ネームハンター4 〜 The silver ice Étude 〜

木船田ヒロマル

ネームハンター4 〜 The silver ice Étude 〜

 降りしきる銀の結晶は地表に近づくにつれその均衡を崩し冷たい光の粒子に解けて海からの風に舞う。


 その微細な輝きの中、その女は海に向かい霊園の崖縁に立つ。


 幽霊?いや、風船を持っていない。代わりにヴァイオリンとその弓を持つ黒いコンサートドレスの一人の若い娘。


「もう大丈夫よ七篠権兵衛」


 振り返りながら彼女はヴァイオリンを構えた。


「あなたは、私が護ってあげる」


 途端に辺りを満たす悲しいメロディ。

 銀氷は震え、その飛沫の煌めきは彼女を中心に渦を巻く。

 そして俺は、決して一生忘れないだろう凄まじい悲鳴を聴いたーー。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。

 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 探偵のようなものと考えてくれればいい。

 最近ではネームハンター、なんて横文字で呼ぶ奴もいる。


「にゃー」


 ……分かってるよ。


 こいつは相棒の黒猫。

 名前はネモ。

 色々あって俺はこいつの言葉が解る。

 こいつ、見た目通りの只の猫じゃねえんだ。


 俺の仕事は失くした名前を探すこと。


 この街じゃ、何時の頃からか名前が人や物から抜け出してどこかに散歩するようになっちまった。


 俺は憐れな依頼人の失くした名前を見つけ出して、元通り人に名乗れるようにしてやるってわけさ。


【カランコロンカラン♬】


 さぁて仕事か。


 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 事務所のテーブルを挟んで対峙する二人の間の空間は高い圧力の緊張を孕み、今にも火花を上げて炸裂してしまいそうだった。


 テーブルの上には二枚のチケットと小さな小包。

 二人の人物の内の一人はポニテ女子大生にして我が事務所の主任捜査員、橘梓(たちばなあずさ)。

 もう一人は我が相棒、剥がれた名前を捕らえる魔銃で黒猫、今は美女の姿の因果の悪魔・ネモだ。


「このチケットはナナゴンに贈られて来たもの」


 腕を組み高飛車な態度のネモ。


「ペアで同行するのは当然、パートナーであるあたしよ」

「そのチケットは人間用のチケットです」


 アズサも負けていなかった。


「当然、人間である私にしかナナゴンのエスコートは務まりません」


 俺には、二人の交錯する視線が小さな哺乳類なら即死するレベルの電光を帯びているように見えた。


 ーーナナゴンはよせ、二人とも。

 第一、俺は行くとは言ってねえぞ。


「え?行かないんですか?珍しい『あっちの世界』から来るヴァイオリ二ストさんのコンサートですよ?」

 とアズサ。


 得体が知れん。贈り主不明のペアチケットだぞ。


「罠かも知れない……と?」

 とネモ。


 俺の誕生日なんて今じゃ百段階段のおばば位しか知らない筈だ。


 机の小さな小包を示しながら俺は言った。その小包の伝票の送り主の欄に名前はなく、住所に「百段階段」とだけ書いてある。おばばはいつもそうだった。


「え”⁉︎探偵長、お誕生日なんですか? いつが?」


 7月6日だ。尤も生まれた日じゃなく拾われた日、だがな。


 記憶もなく身元の手がかりになるような物も持たず、行き倒れていた少年の俺は、この事務所の先代の主、久田晴尽蜂ーー俺はおやっさん、と呼んでいたーーに拾われた。

 それが7月6日。

 おやっさんはその日を俺の誕生日として毎年ささやかにではあったが祝ってくれていた。


 兎に角だ。どうも気味が悪い。俺は行かないからなんならお前たち二人で……。


 ぱんっ!


