ネームハンター6 〜 The amnesia capriccio 〜

木船田ヒロマル

ネームハンター6 〜 The amnesia capriccio 〜

 湿った地面の臭い。

 咳き込めば口の中に溢れる血。

 生温かさと、鉄の味。鼻に抜ける血の臭い。

 左腕と右足の骨、肋骨は何本イッたか分からない。内臓にもダメージがあるのは確実だ。指一本、瞼一枚動かす力も残っていない。麻痺しているのか、痛覚自体がいかれたのか、不思議と痛みは皆無だった。ただ生命の脈動が、砂時計の砂のようにさらさらと流れ落ちて失われてゆく感覚だけがはっきりと。鮮明に。

 見上げた空は満天の星空で、俺の眼は閉じる事を忘れたかのようにその瞬く星々を見つめ続けていた。


 死ぬのか、俺は。

 やり残したことがないとは言わない。

 だが、どんな人間であれいつかは死ぬのだ。

 最期に視る景色がこの星空なら、悪くない。


 遠くハンツピィの宴を祝う陽気な楽曲が聞こえる。誰かの笑い声も。

 すまない、アズサ。今までありがとうな、ネモ。

 おやっさん、おばば……もうすぐそっちへ行くよ。

 意識が遠のく。

 眼に映る星空がぼやけてゆく。


 これがーー死、かーー。


 その時、投げ出したままの俺の右手に触れるものがあった。


 小さく、猫の鳴き声がした。



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 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。

 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 探偵のようなものと考えてくれればいい。

 最近ではネームハンター、なんて横文字で呼ぶ奴もいる。


「にゃー」


 ……分かってるよ。


 こいつは相棒の黒猫。

 名前はネモ。

 色々あって俺はこいつの言葉が解る。こいつ、見た目通りの只の猫じゃねえんだ。


 俺の仕事は失くした名前を探すこと。


 この街じゃ、何時の頃からか名前が人や物から抜け出してどこかに散歩するようになっちまった。

 俺は憐れな依頼人の失くした名前を見つけ出して、元通り人に名乗れるようにしてやるってわけさ。


【カランコロンカラン♬】


 さぁて仕事か。

 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。



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 入り組んだ路地の奥、占いの館はいつも通り閑散として人気がない。


 八角の印が描かた朱の提灯の灯りも落とされ、入り口には休業の木札が立てられている。

 占いの館の主、百段階段のおばばが体調を崩しており占いその他の相談受付の一切を謝絶しているからだ。


「来たのかい。ゴン坊。花瓶は水張ってそこのWi-Fiルーターの隣じゃ」


 こちらの姿も見ないうちから大陸系の齢百三十の婆さんはそう言って寄越す。

 俺は手にした花束を花瓶に活けると更に奥に進んだ。

 奥に祭壇のある広い板張りの部屋。

 中央にぽつんと敷かれた絹の薄い布団に、皺だらけのその小さな老婆は横になっていた。


 よう。おばば。聞いていたより元気そうだな。

「ふん。こんな年寄りに花束とは。相変わらず気障なばかりで気の利かん餓鬼じゃ。そんな所ばかり親に似おって。漬け物か果物でも持ってこんか」

 その調子ならまだ暫くは大丈夫そうだな。安心したぜ。

「気遣いだけでなく嘘まで下手とはな。信じてないことを口にする時はもっと工夫するもんじゃ」

 ……。

「あと9時間と少し。因果よな。視えんでも良いこと程、はっきり視えよる。お前さんとこの世で顔を合わすのも今日限りじゃな。せいせいするわい」

 ひょ、ひょ、とおばばは空気漏れのように笑った。


 おばば……。

「悪魔を倒す銀の弾丸のことじゃろう?前にお前にやった三発で全部じゃ。昔うちに出入りしていた悪魔退治屋の持ち物でな。置いて行った分を皆お前さんにやった。予備も追加もない」

 その悪魔退治屋は今どうしてるんだ?

「聞きたいかい?」

 ……いや。いい。

「中々勘が良くなったねゴン坊。銀の弾丸のことが気になるのは戦いの前のような胸騒ぎがするからじゃろう?だが今お前さんできることは殆どないよ。唯一まともにできることといえば覚悟だけ、と言っていいかね」

 覚悟?

「運命を知り、真実を知り、それでも己のなすべき事を成し遂げる覚悟じゃ」

 具体的に言ってくれ。

「今言った。失うものは小さくない。孤独。敗北。融合と別離。赦しと罵倒。虚無と再生。言葉に惑うな。行いこそが道であり、お前さん自身じゃ。ゆめゆめ忘れるでないぞ」

 九割ネガティブワードじゃねえか。縁起でもねえ。


 おばばはまたひょ、ひょ、と笑う。


「ねがてぃぶにするかしないかは全てお前さん次第さね。さて、わしは少し眠る。今日はもう帰るがよい。お前と関わったのは短い間じゃったがな、楽しかったわい」

 ……ありがとうよ、おばば。あんたは……俺の母で、祖母だった。

「あんたみたいな息子は御免だよ。勿論孫もね。さらばじゃ七篠権兵衛。遠き未来のその先に、冥土で会おうぞ」

 あばよ、おばば。願わくば冥土でもその先の来世でも、今みたいな間柄でいてくれ。




 ……じゃあな。





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 私の名前は橘アズサ。



 巷で話題の名前捜索人、ネームハンター七篠権兵衛のアシスタント。


 私はとうとうこの時が来たのを知った。

 通学路に立ち塞がる血のように赤いローブの男。

 急停止する自転車のブレーキが甲高い悲鳴を上げる。

 フードの奥で黄色く輝く縦に虹彩の割れた眼。


 名前獣悪用教団四天王……朱雀。

「真理聖名教会です。橘アズサさん」

 何の用?

