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不思議な事にそれから午後の授業が終わる数時間、天來美心の部活動勧誘と言う妨害も無く、スムーズに放課後のチャイムを聴くことになった。不思議と言えば不思議では無く、別段普通の事なのだけれど。なにせ二ヶ月にも及ぶ徹底的に執拗なストーキングぶりには賞賛に値するものがあったので、僕としてはこの普通が普通に不思議な事柄であった。
もう一つ、不思議な事と言えば不自然に紅く染まるこの空模様だ。まるで赤と黒を混ぜたかの様な不気味で無気味な、それでいて何処か心を奪われる美しい空。
僕は教室の窓からそんな芸術的とも言える空を見上げた。そこで更に引っ掛かったのは、校庭に誰も居ないと言う事だ。
「あれ?そんな眠ってたかな?」
僕は首を傾げ、少し窓から身を乗り出しながら当たりを見渡す。校庭で部活動に勤しんでいるであろう、運動部を探す為だ。しかし、幾ら見渡しても其処には人っ子一人蟻一匹見当たらない。空が紅いとはいえ、この薄暗さだったので、てっきり放課後に少し居眠りしてしまったのだろう程度にしか時間の感覚を捉えて居なかった僕はこの人気の無さに不安を覚えた。明らかに静まり返り、明確に静寂。
そうなってくるとさっき聞こえた放課後のチャイムの音は何を知らせるチャイムだったのだろうか?学校のチャイムとはその授業時間と休憩時間、始業と終業を知らせるものであり、さっき僕が聞いたチャイムはてっきり終業の、退校を促すチャイムだとばかり思っていたのだけれど。こうなって見ればこの静かな誰もいない学園にチャイムが鳴り響く意味も意図して分からない。
美しいとさえ感じていたこの空の赤が不愉快な程恐ろしくなってくる。こんなものは只の感覚の錯覚、有り得ない事は有り得ない。こんな空は、嘘つきだ。そう思っているのに、心が丸裸にされ素手で撫でられた様にぞくぞくとする。
こんなのは赤頭赤尾高等学園に編入して来るより以前、僕が虚言者だ嘘つきだと言われていた頃みたいだ。あの頃の心持ちはいつもこんな感じだっただろうか。懐かしさで少し心を冷静に保ちながら、かと言って昔みたいにそれを言葉に出す様な愚かな真似はしない。そこまで僕は懐かしさにどっぷり浸り返った訳じゃあない。
「さてと…どうしようか。」
僕は静まり返った校庭と同じ様に、いやそれ以上にゆっくりと音を立てない様に教室の窓を閉め鍵を掛けた。きっと僕がこの学園に残った最後の下校者だろう。それなら最後の下校者らしく、戸締りはしっかりしないといけない。明日の朝、戸締りの確認を行わなかったクラス委員長が怒られても其れは可哀想で無関係な話だ。
とりあえずの戸締りを終えた僕は、他の窓も確認しつつ自分の荷物を持って教室を出た。他の教室を見に行く必要性も無いだろう。きっと何処も同じ。僕のいた僕の教室と同じ様に、空は赤く、戸締りはされていて、カーテンは一枚も無く、机と椅子は天井へ逆さまにくっつき、時計は逆回りに、チョークは黒くなっているに違いない。
これだから、これだから僕は虚言者なのだ。
嫌になる位、妄言癖な虚言癖。
そんな事を今更自覚した所でどうしろと言うのだ全く。僕は神や仏以前に自分が見たものさえ信じられないと言うのに。
何にせよ家に帰ろう、今すぐに。そして寝よう、寝て忘れよう。
早々と廊下を歩き、高等部の校舎玄関へと向かう。早々と、早々に。
「……………………。」
可笑しい。歩けど歩けど階段が見当たらない。寝惚けている僕が道を間違えているなんて事は勿論無い。幾ら僕でもそんな寝惚けた呆けはかまさない。ましてや可笑しな校舎内で一人なのだ。そんな無駄な事をしている場合では無い。
じゃあ何故か?