 突如粉々に砕けるデスクのスタンドの電球。

 静かに微笑んでこちらを見るネモの、両の瞳が高輝度LEDのように冷たく輝く。


 OK。行く。アズサかネモかはコインで決めよう。





 ……コインは俺が投げる。

 アズサが先にコールしろ。

 それでいいな、ネモ。


「ご自由に」

「私も異存ありません」


 よし。恨みっこなしだ。二人とも、幸運を。


 俺は25クルーク銀貨を親指で跳ね上げる。

 そして回転しながら落ちて来たそれを左手の甲で受け右掌で蓋をした。


「表!」

「……裏」


 二人のコールを聞き届け、俺は右掌の蓋をゆっくりと開けた。




 ーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛。剥がれた名前の捜索人だ。


 ある日送られて来た差出人不明の封筒には、ヴァイオリンコンサートのペアチケットが入っていた。

 訝しむ俺を尻目にチケットを取り合う相棒の悪魔美女ネモと主任捜査員アズサ。コインが微笑んだのは果たしてーー。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 街で唯一のコンサートホール「遠き潮騒堂」。


 開幕までまだ時間があるが観客と思しき人影はちらほらと集まり始めていた。

 シャツのボタンをきちっと閉めネクタイの結び玉を首元まで上げただけで、いつものスーツの俺に対し、ネモは艶やかなイブニングドレスで現れた。


「お待たせ」


 ナチュラルに見えるしっかりメイク。

 猫耳の意匠のカチューシャ。

 夜空の天の川を思わせる漆黒のビロードにラメの輝くドレス。

 元々の美貌と合いまって道行く人々を振り向かせる程に今夜の彼女は輝いていた。


 ……あのな、ネモ。気合い入り過ぎじゃねえか?


「いいでしょ。たまになんだし」


 ネモは妖艶に笑う。

 俺がどきりとしたのは、その笑みが演出や営業じゃなく心からのものだと感じられたからだ。

 ネモとは長い付き合いだが、正直こんなことは初めてだった。

 思えばこの所こいつは、急に人間らしくなりつつある。

 隣を歩くネモに、ふと「女」を意識して、俺は目線を彼女から外して歩調を早めた。


「あん、待ってよ。あたしヒールなんだから」


 ネモは文句をいいつつ、それでも楽しそうに俺の後をついて来た。



「九条八千代ヴァイオリンコンサート 〜銀氷のエチュード〜 」 の看板をネモと二人でくぐる。


 受付でパンフレットを受け取り、ホールでチケットの席を探す。

 ありゃ、ど真ん中のいい席だな。

 ネモは俺の隣に座り、少しそわそわした様子で辺りを伺っていた。


 おい。あまりきょろきょろすんなよ。


「だってこういうの初めてなんだもの。あたし、おかしくない?きちんと観客っぽくなれてる?」


 大丈夫だ。堂々としておけ。


「さっきからなんか見られてる感じがするのよね……尻尾でも出てるかと気が気じゃなくて」


 そりゃお前……。


 お前が綺麗だからだ、と言いかけて何故か言ってはならない気がして俺は黙った。


「ん?何?」


 ネモは長い睫毛を纏った黒目がちな瞳で俺を見た。

 その時、ブザーが鳴ってホールが暗転する。

 俺はどこかほっとしている自分を発見した。



 ステージの照明に一人の女性が浮かび上がる。


 二十代前半だろうか。

 落ち着いたワインレッドのコンサートドレス。

 年季の入った渋い色味のヴァイオリン。

 彼女が右手の弓をヴァイオリンの弦に当てたその瞬間、ホールの空気が劇的に変わった。


 深みのある立体的なメロディ。

 緩急と強弱のメリハリ。

 一瞬のタメ。

 駆け抜ける旋律。

 胸に迫る重低音と天使の囁きのような繊細な高音。


 素人の俺にも間違いなく彼女は一流だと思えた。

 彼女の紡ぎ出す音の奔流は時に爽やかに時に切なく心に染み込む。

 俺は暫し浮世の憂さを忘れその愉悦に酔いしれた。


 その時、隣のネモが席を立った。


 ……どうした?ネモ。


「ちょっと、気分が悪いの。外の空気を吸ってくる」


 付き添おうと俺は腰を浮かしたが、ネモはその動きを手で制して言った。


「平気よ。慣れないことしたから色々収まりが良くないだけ。すぐ戻るわ」




 だが結局、ネモはコンサートが終わるまで、席に戻ることはなかった。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛。剥がれた名前の捜索人だ。