「これは白々しい。分かってらっしゃる筈ですよ?」

 ……。

「一緒に、来て頂きます。いいですね?」


 手の届く所まで奴は近付いて来た。

 こいつの言うとおり、こいつが私を何に利用しようとしているか、私はよく分かっていた。しかし、それに抗うことは今の私にはできない。

 そう。

 全ては私の責任だから。

 これから起こる全てのでき事の原因は私だから。


 主を失った自転車ががしゃん、と倒れる音を、私は遥か足下に聞いた。




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 10月24日

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「百段階段のおばば」の名で知られた老婆の葬儀は、その顔の広さと影響力の大きさとは不釣り合いにひっそりとしたものだった。




 宴の直前に死ぬなんて、祭り好きなおばばは悔しかったろうと俺は思った。

 棺の奥に掛かる掛け軸にデカデカと描かれた「喪中不要」の四文字が年に一度の秋の祭りを楽しめ、とおばばの代わりに尻を叩いてくる。

 占い師、坤道太母の業務は孫の女子高生が学業の間にその役目を引き継ぐそうで、大陸系住人の顔役は三人の同じく大陸系の老人達が引き継ぐらしい。

 おやっさんと子供の頃から行き来したこの路地裏からも、どうやら足が遠のきそうだ。


 予報通り降り出した雨に俺は用意していた傘を差した。

 街も、泣いている。


 狭い路地から抜け出して百段階段の麓に出る。

 路地の出口で待っていた黒猫のネモが、とたとたと駆け寄って来て俺に続いた。

 大きく伸びをして煙草に火を点けると、時計塔が丁度正午の鐘を鳴らし始めた。



 ゴーン……ゴーン……ゴーン……

 一、二、三ーー。


 なんとなくその鐘に合わせながら、百段階段を登る。


 ゴーン……ゴーン……ゴーン……

 四、五、六ーー。


『ーー唯一まともにできることと言えば覚悟だけ、と言っていいかね』

 おばばの言葉が耳の奥に蘇る。


 ゴーン……ゴーン……ゴーン……

 七、八、九ーー。


『言葉に惑うな。行いこそが道であり、お前さん自身じゃ。ゆめゆめ忘れるでないぞ』


 ゴーン……ゴーン……ゴーン……

 十、十一、十二ーー。


 何を言いたかったんだよ、おばば。俺にこれから何が起こるってんだ?


 ゴー……ン……

 十……三⁉︎


 ピシッ……

 何かが軋むような、ひび割れるような音がそれに重なる。


 思わず腕時計を確認するが、針は正午を回った所。

 ネモ、今の聞いたか?時計塔の鐘、十三回鳴らなかったか?


 今でこそ省エネモードの猫の姿をしているが、ネモは因果を司る悪魔で、名前捜索人としてのパートナーであると同時に、契約を交わした俺の使い魔でもある。



「にゃーん」

 ん?なんだって?

「にやーぁ」

 ……なんて言ってるんだ?猫の鳴き声にしか聞こえない。ちゃんと話せ。


 しかしネモはついっ、とそっぽを向くと近寄って来た時と同じようにとたとたとどこかへ行ってしまった。

 ……ま、気紛れなあいつの事だ。

 気が済んだらまた戻ってくるだろう。


 辺りを見回す。通りでは結構な数の人間が、祭り支度の品々などに慌ててシートを掛けたり片付けたりしていたが、誰一人鐘の音の数が違う、なんて言ってる人物も、時計塔を訝しんでるような素振りの人物も居なかった。

 十三回目の鐘の音を聞いたのは俺だけ、なのか?


 気のせい……か。はたまた勘違いか。


 親しい人物を亡くした哀しみとかストレスとかは、俺自身が思ってるより大きく俺にのし掛かっているのかも知れない。


 俺は今度は段を数えながら階段を降りた。十二段なら勘違いだと得心が行くからだ。

 かくて階段はやはり十三段。

 俺は肩を一度すくめると、どこか釈然としない気持ちのまま家路についた。



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 がらん、とした事務所。


 いつもの出窓に黒猫はおらず、やたら強調語を撒いて歩く女子大生アシスタントも遅刻のようだ。


 橘アズサはある事件の依頼人として俺の前に現れた。

 事件を解決した俺にいつしか彼女は付きまとうようになり、俺の弱みを盾に脅すような真似をして、我が七篠名前捜索事務所の唯一の正規スタッフに収まった。


 元々の相棒、ネモはあれから帰って来ない。普段遅刻などしない騒々しい女子大生は電話に出なかった。

 俺一人の事務所はどこまでも無機質でいつもの何倍もの広さに感じられる。


 天井の扇風羽は煙草の煙で淀む部屋の空気を無為に搔き回し、仕事のスケジュールを書き込む為のホワイトボードは名前の通りの白さで白熱灯の灯りを跳ね返す。

 すっかりちびた煙草を灰皿の吸殻の山にねじ込んで、俺は大きく伸びをした。


 ソフト帽を目隠し代わりにソファーでゴロ寝を決め込んでいた俺の耳に足音が聞こえた。

 続いて事務所の入り口ドアに人の気配を感じた俺は、人差し指で帽子のツバを上げそちらを見る。

 しかし元気のいい挨拶と共にドアベルを掻き鳴らしながら登場するポニテの女子大生の姿はなく、何かの封筒がドアの足元の隙間から差し入れられただけだった。


 ソファーから立って封筒を拾い上げる。


 少し大きめの上質な造りの封筒の差し出し人は、この街の名士、渋鯖家の令嬢、渋鯖紅玉(しぶさばるびい)だった。





 七篠 権兵衛様


 拝啓

 秋の気配もその濃さを増し貴殿におかれましては益々ご健勝のことと存じます。


 憶えておいででしょうか。

 一昨年のハンツピィの宴の折、悪人から助けて頂いた渋鯖紅玉です。

 私の気持ちもようやく落ち着きを取り戻し、今年の宴にはまた家族とともに参加する運びとなりました。

 付きましては是非改めて御礼申し上げたく、不躾ながら、お食事になど招待させて頂きたく筆を取りました。

 お食事と言っても、他の招待客の方々も列席する簡単なパーティーのようなものですので、お時間の都合が差し支えなければ、お気軽にご参加ください。

 ドレスコードはフォーマルですが、貴殿ならばいつもの装いで問題ないかと存じます。立食パーティー形式でアルコールもご用意いたしております。

 同封の招待券を入り口の係のものにお見せください。


 では会場でお会いできるのを楽しみにしております。


 敬具


 渋鯖紅玉





 同封の招待状には西区郊外のオープンカフェ「パープル・ポム」への簡単な地図と16時開場の立食パーティーへの参加要項が書かれている。


 明日の夕方から催される「ハンツピィの宴」とは獣化の木の実を食べて人々が獣人に変じ、自然とそれを司る精霊達に感謝を示すこの街特有の祭りだ。


 一般市民は「ポムの星」なる実を食べ、思い思いの装いの獣人と化し、飲み、食べて、歌い踊る。

 上流階級の人々は宴の広場から少し離れた宴期間限定のオープンカフェ「パープル・ポム」を主催者席として集まり、ダンスやカードに興じるのが毎年の通例だった。


 時計を見れば三時少し前。

 そう言えば腹も減った。

 少し早いが、スパークリングワインを飲みながらキャビアの乗ったクラッカーでも摘みに行くとするか。



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「パープル・ポム」は宴期間限定営業のオープンカフェだ。


 西区の森と平野部の境目に立つ大きなログハウス「パープル・ポム」前の広場にはシルクのテーブルクロスが掛かった丸いテーブルが幾つも並べられ、降ったり止んだりの不安定な天気にも関わらず、地元の名士や上流階級の人々、またその知人や友人が煌びやかな装いで集まり始めていた。