この学園が幾ら万人を受け入れる広い敷地と数々の建物を所有しているからと言っても、この高等部に関してだけではなく、それぞれの建物や校舎は常識の範囲内の大きさである。つまりこの高等部の校舎面積も普通の高校と同じくらい、と言うわけだ。
じゃあ何故か?
それなのに歩けど歩けど階段が現れないと言うのは恐怖を通り越して疲労感を感じる。疲労感を感じると言うのは言い得て妙だが感を感じる程に僕は疲れていた。疲労困憊。僕は理系でも体育会系でも無く文系なのだ。そんなに何キロも歩ける訳が無い。体力が致命的に皆無なのだ。
階段が現れないのなら打つ手は無い。下れないし上がれない。降りられないし昇れない。ただ平坦な廊下を馬鹿みたいに真っ直ぐ進むしかない。心が荒みそうな選択肢だった。
永遠と続く教室を、このまま僕は二年生の廊下を歩き続けなければいけないのか…喉が渇いたな。せめて食堂のある一階の廊下が良かったなー、などと呑気な事を考える余裕はまだあった。あっただけで何の役にも立たないが。
タッタッタッタッ──────
そんな今後の役にも立たなさそうな事に思考を巡らせながらぼうっと歩いていた僕の後ろから何やら誰かが走って来るような音が聞こえた。
誰かが、とは回りくどい遠回しな言い方になったが
「てんちゃん先輩ーーー!!!」
そう、天來美心その子だった。
これ程までに嬉しくない生存者を見つけたのは初めてだった。足で纏いとまでは決して言わないが、この状況で天來に出会った所で何か解決の糸口が見つかるとも思えないような。と言うか何故天來はここに居るのだろうか?そんな僕の疑問を他所に、息を整え終えた天來美心は高らかに叫んだ。
「もう!探したよ!てんちゃん先輩!」
空が赤い事も教室がポルターガイスト現象な事も廊下が永遠と刹那的に続いている事も、全て忘れさってしまうような輝く笑顔で、彼女は僕の事を迷子扱いした。
「こんな所で何しているんだ?天來。」
この場合の"こんな所"とは一年生の天來美心がなぜ二年生の教室の廊下に居るのかと言う、ストーキング娘には今や聞くまでもない事なのだが。僕は一様毎回聞くようにしている。真実や事実が僕の思うものと違った場合、その誤解や誤差は取り返しのつかない事態に発展する事もあるからだ。まぁこの天來美心に関してはいつも僕の思う解答と寸分違わぬ答えなのだけれど。とりあえず答え合わせはしておこうか。
「美心は高等部の玄関でてんちゃん先輩を待ってたんだ!」
「正解。」
「でも、ついつい寝ちゃって!」
「正解。」
「それで!起きたらもう暗かった?赤暗かったから、てんちゃん先輩が帰っちゃったのか確認にしに走って来た!」
「せいか…ん?」
「てんちゃん先輩、部活しよーよー!」
「天來、もう一回。」
「てんちゃん先輩!部活しよーよー!」
「いや流れ的に今そこの復唱じゃなかったろ。」
今、天來は確認しに走って来たと言ったけれど、どうやって?この地平線の様な真っ直ぐて曇淀みの無い廊下を玄関口からどうやって走って来たのか。此処は二年生の教室であり、四階建ての三階に位置する。玄関口からはどうあっても階段を利用しない事には辿り着けないはず。余談としてこの校舎にはエレベーターも存在するが、四階に直結していて、三年生しか乗ることが出来ない。仮に天來がエレベーターで四階まで行き、その後三階に降りてきたとしても、それは階段を使わなければならない。上がる事も下りる事も出来ないこの三階で、四階からだけ下りられる階段があるとは到底思えない。だとしたら長時間歩き続けた僕が見ていないのはおかしな話なのだ。