 差出人不明で送られて来たヴァイオリンコンサートに行った俺と相棒の悪魔美女、ネモだったが、途中から気分を悪くしたネモは中座したままついに席には戻らなかった。

 そして氷涼祭の朝が来るーー。




 ーーーーーーーーーーーーーーー



 外を眺めればそこかしこに大小色とりどりの風船が漂う。


 今日はこの街の祭日の一つ、「氷涼祭」だ。


 氷涼祭に死者は風船であの世から戻って来る。

 出迎えの目印の為、門戸には風船が括られ、また死者が祭の期間中気兼ねなく過ごせるよう生者は風船を持って過ごす。


 昨日、結局ネモは席には戻らず姿をくらましてしまった。

 だが今朝には猫の姿で戻って来ていて自分のクッションで丸まって寝ていたから、本当に気分が悪かったのか何かの気まぐれかのどちらかなのだろう。


 俺は藍染の着流し姿でボルサリーノを被ると風船を手に取った。

 冷えたハイネケンを冷蔵庫からクーラーバッグに移し、事務所のドアをくぐろうとした時。


「にゃー」


 ……無理するな。調子悪いなら寝てていいぞ。


「にゃー」


 墓参りだ。今までしたことはなかったが、ようやく俺も受け入れられたんだ。おやっさんの、死を。


「にゃー」


 おやっさんがそんなタマかよ。

 戻って来たとしても面と向かって挨拶して来たりはしねーよ。

 どこかからそっと様子でも伺って、黙って行っちまう。

 俺の知ってるおやっさんはそういう人さ。


「にゃー」


 ……いいぜ。じゃ、一緒に行くか。



 死者と生者が区別なく闊歩し、右を見ても左を見ても風船だらけの不思議の街を、名前捜索人と黒猫姿の悪魔は海辺の墓地に向けて歩き出した。


 空からは「銀氷」と呼ばれる氷の結晶がきらきらと降る。


 その輝きはあの世とこの世、夢と現実の境界を限りなく曖昧にしていった。




 ーーーーーーーーーーーーーー



 街の北東の海沿いにある霊園「夕凪の園」はひと気もなく閑散としていた。

 墓地であるから賑やかであるはずもないが、氷涼祭の今、霊たちが生前の姿で帰って来ようと言うのに、わざわざ墓参りをしようなどという奇特な人間は少ない。


 この時期特有の自然現象「銀氷」は一部では霊たちが街へ降りる道標と言い伝えられていたと聞く。

 天を輝きで覆い、地表までに消えて無くなるその儚い佇まいは、どちらかと言えばリアリストな俺にすら、言い伝えや伝承を信じたくさせる神秘性を伴っていた。


 目的の墓標の前に立つ。

 おやっさんのその墓に赤いヒナゲシの花束が捧げられていた。……先客か。珍しいこともあるもんだ。


 脱いだボルサリーノを胸に当てて黙祷する。

 いつのまにかレースのドレスの喪服美女の姿になったネモが、俺の隣で俺に倣った。

 俺はクーラーバッグから冷えたハイネケンを取り出し、ヒナゲシの花束の隣に置いた。


 気が向いたら、事務所に来てくれよな。俺とあんたの分のハイネケンは欠かさずに用意しとくからよ。な……親父。


「……もういいの?」

 ボルサリーノを被り直す俺にネモが問う。


 ああ、あまり長々祈っちゃ、うっとおしがられる。それより大丈夫かネモ。人間の姿になったりして。調子、良くないんじゃないか?


 ネモは俺の腕を取るとしなだれ掛かりながら言った。

「心配してくれるの?」


 ……パートナーだからな。


「コンサートの時……急に大量の魔力を消費したのよね……原因は分からないんだけど」


 悪魔の病気か?