 参加しているのが上流階級の人々だけに、また今夜は前夜祭ということもあってポムの星で変身しているような客は見る限り一人もいない。

 代わりに猫耳のカチューシャを付けたり、狐の尻尾のアクセサリーを下げたり、狼のお面を被ったり。

 参加客たちは趣向を凝らして自分たちなりの自然の精霊への敬意を表現していた。

 時折ぱらつく雨もまた自然の精霊の戯れとばかりに余興として解釈され、集まった人々の興に水を差すには至っていないようだ。


 入り口の黒服にボディチェックを受け、招待状を見せ、ネクタイの結び玉を喉元まで上げて、中に入る。

 まずは招待してくれた令嬢に挨拶をしようと、俺はロッジの屋根付きのウッドデッキに向かった。

 一段高くなったそこには、参加客の中でも本当の資産家や貴族が集まり、大きなテーブルを囲んで上品に談笑していた。

 ウッドデッキに上がろうとすると、また二人の黒服に招待状の提示を求められる。

 この名士や有力者の集まりに、二年前に怪盗が紛れこんで大騒ぎになったものだから、今やセキュリティもこのとおり厳重なのだろう。

 俺は紅いドレスの渋鯖ルビィ嬢を認めると、ゆっくりと近づいて、脱いだ帽子を胸に当てて挨拶した。



 ご無沙汰しています。御令嬢。

 お招きに預かり参上致しました。

 七篠名前捜索事務所、七篠権兵衛です。


「あら、これはご機嫌よう。初めまして。渋鯖紅玉と申します」


 本日はこのような席にご招待頂き……ん?『初めまして』?

 失礼ながら。御令嬢。私とあなたは初対面ではありません。


「あら。これは失礼致しました。差し支えなければ、以前どこでお会いしたか教えて頂けます?」


 ルビィ嬢が冗談を言っている雰囲気はない。

 俺は黙って懐から招待状を取り出し、彼女に手渡した。


「……まあ。これは確かに私の筆跡。けれど、本当にごめんなさい。あなたのことを憶えていないのです」


 いえ。構いません。

 取るに足らない探偵の端くれ。こういうことは慣れっこです。

 こちらこそお気を遣わせて申し訳ありませんでした。


「本当に御免なさいね。けれどあなたが紳士だということは、短い時間の間に充分に分かりました。私はお送りしたことを憶えていないけれど、その招待状は確かに正式なものです。どうかお食事とお飲み物を楽しんでいらしてください」


 お言葉に甘えます。



 俺は一礼して場を辞すと帽子を被り直した。


 ……どういうことだ?

 あれだけの事件に巻き込まれて俺と関わっておいて、憶えてない?

 招待状まで送ってるんだぞ?


 空気を読んで場を収めはしたが、俺は悪い予感を抱きながら賑やかになりつつあるパーティー会場の様子を伺った。


 胸騒ぎがする。何かこうーー。

 そう、悪魔が絡む企みの気配だ。

 その時、入り口ゲートの向こう側の駐車場に数台のパトカーがやって来た。

 そう言えば怪盗事件以来、外周の警備に警察が派遣されてると聞いたことがあった。


 最初に停まったパトカーから降りてきた人物には憶えがあった。

 東署強行犯係、西四寺警部だ。

 俺は入り口ゲートに向かうと、入って来た西四寺警部を出迎えた。



 お疲れ様です。西四寺警部。

 今日はここの警備に?

「ああ、そうだが。失礼。あなたは?」


 ……念の為、聴くんですが名前捜索人、七篠権兵衛の名前に憶えはない?

「ナナシノ、ゴンベエ……さあ。知らないな。申し訳ない。仕事があるので」

 いえ、こちらこそ。お手間を取らせて申し訳ありませんでした。



 西四寺警部まで……もしかして。

 考えたくはないが、この街で誰一人、俺のことを憶えている人間はいないんじゃないか?

 おばばが亡くなり、ネモは帰って来ない。アズサとは連絡が取れず、渋鯖ルビィ嬢も西四寺警部も俺を憶えていない。


 差し当たり今は困ってはいないが……これで敵が……名前獣や悪魔が現れたら俺は戦えるのだろうか。


 今の俺にあるものと言えば、残り二本の煙草が入った潰れた煙草の箱と、おやっさんの遺してくれた改造拳銃「スティング・ビー」と、退魔の真銀の弾丸が一発のみ。


 これがもし仕組まれた罠だとしたら、今回はーー。



 少しヤバいかも知れない。



 空は夕闇と雨雲で暗さを増し、雨足はこころなしか強くなり始めていた。




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 雨に濡れる夕闇の住宅地。


 立ち並ぶ様々なデザインの戸建て住宅の群れの中、ぽつんと一箇所だけ空白の一角があった。

 降りしきる雨の中、俺はそこで正直途方に暮れていた。


 七篠名前捜索事務所唯一の正規スタッフ、女子大生捜査員・橘アズサの家を訪ねた俺は、そこに砂利の敷かれた四角い空き地を発見したのだった。


 馬鹿な。三年前に一度、アズサの弟の様子を見に来たことがあるが、その時は確かに二階建ての小洒落た家が建っていて、アズサとその家族の暮らしが息づいていた筈だ。


 俺はふらふらと後ずさりすると、尻に当たったガードレールにそのまま腰掛けた。

 オイルライターで火を点けた煙草の煙を胸一杯に吸い込んで、傘を打つ雨の模様を見上げる。



 やられた。

 こんなことを仕組むことができる奴に一人だけ心当たりがある。

 記憶の悪魔を操り、また自らも悪魔に堕ちて俺への復讐の炎に身を焦がすカルト教団の生き残りーー。


 その時、通りすがりの車のライトが、元橘家の空き地をさっと舐めた。敷地の丁度真ん中辺りで何かがそのライトをキラリと跳ね返す。


 なんだ?

 俺は歩み寄ってそれを拾い上げる。

 プレゼント?