未だに部活部活と駄々を捏ねる天來美心に僕は目線を落とし、階段は有るのかと聞いた。すると天來は不思議そうに、それでいて何故かとても嬉しそうに微笑むと
「あるよ!」
と端的に言った。
紅く染まる空を背景に、その恍惚とした笑顔はまさに悪魔的であり、魅力的だった。階段までの案内を頼むと、意外や意外。すんなり二つ返事で了承し案内を始めてくれた。てっきり僕は「案内して欲しければ部活に入れ!」だの何だの愚痴口と言われると思ったのだが拍子抜けだった。もしかしたら天來美心はいい奴なのかも知れない、なんて一瞬思ったりもしたが、これが俗に言う吊り橋効果的な何かかも知れないと考え、思いとどまった。
僕はふと天來美心が持っている部活動設立申請書に目をやる。これ程までに天來が心酔する部活、設立したい部活。僕とは無縁の部活。見れば天來は満面の笑みで、新しい玩具を買って貰った子供の様に、初恋の実った思春期の様に、希望溢れる成長期の様に、爛々と足を進めていた。
それもそうだろう、この状況。
天來美心からすれば願ったり叶ったり。
「まさかこんな状況でてんちゃん先輩と二人きりだなんて…何だかエロゲ的な展開なので美心は転んじゃったりしてみようか!」
「そんなご都合主義に乗っかって僕がお前に乗っかると思うなよ!」
「乗るだなんて卑猥な!」
「まんまと乗せられた!?」
そんな下らないことを言っている間に、どうやら階段に着いたのか、天來は美心はここから来たんだよ!と言った。僕は"ここ"と言われた場所を見た。目わ凝らした。案の定と言うべきか、思った通りと落胆すべきか。其処には只只続く二年生の教室がまたもや続いてるだけだった。
「整頓しようか、天來。」
「んーーー?」
天來は自身が階段だと言った教室を前に腕を組みながら唸った。
「いや、てんちゃん先輩。階段だよ?」
「んーーー?」
今度は僕が唸った。
僕には横続きにしか見えないこの二年生の教室がどうやら天來には階段に見えるらしい。明らかにどちらかの目の錯覚と言うわけでは無い。このレベルの目の錯覚を起こして居るのならそれはもう病院に行くべきだ。勿論、心の。いやまぁこんな事態に直面している事が既に、何らかの心の病を疑った方がいい。これは天來が、と言うより僕が病気なのかも知れない。その兆候は十二分に有り得る。そう言った病院に行くのは初めてでは無いのだ。きっと今回もそう…そうなんだろう。こうして僕の虚言ページが更新されていくのだ。
「天來、これ下りれる?」
僕はどうせそうなんだろうと思い、天來美心に階段を下りる様に言った。天來は、天來美心は横並びに続いている二年生の教室の入口に消えていった。否、僕には消えていった様に見えた。消失感も劣等感も疎外感さえもなく、僕は"あーあ"と落胆した。これが現実で真実なら、僕はやっぱり昔と何ら変わりない。あの頃の嘘つきな僕と。虚言者になった僕と。編入した意味も無く、意図を汲み取られる事も無く、何かを成し得る前に組み立てる前に拾う前に残す前に、終わった。
「やっぱり!」
僕の心が終わりを迎えるであろうその一瞬、天來美心がその教室の続きから戻ってきた。天來美心。美心か…今思えば彼女に合ったとても風光明媚な名前だ。
「やっぱり可笑しいね!」
天來美心はケラケラ笑いながら僕の腰当たりを軽く叩いた。階段を上り下りしただけでこんなに笑う人を僕は見た事が無い。それとも僕が階段を下りられず右往左往している姿が可笑しいのか…そう思った僕の耳に届いた天來の言葉はそれは衝撃的な現実だった。
「この階建!下りても下りても一階に辿り着かないんだよっ!はははは!」
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