「悪魔の病気なんて聞いたことがない。氷涼祭と何か関係してるのかも」


 ……氷涼祭は今年初めてじゃないだろ?今までこんなことなかったじゃないか。


「そうなのよ。だから……」

「その悪魔から離れなさい‼︎」


 ネモと俺との会話を、割って入った聞きなれない女の叫び声が遮った。


 声のした方を見ると、少し離れた場所に黒い服の女がこちらに背を向けて立っていた。


 折からの銀氷は降る量を増し、辺り一面地表近くまでその輝きが舞い降りる。

 降りしきる銀の結晶は地表に近づくにつれその均衡を崩し冷たい光の粒子に解けて海からの風に舞う。


 その微細な輝きの中、その女は海に向かい霊園の崖縁に立つ。


 幽霊?いや、風船を持っていない。


 代わりにヴァイオリンとその弓を持つ黒いコンサートドレスの一人の若い娘。


「もう大丈夫よ七篠権兵衛」


 振り返りながら彼女はヴァイオリンを構えた。


「あなたは、私が護ってあげる」


 途端に辺りを満たす悲しいメロディ。

 銀氷は震え、その飛沫の煌めきは彼女を中心に渦を巻く。

 そして俺は、決して一生忘れないだろう凄まじい悲鳴を聴いた。


 生きたまま引きちぎられつつある大きな動物の断末魔のような、呻きを含んだ低く響き渡る悲鳴。


 ネモだ。


 どうした⁉︎ ネモ!


「お願い……どうか……」

 彼女は両手で顔を覆って倒れるようにしゃがみ込んだ。

「見ないで」


 切れ切れにそう言う彼女に異変が起きた。

 彼女の手の甲が、指が、腕が、見る見る瑞々しさを失い、艶のないくすんだ肌になって萎れていく。

 新月の夜空のような濃紺の髪も、水分を失って白く縮れ始めた。


 ネモ……!

 あいつか!あのヴァイオリン弾き‼︎


 咄嗟に腰の後ろにやった手はそこにはない銃を当然掴めずに虚しく空を掻いた。

 ならば、とヴァイオリン弾き目掛けて駆け出そうとした時、俺にも異変が起きた。

 唐突にして猛烈な眠気。


 くっ!これは……‼︎


 気が付けば奴のメロディは柔らかな小夜曲へ変わっている。


「お眠りなさい、七篠権兵衛」


 ヴァイオリンを一層激しく掻き鳴らしながら、その女は言った。


「目覚めたらきっとあなたは本当の自分を取り戻しているわ」


 遠ざかる意識と戦う俺の隣で、ネモが小さく呻く。

 次の瞬間、彼女の身体は小さな破片へ分解し始めた。

 いや。破片じゃない。


 音符だ。


 大小様々な、また多種多様な音符がネモから舞い上がり奴のヴァイオリンに吸い込まれて行く。

 ネモはどんどん身体を失い、小さくなって行った。


 ネモ!くそっ……‼︎

「七篠権兵衛、探偵長」


 首から上、鼻から下だけの一部の彼女が言う。


「好き……」


 彼女の紅い唇は、少し笑って八分音符に変わった。


 遠ざかるその音符に右手を伸ばした俺の視界は急速にぼやけ、世界は回転し、そして俺はーー音の無い深い闇に包まれた。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 俺の名前は七篠権兵衛。

 この空想の街の剥がれた名前の捜索人だ。

 氷涼祭。おやっさんの墓参りに来た俺とネモは、正体不明の女ヴァイオリ二ストと遭遇する。

 彼女の掻き鳴らす曲にネモは音符へと分解され、俺は力を奪われて意識を失う。

 誰なんだこいつは⁉︎……ネモ……!



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 薬っぽい匂い。


 糊の効いたシーツの感触。

 目を開けると白塗りの天井。

 賃貸事務所の二階じゃない。


「あ、気がつきましたか」


 茶髪の小柄な看護婦には見憶えがある。

 第一東西病院。

「だいいちひがしにしびょういん」と読むその病院名は捻くれた医院長のセンスの賜物だ。


 ……看護婦さん。

「はい」


 ドクターから聞いたよ。なんか俺を応援してくれてるんだってな。

「え⁉︎ あ、えーと……はい」


 知ってるかもしれないが、俺は七篠権兵衛。あんた、名前は?

「ヒカリです。紫林路ヒカリ」


 シリンジさん、か。

 仕事柄、また世話になると思う。

 面倒を掛けると思うが……宜しくな、シリンジさん。

「も、勿論です。それが私の……私たちの仕事ですから」


「うちの看護婦を僕の許可なしに口説かないでくれるかな?」

 ちっ。


 ……ん?誰か今舌打ちしなかったか?