 金属光沢のある赤い包装紙。

 十字に掛けられた黒のリボン。


 雨に打たれはしていたが、撥水性のある包装はきっちりその仕事を全うし、中は全く無事のようだ。

 包みを解くと大き目のペンケース程の箱に、メッセージカードと更に和紙に包まれた何かが入っていた。

 カードには短い文章。



 二十五日 夜九時

 真理聖名教会講堂



 ……真理聖名教会。

 やはりあいつか。

 三年前。俺とアズサが出会った事件を起こした名前獣悪用教団四天王。

 ーー朱雀。


 和紙の包みを開ける。


 中身は末端をピンクのヘアゴムで纏めらた、一房の髪の毛の束だった。


 その色、量感、長さは、俺のよく知る人物のトレードマークと寸分違わず一致していた。



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 10月25日

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 月明かりはステンドグラスを刺し貫いてその講堂の様子を意外にはっきりと照らし出していた。



 がらんとした空間に、沢山の長椅子が整然と並ぶ。

 一段高くなった壇上に講師卓とバグパイプ。

 そこら中にペンキを撒き散らしたような黒いシミ。

 全てに均等に積もる埃は、この施設が放棄されてから長い時間が経っていることを如実に物語る。


 ここは真理聖名教会、講堂。

 かつて人間から「名前」を剥がす薬を濫用し、名前の成れの果ての名前獣を悪用して世界に害をなさんとしたカルト教団が使っていた施設だ。

 三年前。俺とネモは立ちはだかる四天王と、教祖自らが自分の名前から呼び出した巨大な怪物と対決し、辛くもこれに勝利した。


 俺はショルダーホルスターで脇の下に吊り下げた改造拳銃「スティング・ビー」を確かめた。

 軍用ライフルの機関部を闇のガンスミスが無理やり拳銃に仕上げた世界で唯一の大型自動拳銃のマガジンには一発の真銀の銃弾と、十一発の通常弾が入っている。


 正直、奴が何をしたいのか、本当の狙いはなんなのか、皆目見当もつかなかった。

 少なくとも二匹の悪魔相手に、こちらは悪魔の相棒も他の味方もなく、拳銃一丁に退魔の弾は十二発の内の初弾の一発だけ。

 いかにも頼りない戦力だが、アズサが人質になっている以上、見過ごすわけにはいかなかった。


 俺はコッキングレバーを引くと、チェンバーに銀の弾丸を装填し、そのまま構えてゆっくりと講堂に歩を進めた。



「待っていましたよ。ネームハンター」


 講堂の丁度真ん中辺りまで進んだ時、聞き憶えのある声がそう俺を呼んだ。

 ガシャン、とスポットライトが講壇を照らす。


 血のように赤いローブを纏った人物。

 フードの奥で煌々と光る獣じみた黄色い瞳。



 名前獣悪用教団四天王、朱雀!

「真理聖名教会です。七篠権兵衛」

 アズサはどこだ?


 ガシャン、ともう一つのスポットが照らしたのは同じ壇上の朱雀の頭上で、人間大の十字架に縛り付けられたアズサだった。

 ぐったりと力ない様子でぴくりとも動かない。

 トレードマークのポニーテールは無残に切り落とされて、ややざんばらに短くなった髪がうなだれた彼女の顔を覆い隠していた。


 朱雀、てめえ!

「安心してください。生きていますよ。今はまだ、ね」

 アズサを離せ。狙いは俺だろう。

「その通り。しかしだからこそ、この娘を解放することはできません」

 ……どういう意味だ?

「あなたの元に橘アズサがいる限り、あなたを倒すという私の目的は叶わない、ということですよ」

 イカれてる。アズサは俺の大事な仲間の一人だが、復活の泉でもセーブポイントでもねえぞ。


 朱雀は高らかに笑った。


「この街の名前を知っていますか?」

 街の名前は過去に失われた。その名前を知る者は、今はいない。

「だが呼び名自体はある」


 ……空想の、街。


「そう。空想の街に我々は生きて暮らし、そして死ぬ。世界に例のない奇妙な街だ」


 何が言いたい?


「空想の街……ククク。記憶の悪魔、メメントゥ自体を贄として私が完成させた秘術は街の住民からあなたの記憶を奪った。知っていますか?記憶とは憶えておく力と思い出す力から成る。

 そしてこれが、街中の人間から残らず集めたあなたを『思い出す力』です」


 朱雀はローブの袖から掌を宙にかざした。

 講堂の中空に何かのエネルギーが渦を巻く。

 見る間にそれは成長してそこかしこに時折電光の火花を散らす軽自動車程の大きさの蒼い光の球体になった。


「これを、この講堂で忘れ去られた、ある偉大な人物の名前に使います。するとどうなると思います?」

 ……まさか。

「この建物が。この空間が。この場、そのものが、思い出すのです!偉大なる、その獣の王の聖なる名前を‼︎」


 俺は銃を構えて照準を朱雀の黄色く光る眼の間に合わせる。

 脇の締まり、呼吸の停止を一瞬だけ意識して、次の瞬間迷わずに引き金を引いた。

 必殺のタイミング。

 乾いた銃声と残響。

 しかし俺の放った最後の銀の弾丸は、朱雀の眉間に到達しなかった。


 茶色い丸太のような何かが俺と奴の間に割って入って射線を遮ったからだ。


 蒼い光の玉からにゅっと突き出たそれは先に行くほど細くなっている。

 続いて地響きを立てて象くらいなら踏み潰しそうな足が、自販機くらいなら一飲みにしそうな顎とそれを擁する頭が現出した。


 暴君竜王ーーTレックス!!!


 返事をするかのように巨大な恐竜は天に向かって長く長く吠えた。

 けたたましく響き渡る朱雀の笑い声がそれに重なる。


「ひひひひひひ! あーっはっはっはっはっはっは!お帰りなさい!お父さん‼︎ 時間が掛かってすいませんでした。さあ!あなたを消した七篠権兵衛への報復を!どうぞ心ゆくまで!!!」


 ぎろり。

 視線がこちらを向いただけでそう音が聞こえるような迫力の眼力。

 俺はその顔面目掛けて三発の銃弾を撃ち込んだが、奴は僅かに怯んだだけで、大してダメージがあるようには見えなかった。


 一声短く吠えた恐竜界の大スターはいつか観た古い映画のアクションそのままに振りかぶった尻尾を素早く横に薙ぎはらった。

 慌ててその場に伏せてそれをやり過ごす。

 頭のすぐ上を巨大な質量が高速で行き過ぎる感覚に、俺は戦慄した。

 尻尾に当たった幾つかの長椅子が玩具のようにくるくる回転しながら吹き飛ぶ。それは吹き飛んだ先で壁や床に激突して粉々に砕けた。


 次に奴は俺を踏み潰そうと進路のあらゆるものを粉砕しながら俺に突進して来た。

 俺はその進行速度を少しでも遅らせようと更に三発の弾丸を、今度は奴の足を狙って撃ち込んだ。

 だがこれは全くと言っていいほど効果がないようだった。

 あっと言う間に詰まる距離。

 持ち上げられた奴の足の裏を見上げながら、折れそうになる心を叱咤しする。痺れたように力が抜けていく足を一発叩いて、俺は隣の通路に飛び込んだ。

 直後、それまで俺の立っていた床は土台ごと踏み抜かれて、土煙を上げる瓦礫の集合体に変わった。

 すぐ隣にある、ティラノサウルスの太い柱のような足。

 俺はその腱と思しき部位を狙って、更に三発の弾丸を叩き込んだ。

 流石にこれは効果があったらしい。着弾点からは僅かに出血し、奴は苦痛の叫びを上げた。


 へっ。ざまぁ見ろ。


 しかしそこまでだった。

 奴はその自重と巨体からは想像できない軽やかなステップで立ち位置を変えると、撃たれてない方の足で、床に伏す俺を軽く引っ掛けて吹き飛ばした。


 ぐえ……!


