぱ地なのか?

 リリーナ・ヘンドリックス。

 リリーナは十八歳の時、当時二十六歳だったブローディの元に政略結婚でヘンドリックス伯爵家から嫁いできた。結婚してすぐにブローディが副騎士団に昇格してしまい、あまり夫婦生活をしないまま別居になっていった。リリーナは仕事に振り回され自分を見てくれないブローディに不満を持ち続けていた。

 アジャックス侯爵家は国内の貴族の中でも特異な位置にいる。

 大きくも無い領地にもかかわらず国内の蜂蜜の生産をほぼ独占し、副産物としてできる蜜蝋によって作り出される化粧クリームの基材、蝋燭、封蝋などの生産にも影響力のある貴族だった。そして花からは香水も作られた。

 だからこその侯爵の爵位だ。

 領地の産業はブローディと家令のみが管理し、リリーナには手を出させなかった。この事もリリーナには不満だったのだ。

 もともと独占欲が強く、ブローディもアジャックス領の富も我がものにしたかったリリーナだが、それが敵わないと判断するや速やかに離縁の手続きを取った。

 ブローディがその事を知ったのは離縁状が送り付けられたからである。その時既にリリーナはアジャックス領から出て行った後だった。

 その後、リリーナは細君を亡くしたフェザーリン侯爵の後妻に収まっていた。フェザーリン侯爵には子が無かったがリリーナとの再婚後に息子をもうけた。


「フェザーリン侯爵が亡くなって実権を握ったからやりたい放題って噂は耳にした」


 ブローディは馬車の窓から外を眺めた。

 既にアジャクス領に入っておりブロ-ディの視界には赤青黄色に桃と紫の花々が咲き誇る花畑がある。特産である蜂蜜の為の花だ。

 アジャックス領に入り、咲き誇る色とりどりの花々が両側に植えられている街道をひた走る馬車の中で、ブローディは家令と話を続けた。


「はい。御子息がまだ未成年ですのでリリーナ様が爵位を継がれております」

「商人とつるんで金儲けに走ってるらしいな。騎士団にも色々と売り込みにきてたぜ」

「リリーナ様らしいですな」

「一部の貴族令嬢には大人気らしい。珍しい宝石なんかも扱ってるからな」


 自らも収集しているからか、他国産の宝石を買い漁っており、自身のセンスからあぶれた宝石を売却しているのだ。 


「なるほど。旦那様の身があいたので復縁でも迫るつもりなのかもしれません」

「あり得るが御免こうむる」

「わたくしは、カミラ様以外は奥方様にはふさわしくないと考えております。これはアジャックス邸使用人一同の意見で御座います」


 家令の意外な言葉にブローディは視線だけを向けた。


「カミラ様は旦那様のみを追い掛けておられます。常に旦那様の事をお考えになられている方に、奥方様になっていただきとう御座います」

「随分とアイツカミラ買ってるんだな」


 ブローディはその灰色の髪に指を入れ後ろに流した。


「わたくしも歳で御座います。わたくしが死んだ妻の所に行った爾後、憂いなき様にしたいだけで御座います」


 家令の言葉にブローディの手がピタと止まる。胸がギリっと締め付けられた。


「……そんな寂しい事言うなや」

「時は止まりません。いずれは、わたくしも御暇を頂戴するときが参ります」


 家令が力なく頭を左右に振る。


「カミラになら任せられると?」

「……旦那様のご心配は理解できます」

「俺を置いてお前が逝っちまう様に、俺はアイツを置いてっちまうんだ。置いていけると思うか?」

「それは、お二人で決める問題です」


 家令は皺だらけの顔に、更に皺を増やし優しげに微笑んだ。





 アジャックス侯爵邸は白を基調とした壁に焦げ茶の木材を窓枠として使用したシックな造りとなっている。王都の屋敷は元妻リリーナの趣味だったが領地の屋敷は代々の当主の趣味が反映されていた。

 屋敷の花壇ばかりでなく周囲にも蜂蜜用の花が咲き誇り、普通であれば生垣になっている所は全て花が咲く種の植物が植えられて花の壁ができていた。いたるところに花が溢れている。 