 ドクターと入れ替わりに紫林路看護婦はそそくさと部屋を出て行った。


「おはよう七篠君。気分はどうだい?」

 おはようドクター。

 あんたのことは好きじゃないが、なんだかあんたの身が心配だ。


「なんのことだい?まあいい。検査の結果だが、今回も大したことないね」

 カルテを見ながらドクターがつまらなそうに言う。

「エア気絶じゃあるまいね?」


 あのな。そんなことして俺になんのメリットがあるんだ?

「僕に逢えるじゃないか」


 ……患者が病んだらドクターに診てもらうわけだが、病んだドクターは誰に診せればいい?


「探偵長!」

 ポニテをぶんぶん回しながらそこにアズサが現れた。

「これを!」


 これは……百段階段のおばばからの小包?

「おばばさんから連絡があって。探偵長に必要だからすぐ持ってけ、と」


 すぐ必要?そういやなんで俺は気絶を……?

 思い出した!こんなことしてる場合じゃねえ!ネモが!ヴァイオリン女が!!


 急いで包みを開ける。

 中には三発の弾丸とバースデーカードが入っていた。

 バースデーカードには祝いの言葉の代わりに短いメッセージ。


『二発を入れて、一発を撃て』


 ……成る程な。流石はおばば。なんでもお見通しか。


「これと一緒に、と」

 アズサが帆布のトートバッグから取り出したのは皮のホルスターに収まった一丁の拳銃だった。

 おやっさんの遺品。

 世界に一つしかない改造銃「スティング・ビー」。


 ……ありがとよアズサ。おばば。看護婦に黒猫悪魔に、どうも俺は女に助けられる星を戴いてるみたいだな。

 助けられてばかりじゃなく、俺も助けてやらないとな。


 俺みたいなろくでなしを、好きだなんて言う物好きの女は特に。

 待ってろよ。ネモ。

 七篠という名の男は、決して仲間を見捨てない。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 私の名前は九条八千代(くじょうやちよ)。


 自分で言うのもなんだけど新進気鋭のヴァイオリン奏者だ。

 今回は空想の街、なんて変わった所にコンサートに来た。

 でもコンサートそのものが目的じゃない。

 私の本当の目的は、最近手に入れた悪魔祓いのヴァイオリン「ヴィソラビバリウス」である人物に取り憑いた悪魔を祓い、その人物を悪魔から救うことだ。

 実は、縁浅からぬその人物には以前悪魔の魔法から助けて貰った恩がある。

 義理の兄、と言えなくもない微妙な距離のその人物に、恩を受けたままにしておくのも居心地のよいものではなく、その男の知人の協力を得て、今回の悪魔退治とあいなった。

 計画は無事完了。

 私は見事に美女に化けた悪魔をヴァイオリンに封印。

 件の名前捜索人を救った。


 荷造りをしてホテルを出る。


 空想の街から『あっちの世界』へ出る列車は本数が少ない。

 私は時計を確認して足早に駅に向かう。風船だらけの街。

 それはふとひと気の途絶えた路地に差し掛かった時だった。


「動くな。そのままだ」


 背後から銃を突きつけられた私は身を固くした。


 連れて来られたのは古びた教会の中庭だった。

 壁は朽ち、雑草は伸び放題に伸び、長く人の手が入っていないのは一目瞭然だ。

 背後の人物に突き飛ばされた私は、つんのめりながら数歩歩いて怒りとともに振り返った。


 七篠……権兵衛! なんのつもり?私はあなたを助けたのよ。

「……ネモを返せ」


 銃を私に向けたまま、不思議の街の名前捜索人は信じられないことを言う。


 私は一旦その要求に従う振りをすることにした。


 ……分かったわ。ヴァイオリンを出すけど、撃たないでくれる?