 身体のあちこちからぼきぼきと何かが砕ける音がする。呻いた口からは声と共に血が飛び出た。

 長椅子をぶち割って床に叩きつけられた俺目掛けて、奴は頭を低くして突進してくる。

 そのまま頭突きをかます気だ。

 避けなければとは思うのだが、身体が全く反応しない。

 おやっさんの形見の改造拳銃はどっかにすっとんだ。


 結局俺は奴の頭突きをまともに浴びた。

 奴はインパクトの瞬間鼻先を上げるように跳ね上げ、俺の身体は弄ばれた人形のように高々と宙を舞って、ステンドグラスを突き破り、講堂の外の夜の森に吸い込まれるように落下して行った。


 ーーーーーーーーーーーーーーー


 湿った地面の臭い。

 咳き込めば口の中に溢れる血。

 生温かさと、鉄の味。鼻に抜ける血の臭い。

 左腕と右足の骨、肋骨は何本イッたか分からない。内臓にもダメージがあるのは確実だ。指一本、瞼一枚動かす力も残っていない。麻痺しているのか、痛覚自体がいかれたのか、不思議と痛みは皆無だった。ただ生命の脈動変が、砂時計の砂のようにさらさらと流れ落ちて失われてゆく感覚だけがはっきりと。鮮明に。

 見上げた空は満天の星空で、俺の眼は閉じる事を忘れたかのようにその瞬く星々を見つめ続けていた。


 死ぬのか、俺は。

 やり残したことがないとは言わない。

 だが、どんな人間であれいつかは死ぬのだ。

 最期に視る景色がこの星空なら、悪くない。


 遠くハンツピィの宴を祝う陽気な楽曲が聞こえる。誰かの笑い声も。

 すまない、アズサ。今までありがとうな、ネモ。

 おやっさん、おばば……もうすぐそっちへ行くよ。

 意識が遠のく。

 眼に映る星空がぼやけてゆく。


 これがーー死、かーー。


 その時、投げ出したままの俺の右手に触れるものがあった。


 小さく、猫の鳴き声がした。

 俺は意識を失った。


 ーーーーーーーーーーーーーーー



『聴こえる?七篠権兵衛。マイマスター』




 果てしない暗黒の中に響く美しい声。



 その声はーーネモ?無事だったか。


『目を開けて』


 ゆっくりと瞼を開く。


 空も大地も、どこまでも灰色の世界。

 灰色の紙に、横棒を一本引いたような地平線。

 生命の気配のまるでない、無機質な空間。


 ここには来たことがあった。

 そう。「地獄」だ。


 そうか。俺は死んだのか。

 そして地獄に堕ちた。今までやって来たことを思えば当然だな。

 ネモ?


『ここよ』


 見慣れた黒猫でも美女の姿でもなく、掌に乗るような小さな仔猫がそこにいた。


 取り立てに来たんだろ?悪魔との取り引きの、その代償を。


『……』


 今までありがとうな。ネモ。お前のお陰で、沢山の……俺が思う正義を成すことができた。今度は俺の番だ。薄汚れたチンケな魂だが、お前の好きにしてくれ。


『昨日。十三回目の鐘がーー朱雀が記憶の悪魔メメントゥを生贄にして鳴らしたアムネジアの鐘が鳴った時、私の保持していた魔力の殆どが失われたの。私の魔力は、あなたとの契約の記憶、あなたの付けてくれた名前の記憶。大部分をそれらに依拠していたから』


 だから言葉も失くした?


『そう。でも不思議ね。私は完全にはあなたのことを忘れなかった。あなたが名前を付けてくれたこと。あなたを助けないといけないこと。ここにくれば、地獄の魔素を補給して、魔力を取り戻せるかも知れないことーーそういうことを微かにだけど思い出して、ここに来た』


 すまなかったな。無駄足を踏ませたみたいだ。肝心の俺がこの有様じゃな。


『でも駄目だった。朱雀はその辺も抜け目がなかった。地獄への入り口の魔方陣は壊されていたわ。私はあなたがやられるのを、黙って見ているしかなかった』


 地獄への入り口が壊されてた?じゃあ、今俺たちがいるここは?


『ここは地獄じゃない。私とあなたが共有しているイメージの世界。あなたは死をイメージし、私は魔力の源を求めた』


 つまりーー?


『あなたには二つの選択肢がある。七篠権兵衛』


 選択肢?


『一つはこのまま死ぬこと。私はあなたの魂を契約の代償として受け取り、地獄の下層に帰る。安心して。魂を牢獄に繋ぎ留めていたぶり続けたりはしないから。むしろ逆で、あなたにとっては快楽と呼んでいい時間が待っている。それもほぼ永遠に。転生の輪廻にはもう戻れないし、快楽の得かたも人間界の倫理的にはちょっとアレだけど』


 もう一つは?


『一か八かの大博打。上手く行けば、あの時代遅れの怪獣をやっつけてお釣りが来る。失敗すれば、私もあなたも魂が壊れて未来永劫、身体を裂かれ続けた上に更に煮え湯を注がれ続けるような苦痛の中に漂うことになる』


 詳しく話せ。


『合体よ』


 合体?


『いやらしい意味じゃないわ。私とあなたの存在を重ねて、一つの存在を共有するの。余った一つ分の存在の力を戦う力に替える。但し、上手く行ってもいつ論理崩壊するか分からない。そこに目を瞑っても、戦った時間分だけガンガン私たちの現世寿命は目減りしてゆく』


 いつか言ってたな。俺が死にそうになったら、俺を悪魔にしてやる、と。

 上手く行く確率は?


『サタンのみぞ知る、ね。私は魔力がすっからかん。あなたは死にかけのずたぼろ。これが賭博なら、私は迷わず失敗する方に賭けるわ。どうする?』


 言葉に出して返事をしないと駄目か?