 蜂蜜を主産業とするアジャック領ならではの光景だ。 

 様々な色の花がメルヘンチックな花の海に三階建てのシックな屋敷が船の様に浮かんでいる。そんな乙女な風景にカミラの目がキラキラと輝いていた。


「お花が沢山であります! このような夢の空間は、見たことがないであります!」


 アジャックス侯爵邸についたカミラがぐるりと周囲を見渡していた。視界には必ず花が映りこむ。

 カミラの頬は緩みっぱなしで、きちんとドレスを着ていれば年相応に可愛らしいことだろうと、ブローディは微笑ましく眺めていた。

  

「うちの売りが蜂蜜だからな。花があるのは当然だ」

「王都の王宮でもここまでの花の洪水はないであります!」


 嬉しそうに微笑むカミラがブローディにとっては眩しく感じた。家令との話もあり、ブローディの気分はそこまで明るくはない。


「こんなロマンチックな景色の中で式をあげたいであります!」


 胸の前でお祈りのポーズのカミラがブローディにずずいと迫ってくる。


「……まぁ、女性ならそう思うかもな」

「ブローディ様が同意したであります! しかも私を女性扱いまで! 感激の涙が止まらないであります!」


 心ここにあらずなブローディの答えだったがカミラには響いたらしい。眼鏡の奥の黒い瞳が潤んだ涙でぼやけていた。


「やっと思いが通じたであります!」

「……通じねえっての」


 思考がネガティブなブローディがぽろっとこぼした言葉にカミラがハッと顔を強張らせた。一瞬悲しそうな顔を見せたカミラだがすぐに笑顔に変わり「同意していただくまで頑張るであります!」とぎゅっと拳を握りしめた。

 だがショックを受けたカミラの顔と涙で潤んだ黒い瞳が、ブローディの胸に突き刺さった。


 ――悲しそうな顔も、すんのな。

 

 気を取り直したのか、明るい声を出し花から花へとミツバチの様にアチコチへと飛び回るカミラの背を見て、ブローディは唇をかんだ。


 ――させたのは、俺か。


 紫の小さな花、サクラソウの前でしゃがみ込み、指で突っついているカミラを見て、ブローディはふと考えた。


 ――てっきりアレが素顔だと思ってたが、実はアイツ、かなり無理してんじゃねえのか?


 襲い掛かってくる割には胸を揉んだだけで失神した。そもそも騎士団にいたころはあんな積極的に迫ってくることはなかった。

 いつも控えめにひっそりと佇んで視線だけは寄越す癖に、地味な眼鏡のようにはにかんでいただけだ。

 野原に咲くタンポポみたいに。


 ――摘み取るのが躊躇われる素朴な花、いや華か?


「カミラ、一休みしたら庭を案内してやる」


 ブローディがカミラの背に声をかけると、カミラは飛び跳ねるように立ち上がり「ほほほほんとうでありますか!」と目を輝かせた笑顔を見せてくる。


 ――やっぱり、笑顔だな。これが良い。


 ブローディはつくづく、そう思った。


「あぁ、これから夏を迎えるちょうど今が花の最盛期って時期だ。庭園には研究段階の花とかもあってな。まずお目にかかれない珍しい物もある」

「いいいくであります!」

「まぁ、紅茶くらい飲もうぜ」


 ブローディはカミラに近づき左腕を腰に当てた。カミラは目を瞬かせ、ブローディを見つめてくる。


「エスコートはいらねえか?」

「いいいいのでありますか!?」


 ブローディがニヤリとするとカミラが飛びついてきた。左に二の腕をがしっと掴んでくる。


「ご馳走様であります!」


 紅潮させた顔をニンマリとしたカミラがブローディを見上げてくる。その顔を見たブローディの頭には疑問の文字が踊った。


「……やっぱ地なのか?」

「何が、でありますか?」


 可愛らしく首を傾げるカミラに、ブローディの頬も緩む。


「何でもねえ。ほら行くぞ」


 ブローディは小さく息を吐き、ゆっくりと歩き始めた。

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