第45話 優斗の事情4

 小学生だった頃の藍にとって優斗は理想だった。完璧だった。ヒーローだった。大げさかもしれないが、少なくとも藍の目には本気でそう映っていた。

 そんな優斗が今目の前で弱々しく項垂れている。その姿はまるで別人のように思えた。

 家族。そのたった一点をついただけで、かつて藍の思い描いていた理想の姿はもろくも崩れ去っていた。


『軽蔑した?』


 優斗がさっき言っていた言葉が蘇る。そしてようやくその意味を理解する。


(ああ、だからユウくんは、ずっとこの事を隠してきたんだ)


 きっと優斗は怖かったのだ。藍がこれを知って、自分を見る目が変わってしまうのを。これまでに築き上げた関係が壊れてしまうのを。

 優斗が心配した通り、全く傷付かなかったと言えば嘘になる。彼のこんな姿を見て、抱えていた思いを知って、藍は言葉を無くした。いつの間にか顔は俯き、その目には涙が浮かんでいた。


(どうすれば良いの?)


 押し黙ったまま、藍は自分に問いかける。頭が状況に追いついていかず、切なさと苦しさが渦巻いている。

 だけどそんな状況にありながら一つだけ、たった一つだけ、変わらずに確かなことがあった。


(それでも私は、ユウくんが好き)


 その想いだけは変わらなかった。例えどんなに優斗の弱い部分を目の当たりにしても、決して軽蔑したり嫌いになることはなかった。好きだという気持ちは、今も揺らぐことなく胸の中にあった。

 それに気づいた時、自然とやることは決まっていた。

 俯いていた顔を上げるともう一度優斗を見る。肩を落とす彼に向かって、喉の痛みをこらえながら声を絞り出す。


「ごめんねユウくん。私、あんなに近くにいたのに気付けなかった。ユウくんがこんなに苦しい思いをしていたんだって知らなかった。昨日だって、無神経にあんなこと聞いて……」


 それは、始めて噂で優斗の家の事情を聞いた時から今まで、ずっと言いたかった言葉だった。苦しんでいる時そばにいて、なのに何もできないどころか気付きもしなかった。それをずっと謝りたかった。

 いつのまにか、溜まっていた涙がぽろぽろと流れ落ちていた。


「そんな、藍が謝る事なんて何も無いよ。嫌われたくないって思って、ずっと隠してきたんだから!」


 優斗が慌てたように言う。自分だって苦しいはずなのに、藍の涙を何とかして止めようと必死になって言葉を掛ける。


「嫌いになんてならないよ!」


 涙を零しながら、それでも真っ直ぐに自分を見つめる藍を前にして、優斗は目を丸くする。彼の知っている藍には、こんなになってまで意見を言う強さは無かった。


「ねえユウくん。ユウくんはいつか心変わりするのが怖いって言ってたけど、そんなの誰だって同じだよ。絶対に変わらないって言える人なんて、多分一人もいない」


 もしこれを聞いたのが小学生の頃の自分なら、きっと何も言えずに泣き崩れていただろう。だけど今は違う。何もできないような無力な子供じゃない。


「変わるかもしれないって言うなら、私だってそうだよね。いつか私のことも嫌いになるかもしれないって、そう思いながらずっと一緒にいたの?」

「なっ―――」


 その途端、優斗に目に見えて動揺が走った。家の事や心の内を語った時でさえ、こんな取り乱し方はしなかった。


「違う!藍は大事な妹で、その気持ちは変わりなんてしない!」


 優斗がそう答えるのは分かっていた。これまで彼の語っていた好きという想いは、そのほとんどが恋愛に限ってのものだった。藍もそれが分かっていたからこそ、昨夜の話の後に自分は妹なんだと言い聞かせた。妹と言う安全圏へと逃げようとした。

 だけど彼の言っていた言葉の中には矛盾があった。


「妹なら変わらないの?お父さんやお母さんに対する気持ちは変わっても?」


 優斗は確かに言っていた。昔は大好きだったはずの両親のことも、今はもう他人よりも遠くに感じると。それならもう、自分のいる妹と言う立場だって決して安全じゃない。

 本当は、これを聞くのがとても怖かった。優斗の答え次第では、自分たちの関係を根底から壊してしまいかねない。

 優斗は静かに瞳を閉じると、ゆっくりと空を仰いだ。そして微かにその唇が動く。


「ああ。変わらない」


 尚も優斗はそう言ったが、それだと言っていることがまるで噛み合わなくなる。だけどなぜか、それが全くの嘘とは思えなかった。

 もしかしたらそれは、そうであってほしいという願望が後押ししただけなのかもしれない。だが例えそうだとしても、優斗の言葉を信じたかった。


「さっきの話、人間不信の話にはまだ続きがあるんだ。それは滅茶苦茶で矛盾だらけで、とても納得なんてできないかもしれない。それでも信じてほしい。俺の話を聞いてほしい」


 優斗の手は固く握られ、微かに震えていた。彼もまた怖いのだ。今の二人は、ほんの些細な一言で壊れてしまいそうなくらい脆い所にいる。そんな不安を胸に抱えながら、じっと藍の返事を待っていた。

 優斗の口から何が紡がれるのかと想像しては、心臓が押しつぶされそうになる。だけど答えはとっくに出ていた。


「いいよ。ユウくんが思ってること、全部言って」


 例え優斗が何を言おうとその全てを受け止める。そう決めていた。 

 決意を持って弱い心を奮い立たせながら、藍は静かに次の言葉に耳を傾けた。

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