『上手くいく方に賭けてみるか、ね。OK。マイマスター。そう言うと思ったわ。信じてないでしょうけど、神だかなんだかにでも幸運を祈って』


 仔猫はウィンクをしてみせる。

 次の瞬間、恐ろしい悲鳴を上げながら、その猫が泡立ち、腐臭のする真っ黒なヘドロの壁となってそそり立った。

 思わず息を止めた俺の周りをヘドロの壁はぐるぐると渦巻き、俺の身体を包み込むと、俺の身体にある穴という穴全てにその腐汁を注ぎ込んだ。


 声にならない悲鳴を上げながら、俺は再び意識を失った。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 私の名前は朱雀。

 死の翼、朱雀。


 父がその名を破壊され、その存在を忘却の彼方に消し去られて実に三年。

 情報の収集と仮説の検証、得られた結果から導き出された推論の実証ーー。

 多くの時間と労力、犠牲を費やして、ようやくここまで漕ぎ着けた。


 ネームハンター。

 知る人ぞ知るこの街のヒーロー。

 警察や裏の住人に顔が効き

 悪魔の相棒を連れ

 育ての親が残した拳銃で戦う、この街の名前の化身。



 私は奴から仲間を奪い、悪魔の相棒を奪い、親の形見の銃を奪い、逆に我が父の名前の化身である竜族の王を復活させた。


 逆に言えば、ここまでしなければ倒すことがままならなかった七篠権兵衛という男こそ大した奴だと言っていいのかも知れない。


 ターニングポイントは「橘アズサ」の存在だ。


 その重要さに、私は奴より先に気がつくことができた。

 結局それが勝負を分けた。


 暴君竜王、Tレックスは、講堂の外に飛び出した憐れな七篠権兵衛を追って、壁を踏み破ろうとしていた。

 いたぶるのにも飽きたのだろう。

 恐らく重症を追ってボロ布のように地面に倒れているだろう奴を、一飲みに飲み込んで、この物語は完結だ。



 崩れ去る講堂の壁。

 勝利を確信して吠えるジュラ紀の王。



 しかしそこに居る七篠権兵衛は、思ったような有様では無かった。


 スーツこそボロボロだったが、その立ち姿は凛としたものだった。

 目深にした帽子のせいで表情は見えない。火の点いていない煙草を咥え、ポケットに手を突っ込んですっくと夜の森に立っていた。

 最後の意気地とでも言うつもりか?

 私はそんな奴の下らないプライドを鼻で笑うと、背中の翼を羽ばたかせ、太古の竜の背に降り立った。

 決着の瞬間を間近で見たかったからだ。


 ティラノサウルスは地響きを立てながら、自らの仇に近づく。奴は逃げようともしない。


 次の瞬間、異変が起きた。


 奴の咥える煙草の先に、ぽっ、と火が灯った。奴の両手はポケットのまま。

 見る間にその火は煙草を燃やし尽くして灰に変える。

 と、今度は奴のスーツや帽子からぶすぶすと煙が上がり始めた。


 なんだ?何が起こっている?

 ……構うものか。Tレックスよ!七篠権兵衛を噛み砕け‼︎


 私がそう命じた直後、Tレックスが了解の旨を吠え声で示すと同時に、七篠権兵衛全体が炎を吹いて燃え上がった。


 気取ったソフト帽もジャケットもパンツも燃え落ちて、そこには異形のヒトガタの何かが立ち尽くしていた。

 真っ黒な肌。

 その表面を走る幾条もの蒼い光のライン。

 複雑なカーブを描いて額から伸びる二本の角と、何より白い光を放つ鋭い双眸。


 ま、待て!Tレックス!


 直感でそう叫んだものの、Tレックスは本能のままに黒い魔人を顎に捉えようと飛びかかった後だった。



 ぐしゃりと西瓜が割れるような音がした。

 宙を回転しながら飛んでゆくのは、紛れもないTレックスの下顎だ。

 爬虫類と鳥類の中間の知能では何が起きたか理解できずに、Tレックスは口元から大量の血をだばだばと滴らせながら二歩、三歩と後ずさる。


 くっ。なんだあれは?あれが……七篠権兵衛だと言うのか……?


 私の計画は、準備は、不完全だったと言うのか……?



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 眼を開けると目の前で恐竜が吠えていた。

 ああ、そういやここから続きだったっけな。


『気分はどう?制限時間があるから早速行くわよ。魔力回路全段直結。マナモーター・スタンダードブート』


 頭に響くネモの声。

 激しい痛みと共に俺の身体を高密度のエネルギーが駆け抜ける。

 たちまち服は燃え上り、俺は漆黒の肌の魔人と化した。


『まずは成功ね。おめでとう。賭けはあなたの勝ちだわ』

 服が燃えちまったぞ。携帯も財布もだ。あと今ものすごく痛かった。

『みみっちいこと言わないでナナゴン。私たち思った以上に相性がいいみたい』

 その呼び方はよせ。

 制限時間は?

『臨界以下の微調整はできない。今のコンディションだといいとこ二分ね。それ以上は身体も魂もばらばらに弾けるかも』

 充分だ。カウントダウンを。

『実体化した以上、恐竜は普通の恐竜よ。心臓を止めれば死んで、死ねば急速に因果を失って消滅する。朱雀の坊やは悪魔になってる。霊的コアを潰さないと復活するわね。実像に霊的コアのイメージを重ねて可視化するわ』

 なんだ。心臓と変わらん位置だな。

『霊格にもよるけど、あの感じなら少なくとも鋼鉄の玉くらいの強度はあるはずよ。殴るならそのつもりでね』

 OK。相棒。

『今はあなた自身だわ。準備はいい?マナモーターフルドライブ。カウント、スタート』



 勢い良く噛み付いて来たトカゲ野郎の下顎を右フックで思い切り殴る。

 それだけで下顎は千切れてすっ飛んだ。

 下等な脳では何が起きたのか理解できず、奴はただ低く呻きながら後ずさりする。


『百五、百四、百三……』

 ネモ。魔力を右足に集中だ。貫くぞ。

『正気?勢いが足りないとあの怪物の体内でもがく羽目に……』

 行くぜ!

『ちょっと待って!あ!』



 下顎の欠けた傷口めがけて俺はジャンプしてキックを放つ。

 途端に足は輝き出し渦巻く波動が足先を起点にドリル状のオーラとなって俺を包んだ。

 テレビの特撮ヒーローのように、俺は恐竜の体内をキックで貫いて、尻尾の付け根から飛び出した。

 身体の真ん中にトンネルを開けられて、血と臓物の破片を周囲に散らかしながら暴君竜王はどしゃり、と夜の森に倒れた。


『無茶苦茶だわ。半分は私の身体なんだってこと、忘れないでよね』

 残り時間は?

『九十二、九十一、九十……』

 朱雀は?

『上よ。逃げる気ね』

 逃がさねえ。この身体は飛べるか?