 彼は黙ったまま微動だにしない。

 掛かった。


 私はヴィソラビバリウスと弓を取り出す。

 手間暇かけてようやく封印した悪魔をむざむざ解き放ったり誰がするものか。

 私が弾くのは静かなインサートで始まる深い眠りのための小夜曲。

 この男を再び眠らせ、この街を出てさえしまえばもう追ってはこれまい。


「悪魔にも色々いる」


 銃を構えた姿勢のまま、スーツに帽子の男は独り言のように呟いた。


「人間がそうであるように。人の弱みにつけ込んで食い物にする奴。人間を好きになって一緒に暮らす奴。楽器の振りをして……他の悪魔を喰う奴」


 何を言ってるんだこの男は。


 早く眠ってしまえ。私は眠りのソナタに一層力を込めた。


「メイクと衣装で見違えたがどこか見憶えがあると思ったぜ。九条は母方の姓だな。離婚前の姓は七篠。あんたは七篠尽蜂の実の娘か」


 おかしい。

 私のヴァイオリンは眠りの魔力をあいつの耳に注ぎ続けている筈。


「九条八千代。あんたは俺が護ってやる」

 そんな馬鹿な!なんで立っていられるの?

「音楽家に取り憑く同族喰いの悪魔からな!」


 不思議と澄んだ銃声が響き渡る。

 空に幾百、幾千の風船が一斉に舞い上がる。

 そして私は、一生忘れないだろう凄まじい悲鳴を聴いた。

 私のヴィソラビバリウスは弾丸を受け、その身を捩りながらギギギギ、と古い工場機械の軋みのような不協和音を奏でた。


 な、なに?このヴァイオリンが……ヴィソラビバリウスが、悪魔?


 私はゾッとして、思わずヴァイオリンを放り投げた。


 七篠権兵衛は銃をしまうと、地面でのたうつヴァイオリンを足で踏みつけて叫んだ。

「ネモ、聞こえるか?汝が名付けの親、七篠権兵衛が命ずる……真の名前もて真の姿を取り戻せ。目覚めよ!グレモリー・グラシャラバラス‼」


『Yes……Master……』


 地の底から響くような誰かの返事。


 次の瞬間、私のヴァイオリンだったものは、その弾丸の傷口から黒い何かを激しく吹き出した。

 噴水のように勢いを増すそれは、よく見れば数億、数十億の音符で、七篠権兵衛の隣で纏まると塊になってムクムクと大きくなっていった。


「銀の弾丸だけが、悪魔に穴を穿つ」

 七篠権兵衛は両の耳の穴から何かを取り出してこちらに示した。


「そして銀の耳栓だけが、悪魔の囁きと歌を遮る」

 それは二発の銀色に輝く弾丸だった。


 くっ……七篠……権兵衛!

「さんを付けろよ。馴れ馴れしいぜ」


 あいつの隣の黒い塊は、いつの間にか象ほどの大きさに成長しており、その様相を目まぐるしく変えつつあった。

 内臓のような濡れた赤黒い肉。棘と触手に覆われた体表。

 そして塊のそこかしこに現れる幾つも瞑られたままの眼、眼、眼、眼、眼!

 理解を超えた現象を前に、私はただ呆然と見つめることしかできない。

 次の瞬間、その塊の眼という眼が一斉に開いた。

 充血した数十の眼は一瞬キョロキョロと何かを探すように蠢く。

 その内の一つが私を捉える。

 すると全ての眼が私を凝視した。

 そして悦びに微笑むように細められた。


 この世ならざる者に縁を持ってしまったことへの後悔と現実として眼の前にある死への恐怖とに押し潰されるように、私は気を失った。




 ーーーーーーーーーーーーーーー




 俺の名前は七篠権兵衛。

 この空想の街で剥がれた名前を追う捜索人だ。

 謎のヴァイオリン弾きに攫われたネモをなんとか救い出した俺。

 ネモは真の姿を解放し、その名状し難い様子に件の女ヴァイオリン弾きは気絶した。

 これにて一件落着、の筈なのだがーー。



 ーーーーーーーーーーーーーーー




 薬っぽい匂い。

 糊の効いたシーツの感触。

 目を開けると白塗りの天井。賃貸事務所の二階じゃない。


「あ、気がつきましたか」


 茶髪の小柄な看護婦には見憶えがある。第一東西病院。

「だいいちひがしにしびょういん」と読むその病院名は捻くれた医院長のセンスの賜物だ。


 えーと、シリンジさん。

「はい。七篠……さん」


 俺はどうやってここへ?

「女の子が救急車を呼んだんですよ。古い教会であなたが倒れてる、と」


 ???

