第46話 優斗の事情5
最初に出てきたのは、呟くくらいの小さな声だった。
「藍の言う通り、俺の対人恐怖症は誰に対してもあったんだ。両親が離婚してしばらく経った頃には人と仲良くなるのが怖くなって、気がついたらいつの間にか周りから距離を置くようになってた」
それは覚悟していた答えだった。これまでの話を聞いて、予想できていたものだった。だけど実際にそれを聞いて平気かと言われると、決してそんなことは無い。
優斗の語る、『好きな気持ちが変わってしまうかもしれない』という不安。それが誰に対してもと言うのなら、その中には当然自分も入っているのだろう。
聞くのが辛い。今すぐ耳を塞いでしまいたい。だけど優斗は言っていた。話を聞いてほしいと。そして藍も決めていた。例え何を言っても、全て受け止めると。
「ちょうどそんな時だったよ。藍と初めて出会ったのは」
「えっ?」
思わぬところで自分の名前が出てきた事に驚き、声が漏れた。
「藍は覚えてる?俺と初めて会った時のこと?」
それは藍がまだ小学校にも通っていなかった頃の話、もう随分と昔の話だ。だけど今でも、決して忘れてなんかいなかった。
「覚えてる。私が迷子になって、それをユウ君が助けてくれたんだよね」
その日藍は一人家の庭で遊んでいた。まだ小さかったので、両親からは一人で外に行ってはいけないと言われていたが、子供の好奇心は時としてそんな約束を簡単に壊してしまう。まだ見た事の無い場所へ行ってみたくなって、いつの間にか藍は家の外へと飛び出していた。
初めて一人で知らない場所を歩き、通ったことの無い道を進む。そうして見たものはどれもが新鮮で、初めての景色にワクワクした。そしたらもっとたくさんのものが見たくなって、どんどん先へ先へと歩いて行った。だけどどれくらい歩いただろうか。そこで藍はようやく、自分がどうやって帰ればいいのか分からないことに気付いた。
「驚いたよ。いきなり知らない子が、泣きながら道を聞いてきたんだから」
優斗は懐かしそうに言うが、藍は聞いていて恥ずかしくなった。
「そ……その節は、大変迷惑をかけました」
幸運だったのは、藍が自宅である喫茶店の名前をちゃんと言えたこと。それと道を聞いた相手が、たまたま近所に住んでいる優斗だったことだ。ほどなくして、藍は無事両親の待つ自宅へと送り届けられた。
「それから俺のことを見かけると、寄ってくるようになったな」
そう。近所に住んでいた優斗は、道や公園で姿を見かけることが度々あった。助けてもらって以来すっかり優斗を気に入っていた藍は、その度にニコニコしながら傍に寄っていった。そればかりか、遊んでほしいだの家に来てほしいだの、小学校に上がってからは宿題を教えてほしいだの、事あるごとに様々なお願いをした。
「藍、どうかした?」
優斗が話すのを止めた。昔の事を思い出した藍は、真っ赤にした顔を両手で覆い隠していた。
「あの……ユウくん。当時の私って、実はすごい迷惑だった?」
顔を隠したまま、消えそうな声で尋ねる。今思えば会うたびにかまってほしくて、優斗の都合も考えずに随分と我儘を言っていたような気がする。
「迷惑なんかじゃ無かったよ」
「ホントに?」
その言葉に、覆っていた手を恐る恐る開いていく。
「まあ、最初のうちはどうしようって困ったりもしたけど」
「やっぱり――」
再び顔を覆うと、声にならない叫びを上げながら勢いよく下を向く。最初に言っていた否定の言葉なんて何の意味も無かった。
「落ち着きなよ」
優斗の掛けてくれる優しい言葉も、今は痛い。
(何を言っても受け止めるって思ってたけどこれは無理)
そもそも優斗の心の傷と向き合うつもりでいたのだが、なぜこんなことになっているのだろう。まさかこんな形で自分の心に傷を負うとは思っていなかった。
「うぅ……あの頃の私のバカ」
できる事なら過去に戻って当時の自分を叱ってやりたい。
「―――ふふっ」
そんな藍の様子を見て、優斗が小さく噴き出した。それがまた恥ずかしさを増して、だけどそもそもの原因は自分なのだから文句を言うわけにもいかず、様々な感情が入り混じりながらも黙って見つめ返すしかなかった。
「ごめんごめん。笑うつもりはなかったんだ」
(いや、今もしっかり笑ってるよね)
半ばいじけながら思うが、それを見て気づく。さっきまで暗い表情をしていた優斗が久しぶりに笑っていることに。まあ、かなりしょうも無い理由なので、それを喜んでいいのかは分からないが。
優斗はようやく笑うのを止め、言った。
「それにな、確かに少し困りはしたけど、嫌ってわけじゃなかった。さっきも言ったけど、当時の俺は人が怖くなってて、友達だってほとんどいなかった。だけど藍だけはそんな俺に何度も近づいてきて、笑ってくれて、気付いた時にはそれを嬉しいって思うようになってた」
「そ、そうなの」
笑顔のままそんな事を言われたものだから、さっきまでとは違った意味で恥ずかしくなってくる。それを見て、優斗はもう一度クスリと口角を上げた。
「それで、藍と一緒にいるうちに、いつの間にか他の人に感じてた不安みたいなものが無くなってた」
「えっ、ちょっと待って。それって、その……対人恐怖症は治ったってこと?」
驚いて尋ねるが、優斗は少し困り気味に首を振る。
「だったら良かったんだけどな。相変わらず、他の人には元のままだった」
考えてみればその答えは当然だ。治ったと言うのなら未だにこうして引きずったりなんてしていないはずだ。
だけどそれでも、自分が例外だと言うのはホッとする。優斗の中にある不安感を少しでも取り払えたと思えると嬉しくなる。そんな藍の心中を察したように優斗は続けた。
「だけど、それがきっかけで変われるかもって思えたし、実際少しずつ変わっていけたと思う。藍の次に、安心して話せるようになったのは、おじさんとおばさん」
「それって、私のお父さんとお母さん?」
「そう。俺の家の事情を知った人は、ほとんど決まって、みんな俺を腫れ物に触るみたいに扱っていた。だけど二人は違ってた。全部知ってて、それでも受け入れてくれた」
藍も、両親がいかに優斗のことを気にかけていたか知っている。彼が毎日喫茶店で夕食をとるようになった時、せっかくだから家の中で食べていったらと提案したのも二人だった。
「嬉しかった。こんな事思うのは変かもしれないけど、藍の家にいるとまるで家族ができたみたいに思えた」
「私は妹?」
「もちろん」
妹。それは今までにも何度も聞いていた。それが時には切なくて、いつかその関係を変えたいと思っていた。だけど今まで藍は分かっていなかった。一度家族が壊れてしまった優斗にとって、その言葉がどれだけ大きなものか。
自分が妹でいる事で優斗が笑顔になってくれたのなら、今はまだ妹でも良かった。
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