『もちろん』


 背中に広がる蝙蝠のような翼。

 やれやれ。とうとう俺も悪魔の仲間入りか。


『時間がないわ。スーパーソニックモードに切り替える』


 振り向けば生物的だった羽は鋭角の透明な板のように変わり、輝きを放って微細に振動する。

 足が地面から少しだけ浮いた。

 同時に俺がすっぽり収まるかなり細長い光の円錐が出現する。


『光ってる円錐……フォースコーンから手足は出さないで。衝撃波ですっ飛ぶわよ。耳がキーンとするけど不可抗力だから我慢して。パニクって自分の位置を見失わないように。いい?』

 ああ。

『あと七十八秒。ロスタイムはないからね』

 GO!


 風船の割れるような音。

 雲の傘を突き破り漆黒の弓矢となって夜空を駆ける。

 それに気づいた朱雀はもまた魔力を大量に消費して加速をかける。

 遠ざかったり近づいたり。

 紅と蒼の電光が何度も夜空を疾った。


『あと五十二秒。このままじゃ埒があかない』

 もっと加速できないのか?

『無理ね』

 光を出せるか?

『光?』

 強烈な光だ。奴の目を眩ませるんだ。

『どうやってその光を見させるの?』



 俺は息を吸い込むと、思い切り叫んだ。


 朱雀!!!!


 必死に夜空を逃げ回っていた奴はその呼び声に一瞬振り向いた。


 今だネモ!


【カッッ……!】


 俺の額に二本生えた角の間に生じる強烈な光。

 思わず固まって目を閉じる朱雀。


【どっ】


 奴は目を見開いて自分の胸を見た。

 そこに刺さる俺の腕を。

 引き抜かれた俺の手の先にある金属光沢を放つ輝く玉を。

 俺は手に力を込めて魔力で脈打つそれを粉々に粉砕した。


「ななしの……ごんべえ……」

 ……さんを付けろよ。

 馴れ馴れしいぜ。


 朱雀は胸を押さえ、口から黒い液体を吐くと浮遊の力を失ってひゅるひゅると森の中に落ちて行った。


『お見事。所であと十四秒よ。ゆっくり急いで地面に降りてね』



 ーーーーーーーーーーーーーーー



『七、六、五……』


 ネモのカウントダウンに急かされなが講堂横の園庭に降りる。

 地面に降りたった俺はヘトヘトで、伸び放題の芝生の中に大の字になって星空を仰いだ


『二、一……タイムアウト』

 ぽんっ。と漫画のような煙を吹いて、俺の身体から黒猫が飛び出す。


 後には全裸で大の字になるおっさんが残された。


『分離も上手く行った。あなたを媒介に記憶を取り戻し再契約も成立、私も魔力が戻ったわ』

 服をなんとかしてくれ。

『専門外ね。通販で買ったら?受け取りをここに指定して……』

 ネモはそこまで言いかけて言葉を切った。


 どした?

『まさか……ありえない』


 彼女の視線の先、月をバックに夜空を舞うシルエット。

 あれは、朱雀⁉︎

 しかもアズサを抱き抱えて!いつの間に!

 慌てて飛び起きた俺は朱雀を目で追いながらネモに言う。


 追うぞネモ!もう一度合体だ!

『無理よ!今そんなことをすれば私たち二人ともがばらばらになって消滅するだけだわ。それに……ああ、なんてこと』

 なんだ?早く言え!

『追いついた所で、あなたは朱雀に何もできない。いい。よく聴いて。朱雀は自分の霊的コアを、お嬢ちゃんの……橘アズサの心臓と共有している』

 なん……だって?

『さっきあなたが粉砕したのは、ダミーだったのよ』


「その通りです七篠権兵衛」

 朱雀は悔しそうに言った。

「今回は痛み分けにしておきましょう。だが忘れないでください。私の破滅はこの娘の死を意味します。最後に勝つのはこの私、死の翼、朱雀だ!」


 いつもなら高笑いするカルト教団の生き残りは、今回ばかりはダメージが大きいのか、それだけ言い捨てると夜空の彼方へ飛び去って行った。


 俺もネモも、ただそれを眺めていることしかできなかった。





 俺は言葉にならない、獣のような咆哮を喉が裂けるほどに撒き散らした。




 ーーーーーーーーーーーーーーー

 10月26日

 ーーーーーーーーーーーーーーー



 薬っぽい匂い。


 糊の効いたシーツの感触。


 目を開けると白塗りの天井。

 賃貸事務所の二階じゃない。


「あ、気がつきましたか」


 茶髪の小柄な看護婦には見憶えがある。

 第一東西病院。

「だいいちひがしにしびょういん」と読むその病院名は捻くれた医院長のセンスの賜物だ。


 あ、シリンジさん。毎度世話になってすまねえな。


 俺の挨拶に彼女は「え⁉︎」みたいな顔をした。

 あ、そうか。彼女も俺のことを忘れているのか。



 いや、前に親類がこの病院で世話になってね。あなたはその時、とてもよくしてくれたんだ。ありがとう。


「あ……そうでしたか。ドクターを呼んで参りますね」


 看護婦はそう言うと病室を出て行った。

 近くに居たのか、すぐ入れ替わりにドクターが来た。


「おはようナナシノゴンベエくん。調子はどうだい?」

 現れた短髪眼鏡痩身長身の白衣の男は、これ見よがしに爽やかな笑顔でそう言った。


 ドクター……あんた、俺のこと憶えてるのか?

「ん?なんの話かな?」

 今、俺の名前を。

「君の名前?無人の廃墟に倒れていた所を全裸で救急搬送されて来て身元が分かるものどころかパンツ一枚身に付けてなかった君の名前を、初対面の僕が知るわけないだろう」

 ……あー。はいはい。失礼しました。

「え……いや。まさか。君の名前、ナナシノ・ゴンベエって言うのかい?」


 俺は不機嫌に頷く。


「これまたひど……いや。既存の言い回しと韻を踏んだ個性的な名前だね。こんな名前なら一度聞けば絶対に一生忘れないよ」

 ……嘘つけ。

「診させてもらったけど、極度に衰弱してた以外はどうということはない。栄養剤の点滴を一パック入れた。効いたみたいだね。顔色も悪くない。あとは……傷あとも古傷ばかりだし、骨折の跡も身体中にあるけど、どれも治癒した後のようだし。健康体だよ」

 そらどーも。


 合体中にネモが上手くやってくれたのか。寿命が何年減ったんだが……。


「さて。支払いは後でも構わないけど、服はどうするかね。電話は貸すけど迎えに来る人の連絡先とか分かるかい?」

 うーむ……。


 財布も携帯も燃えちまったからな。どうしようか。事務所に帰れば服も多少の金もあるが。ネモが携帯を持ってるとも思えんし。万一持っていたとしても俺は持ってることは勿論、番号も知らん。


「それからもう一つ。あんな所で裸で倒れて何をしてたんだい?事件性はない?」

 事件性……あるけど警察がなんとかしてくれるようなことじゃないからなぁ。

「やはりそうか」

 ドクター。あんた何か心当たりが?