 えーと、確かネモを助けだして……


 俺はぼんやりする頭で、必死にその時何があったか思い出そうとした。



 思い出した。



 真の姿になったネモが、あの女ヴァイオリン弾きを八つ裂きにしようとして、それを止めようとしたんだ。


 で、怒りの収まらないネモに半殺しにされたのか。

 ……通報した女の子ってのは誰だ?


 シリンジさん、俺と一緒に誰か担ぎこまれなかったか?

「ああ、ヴァイオリニストの九条八千代さんですよね?落ちてたヴァイオリンと一緒に隣の病室に」


 ……じゃあ違うか。あ、そういやネモは?


「おはよう七篠君。気分はどうだい?」

 ドクター。あんた押すとそのセリフが出るボタンでも付いてるのか?


 シリンジ看護婦はドクターと入れ替わりに出て行った。


「面白い着眼点だね。お年寄りに『同意します』ボタンが付いていたら、親族も僕らもグッと楽になるんだけど」

 サラッと怖いっぽいこと言うな。


「今回はそこかしこ酷い。けどギリギリで重症は免れてる」


 ドクターはクリップボードのカルテに視線を落とす。


「擦り傷、切り傷、打ち身に捻挫、動悸、息切れ、目眩、物忘れ、加齢、弱視、乱視、水虫、陰菌、えーとそれから……」

 待て。「捻挫」から先は覚えがない。


「あーゴメン。重ねて持って来た下の階のおじいちゃんのカルテだった」

 ワザとだろ!と突っ込んだら負けか?


「まあ入院までは必要ないね。痛み止めを出しとこう。三日したら包帯を変えにおいで。例によって代金は領収済み。君のグッズはロッカーだ」

 へいへい。


「あ、そういえば今日は君の誕生日だね?」

 正確には拾得日だがな。


「これはささやかだけど僕からだ」

 ……なんだこりゃ。


「新しいだろう?入院の割引き回数券がある病院なんて聞いたことがない」

 24回も入院しろってのか?


「有効期限は年末までだから、お早めに」

 しかも年内に?


「君ならありえる」

 ぐ……そんなわけないとも言えないのが殊更悔しい。


「好きなだけ休んで、勝手に帰っていいよ。あ、そうそう。7月から病院食をリニューアルしたんだ。食べて行くかい?」

 遠慮する。美味くなってるイメージが湧かない。


「残念。じゃ、事務所の方に送っとくね」

 いらんっつってんだろ分からん奴だな。


「お大事に」


 ドクターは出て行った。

 なんかこう……もっとまともな医者に掛かりたいぜ。

 俺が煙草を吸おうとポケットを探っていると。

「院内禁煙よ」

 十歳くらいの髪の長い女の子がベッドの下からひょっこり顔を出した。


 ん?嬢ちゃんどうした?パパママとはぐれたか?


 女の子はベッド下から抜け出すと憮然とした表情で腕を組んで俺を睨んだ。

 その頭には猫耳の意匠のカチューシャ。


 あ!お前、まさか……!

「魔力の多くを消化されちゃったのよ。暫くは子猫か小娘にしかなれない」

 子ネモは苛立たしげにそう言った。


「助けてくれたのにはお礼をいうわ。ありがとう。けれど願わくばもう少し早く助けて頂きたかったわ探偵長殿」

 俺は笑いを堪えるのに必死だった。


 どんなに高飛車な台詞を吐いても、どうみても背伸びしている小学生にしか見えない。

 あの、ネモが。

 幼女。

 でも。偉そう。


 くっ……くくくくっっ。


「何が可笑しいの?」

 可笑しくないさ。なんにも。くくっ。


「大体なんで止めたの⁉︎ あいつは許せない。一つ。あいつは私を食べた。二つあいつのせいで私は真の姿にならざるを得なくなった。そして三つ。何より許せないのは……」

 ネモは眼を細めて怒りを現にした。


「私を年老いた姿にしたこと。あなたの見てる前で」

 くっ……まあいいじゃないか。その分今は十二分に若い……くくくくっ……姿に……。


「百歩譲って女は生かしとくにしてもヴィソラの小僧は殺させなさいよ」

 それをしたら、あの娘と同じになる。

 あの娘に頼まれたならそうしようぜ。だが、そうじゃないうちはアレはあの娘のヴァイオリンで、パートナーだ。

 ゴチャゴチャした経緯があるにしてもな。


「……すっきりしないわ」

 こうして生きてるだけでラッキーと思え。今回は本当にヤバかったんだ。



「ナナゴン殿下ー!」

 アズサ。世界の果ての小国のアホ王子みたいな呼び方はやめろ。


 アズサは何か大きな包みを持参して病室に現れた。


「お誕生日おめでとうございます!殿下!」

 お前の家では誕生日だけ議会民主主義から王政に変わるのか?


