第41話 放課後2

 優斗から逃げ出し、その途中階段から落ちそうになった藍。だが結果から言うと、彼女は無事だった。気が付くと壁に手をついて、自らの体を支えていたのだ。


 何とか助かったとはいえ、あのまま階段から落ちていたかと思うとヒヤリとする。無傷で済んだのが嘘のようだ。

 壁に手をついた瞬間は覚えているが、あんなとっさに動けた事に自分自身驚いている。体が勝手に動いたなんて表現があるが、さっきの動きはまさにそれがピッタリだ。いや、その感覚は今だって続いていた。自分の体だと言うのに、なぜか思うように動いてくれない。

 その時、優斗の声がした。


「藍、大丈夫?怪我は無い?」

(う……うん)


 その心配そうな声を聞いて、さっきまで逃げていたのも忘れて返事をする。だけどすぐにおかしなことに気付いた。

 声を出そうとしていたはずなのに、口はちっとも動いてくれない。だけど言おうとしていた言葉は、耳ではなく直接頭の中に響いた。優斗の声も同じで、まるでテレパシーのように頭に流れ込んでいる。


 そしておかしな点はもう一つあった。優斗の声は相変わらず頭の中に響いているが、それを語る本人の姿はどこにも見えない。

 辺りを見回して探したいところだが、依然として体の自由がきかないままだ。仕方なく、もう一度呼びかけてみる。


(ユウくん、どこにいるの?)


 相変わらず口は動かせず、代わりに頭の中にだけ声が響く。それでもその声は優斗に届いているようで、どこからか返事が返ってくる。


「えっと……俺もよく分からないけど、たぶん藍の中?」

(へっ?)


 その言葉の意味が分からず、間の抜けた声を上げる。だがその時、藍の体をすり抜け、弾かれるように優斗が飛び出してきた。

 どこにいるかと言う問いに、藍の中という答えが返ってきたが、どうやらそれはそのままの意味だったようだ。物をすり抜けられるという幽霊の特性からいえば、決して不可能な事ではない。だがあまりにも予想外の事態に、気が付けば声を上げていた。


「きゃっ!」


 すると今度はちゃんと口が動き、ちゃんとした声を発することが出来た。同時に、これまで失われていた体の自由が戻ってくる。


(何だったんだろう)


 ペタリとその場に座り込み、再び姿を現した優斗を見る。突然の出来事に理解が全く追い付かない。だがそんな疑問を考えるより先に、優斗が顔色を変えて詰め寄ってきた。


「本当に怪我してない?どこかにぶつけたりしてない?」


 優斗にとってはさっきの不可解な出来事よりも、藍の安否の方がずっと気になっているようだ。酷く心配した様子で、食い入るように見つめながら聞いてくる。


「大袈裟だよ。階段から落ちそうになっただけじゃない」


 ついそう言って、だけどすぐにハッとする。

 階段から落ちた。それが原因で優斗は亡くなったんだ。しかもその現場はまさにこの場所。当時の事を思い出さないわけが無い。


「……ごめんなさい」


 無神経な事を言ったのと、心配をかけた事、その両方に謝る。だが優斗はもう一度藍に怪我が無い事を確認すると、途端にホッとしたようにその表情を和らげた。


「いいんだ。怪我が無くて良かった」


 その安堵した様子を見て、改めて心配をかけていたんだと理解する。申し訳なく思いながらも、一度間を置いたことで、再び焦りが出てきた。そもそも自分は優斗から逃げていた事を思い出す。

 正直今だって、これから優斗に何を言ったら良いのか分からずに困っていた。


「なあ、俺と話をしてくれないか?」


 優斗の言葉に思わず身を固くする。聞くのが怖い。だけどこの状況で再び逃げ出すわけにはいかなかった。そんな事をしたら、せっかく安心した優斗をまた不安にさせてしまう。そう思うと、足に力が入らなかった。

 黙ったままでいるのを、あるいは逃げ出さなくなったのを、優斗は肯定と受け取ったようだ。


「聞きたい事があるんだ」


 もしここで自分のことを好きかなんて聞かれたら、何と答えれば良いのだろう。恐る恐る次の言葉を待つが、幸か不幸かそうはならなかった。


「もしかして、俺の家の事情って知ってる?」

「えっ?」


 優斗が言ってきたのは、藍の心配していたようなのとは違っていた。だけどそれは、決して安堵できるようなものではなかった。

 答を待つ優斗の顔には、いつの間にか不安と緊張が戻っていて、手は微かに震えている。

 それを見て、藍は答えるのを躊躇する。果たして言ってもいいものかと迷い、だけど結局は真実を告げた。


「……知ってる」


 瞬間、まるで時が止まったような気がした。

 たったそれだけの事を、言葉にするのが怖かった。もしかしたらこの一言が優斗を傷つけてしまうかもしれない。そう思った。

 だがそれを聞いた優斗の反応は、藍の予想以上だった。顏には明らかに悲しみの色が広がり、その場でがっくりと肩を落とした。


「そっか……知ってたのか……」

 小さくて悲しげな呟きが辺りに響く。その落ち込み方ときたら、見ているこっちが痛々しくなるくらいだった。


「藍には知られたくなかったな」


 沈んだ声を聞きながら、揺れる瞳を見つめながら、藍は自分が答えを間違っていたのかもしれないと思った。


 優斗の家が抱えていた事情。一口に事情と言っても、それはかなり広い範囲を指していた。しかし藍がそれを聞いて真っ先に思い浮かべたのは、優斗が亡くなるより少し前に起こっていた出来事だった。

 それは彼の立場からすると決して人には聞かせたくないものだった。そして多分、これこそが昨夜言っていた、『誰かを好きになるって言うのがよく分からない』という言葉の理由なのだろう。

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