「UFOだね?」

 ……。

「夜の散歩をしていて、なんらかの理由で裸になった君は、空にオレンジ色の光を見る。それが放った光円錐に捉えられ、身体が宙に浮く。だがそこでレティキュランのトラクタービームにトラブルがあり、君は地面に投げ出されて、気を失った」

 ちょっと待て。裸になるの宇宙人に攫われる前なの?おかしくね?

 それにレティなんとかって誰?

 トラクター?農家?

「君を攫おうとした地球外知的生命体だよ。いわゆるイーバだね。トラクタービームは恒星間航行宇宙艇であれば標準的な装備である引力光線の総称でね。ちなみにレティキュランの母星と言われているレティクル座β星は最新の観測で液体の水があることや周期性のある電波の発振が繰り返し確認されていてーー」


「それ以上はあなたの為になりません。ドクター」


 と、俺とドクターの不毛な会話に割って入る声があった。

 入り口に立つサングラス、びしっとキメたダークスーツ、ハイヒール姿の仕事できそうな黒髪の美女。手に「和菓子処 亀の子堂」の大き目の紙袋。


 美女モードのネモだ。


「N.E.C.Oの実務官担当補佐のダレーデ・モナイです」


 ネモはそう名乗ると何かの身分証のようなものをちらっと一瞬だけ提示した。


「うちの上級実務官、七篠がお世話になりました。こちらは入院費と治療費。着替えは私が持参しました。現時刻を持って、七篠の身柄は我々が預かります」


 早口にそうまくし立てネモはクイッとサングラスを上げ、着替えの入った「和菓子処 亀の子堂」の紙袋を俺に投げて寄越すと『着ろ』と顎で合図した。

 俺は患者服を脱いでいそいそとシャツやスーツを着込む。

 そんな俺を隠すようにドクターと俺の間に仁王立ちになったネモは、更に続けた。


「なお、この件に関わる一切は他言無用です。この禁則が破られた場合、地域安全保証条例第四百二十ニ条、十三項、特記のa及びcに基づき、あなたの身柄を拘束、無期限に禁固させて頂く場合があります。悪しからず」


 ドクターはこくこくと頷くが、その瞳が中二の光を強く帯びてきらきらと輝いているのを俺は見逃さなかった。

 俺が着替え終わったのを確認し、ネモはドクターに向き直る。


「では失礼します。早く忘れること。この件についてはその方法が皆を幸せにします。ご機嫌よう」

「ちょ、ちょっと待って下さい!」


 去ろうとするネモを、ドクターが呼び止める。



「まだ何か?」

「……握手して、頂けませんか?」




 ーーーーーーーーーーーーーーー



「あー、面白かった」

 サングラスを外し、結い上げていた髪を解いて降ろしながら、ネモは本当に愉快そうに笑った。


 救急車呼んだのお前だよな。ありがとう。それはそれとして、どういう設定だよありゃ。俺はエイリアン担当捜査官になった憶えはねーぞ。

「でも、話は早かったでしょ。こうしてすぐに出て来られた」

 言いながらネモは寄り添って腕を絡めて来た。

「本当のとこだって似たようなもの……いえ。全部話したら本当の話の方がよっぽど現実離れしているわ」

 ……まあそれはそうか。

 にしてもネモ。その姿。満月でもないのに。地獄への入り口は壊されてたんだろ?

「事務所の冷蔵庫に一本だけ地獄の水を入れといたのを思い出したの。満月の夜以外の変身は、これっきりかも」

 あのな。勝手にそんなもん冷蔵庫に入れんな。間違って飲んだら死ぬだろ。

「死にはしないわよ。ちょっと死ぬほど苦しむけど」

 大体同じくらい嫌だ。

「もう、折角迎えに来たんだから機嫌直して。ほらこれ」


 渡されるズシリと重い包み。


 これは……スティング・ビー?

 すまねえ、拾っておいてくれたのか。

「まあね。実を言うとあなたを見てた私のすぐそばに飛んで来たの」

 これだけはな、探しに行こうと思ってたんだ。ありがとう相棒。

「こっちは財布。お金は事務所の金庫から抜いて適当に入れといた。コーヒーくらい飲みたいでしょ?」

 やけに気が効くな気持ち悪い。もしかしてなんか俺に後ろめたいことでも……。

「喜んで貰えて嬉しいわマイマスター。で、これからどうするの?敵を取り逃がし、ツテも後ろ盾も失い、スタッフは人質で、おまけに敵と心臓を共有してる」


 ……分けて考えよう。


 朱雀とアズサの行方は探す。逆に心臓を共有してるなら、朱雀もアズサにそうそう手出しできない筈だ。


 悪魔と共有された心臓の共有を解く方法も調べる。そんな術だか魔法だかがあるんだ。解除する術だか魔法だかも必ずある。

 暮らしては行かなきゃならんから、普通の依頼もこなしながらになるけどな。


 ツテや後ろ盾に関しては……。

「現状では猫が一匹。ただし仕事のできる美人猫」

 自分で言うな。

 だがその通りだ。

 元々俺たち、一人と一匹でやって来てたことだ。

 ここ数年でたまたま何人かと親しくなったり深く関わったりしたが、それがキャンペーン期間だったのさ。

 今まで通りの通常営業に戻るだけだ。

「猫一匹で充分?」

 やってみるさ。

「猫の手はお貸しするわ、探偵長。ところでいつかの約束を憶えてる?宝石付きのオーダーメイドの首輪。注文してあるから届いたら支払い、お願いね?」

 あー、なんかそんな話あったな。値段は幾らだ?

「おっといけない魔力切れだわ。じゃ、色々よ・ろ・し・く」

 ネモは俺の頬にキスするとぽんっ、とマンガみたいな煙を吹いて黒猫の姿に戻った。

 そのまま尻尾を立てて、とたた、と先に行ってしまった。

 ポケットに入れた手に何かが当たる。

 新品のオイルライターと未開封のいつもの銘柄の煙草だ。


 ……本当に仕事のできる猫だな。


 俺は咥えた煙草に火を点けて、その煙を思い切り吸い込んだ。

 ゆっくりと吐き出した煙が風にたゆたうのを目を細めて眺める。

 その向こう側に焦点を合わせれば、そこにはいつもの街の風景。

 風の匂い。行き交う人や車。

 宴の翌日の気だるい、どこか白々しい空気。

 そんな空気を深呼吸した俺の心に拭えない疑問が渦巻いていた。



 で、その首輪は一体幾らなんだ?






 ネームハンター6

 〜 The amnesia capriccio 〜


 〜〜〜 fin 〜〜〜

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ネームハンター6 〜 The amnesia capriccio 〜 木船田ヒロマル @hiromaru712

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