「不肖、私、橘アズサ。バースデーケーキなど持参いたしました」


 ……唐辛子は絡んでないだろうな?

「やですよ殿下。いかな唐辛子リスペクトの我が家でもケーキは甘く焼きます。あら?所でこの可愛いお嬢さんは?」


 俺が口を開く前にネモが答える。

「七篠権兵衛の隠し子よ」


 病室のドアの向こうで、何かがガチャンと床に落ちる音がした。


 こら、お前……。

「母は昔の依頼人。関係は一夜限りだった。母はこの人には内緒で私を産んだの」


 アズサは手のケーキの包みを慎重にサイドボードに置いた。

 そして変わりに置いたあった花瓶を手に取ると、それをガチャンと床に落とした。


 あーあ……。

「嘘だと言ってください!殿下!」

 嘘だ。よく見ろ。あれはネモだ。


「じー……っっ」

 アズサ。それ口に出すセリフじゃなくないか?

「ネモ……さん?」

「じろじろ見るんじゃないわよ」


 アズサはくる!と後ろを向くと輪郭がぼやけるくらい激しく振動し始めた。

 笑いを堪えてる……のか?


「七篠権兵衛!」

 今度は誰だ?


「今回は私の負けよ。それは認めます」

 現れたのは……九条八千代。元気そうだな。


「だけど次に勝つのは私。あなた以上の悪魔使いになって、あなたの使い魔を地獄に逆落としにしてやるわ!それとお誕生日おめでとう‼︎」

 なんか色々おかしいぞ。何がどうなったらそうなる?


「……宣戦布告よ。殺していい?」

 いいわけないだろネモ。眼を光らすの禁止な。


「とにかく!みなさんでケーキ食べましょうケーキ!」

 今だ時折輪郭をぼやかしながら、アズサはケーキを切り分け、一方的にその場の全員に配り始めた。

「それでは皆様、ご唱和ください。ハッピーバースデー!七篠権兵衛!」


 ……さんを付けろよ。馴れ馴れしいぜ。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



 俺の名前は七篠権兵衛(ななしのごんべえ)。

 この街じゃちょっとは知られた「名前捜索人」だ。

 探偵のようなものと考えてくれればいい。

 最近ではネームハンター、なんて横文字で呼ぶ奴もいる。


「にゃー」


 ……分かってるよ。


 こいつは相棒の黒猫。

 名前はネモ。

 色々あって俺はこいつの言葉が解る。

 こいつ、見た目通りの只の猫じゃねえんだ。


 俺の仕事は失くした名前を探すこと。

 この街じゃ、何時の頃からか名前が人や物から抜け出してどこかに散歩するようになっちまった。


 俺は憐れな依頼人の失くした名前を見つけ出して、元通り人に名乗れるようにしてやるってわけさ。


【カランコロンカラン♬】


 さぁて仕事か。


 今日も危険でクールな一日が両手拡げてウィンクしながら俺を迎えに来たぜ。



 ーーーーーーーーーーーーーーー



『ごめん。上手く行かなかったよ』

 女とヴィソラビバリウスは?死んだのですか?


『いや。なんか最後は一緒にケーキ食べてたなぁ』

 ……そうですか。フフフ。


『笑ってるの?悪魔女は仕留め損なったんだよ?』

 そう簡単に海老で鯛が釣れるとは考えていませんよ。それより私の仮説を裏付ける面白い結果でした。


『仮説?』

 奴の……七篠権兵衛の強さの秘密です。次回は、そこを切り崩す所から始めましょう。





 あなたの「記憶」の力と、私のこの「死の翼」の力でね……。








 ネームハンター

 〜 The silver ice Étude 〜


 〜〜 f i n 〜〜

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ネームハンター4 〜 The silver ice Étude 〜 木船田ヒロマル @hiromaru712

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