第六章 たどり着けない竹生島
第六章 たどり着けない竹生島
そして、あっという間に時間は過ぎて、とうとう習いに行く日がやってきた。
もーさんを杉三の家に預けて、尋一は電車に乗った。
東京の電車に比べると、本数が少ないから、一本逃したら、大遅刻になる。これだけでも緊張する要素である。
幸い、富士駅で電車を逃すことはなかった。電車は、彼が乗り込むとすぐ走り出した。
富士をでてしばらくは、東京に比べると乗る人の少ない駅が多かったが、しばらく走るとある程度人が乗り降りしてきた。
静岡駅は、自分の住んでいた、最寄りの八王子駅に比べると小さいが、それでも人通りは多かった。
そのカルチャーセンターがある場所は、駅からバスで行くのだが、なんともバスは、一時間に一本しかなく、待つのにかなり時間がかかった。何人か同じバスに乗っている人はいたが、みな、紫の絽の着物姿の尋一を不思議そうというか、変な奴のように見た。中には、若い者が着物を着てどこへ行くんだと声をかけるお年寄りもいた。お箏を習いに行くというと、物好きだねえと言って笑われた。
結局、バスの終点まで乗った。そこから、また五分ほど歩いて、やっとカルチャーセンターのある、建物にたどり着いた。東京であれば、こういう建物は駅近くにある物だが、たぶん静岡だから、郊外にあっても平気なのだろう。ということはつまり、皆さん車を持っていて当たり前ということだ。車のない人間には逆にこうして不便を強いられる。都会と田舎の決定的な違いだった。
それにしても暑い。日差しが強い。着物を着ているからまだ直に日は当たらないが、皮膚を出した洋服であれば、じりじりとして痛いくらいである。
建物の中に入ったときは、汗びっしょりだった。それもそのはず、一番気温が高いと言われる時間だった。
受付に行くと、他の講座も行われているのか、いろんな楽器の音が聞こえてきた。その中にかすかに箏の音も聞こえる。
「こんにちは。電話された方ですよね。」
受付の中年女性が、彼に声をかけた。
「はい、八田先生は、、、?」
「ええ、今お稽古中です。もうすぐ終わると思いますので、こちらでお待ちください。」
見学させてもらいたかったが、それは無理そうだった。尋一は受付に促されて、目の前にある椅子に座った。
音のする方をよく聞いてみると、確かに箏の音がしているが、自分の知っている限りの古典箏曲ではない。生田流には存在しない古典箏曲なのだろう。声の出し方も少し違うようだし、一の絃をとる音も違っている。それは知らなかったことだ。少しばかりキーが高い。生田と山田では、こんなに違うのかと少し不安になってきた。
そのうち、箏の音がとまった。そして、前方のふすまがあいて、若い女性の生徒が一人出てきた。声をかけようと思ったがとてもそんなことに返答する余裕はなさそうだった。彼が、椅子から立ち上がって、彼女に軽く敬礼しても、彼女は気が付かないくらいひどく落ち込んでいた。結局、彼女は受付に礼を言って、そのまま帰って行ってしまった。受付のほうが大変でしたねえとねぎらったくらいだ。
「次の方どうぞいらしてください。」
受付に促されて、尋一は前方のふすまの方へ向かった。
「八田先生、新しい生徒さんです。」
「ああどうぞ。」
高齢の女性の声だった。カチコチに緊張して、尋一は受付と一緒に中へ入っていった。
八田絹代は、超高級なくり甲と呼ばれるランクの箏の前に、でんと座っていた。決して美人とはいいがたいが、やっぱり家元というか、最高権力者的な威圧感は十分持ち合わせていた。
「初めまして、森田尋一と言います。よろしくお願いします。」
畳の上に正座して、尋一は深々と座礼した。
「先生に、お稽古させてもらえますことをとても光栄に思います。つたない者ではありますけれども、古典箏曲を存分に学びたいという所存であります。どうぞ、厳しいご指導をよろしくお願いいたします。」
「何を持ってきたのかしら。」
つっけんどんに絹代はそういった。
「はい、つたない演奏ではありますが、竹生島という曲を持ってまいりました。千代田検校の。」
そう言って、尋一は持っていた風呂敷包みをほどいた。中には、一冊の和紙で作られた手描きの楽譜が入っていた。表紙にはしっかり「千代田検校、竹生島」と毛筆で書かれている。
「楽譜はどこから持ってきたの?」
「はい、偶然、インターネットで見つけて購入いたしたものでございます。」
正直に答えた。手描きの楽譜であるから、お箏屋さんにはぜったい販売されているものではなかったし、お箏屋さんでさえも、購入できないのは、良く聞かされてきた。
「弾いてごらんなさい。」
唐突に絹代はそういった。目の前に箏が一つ置かれていた。
「はい!」
尋一は座布団も用意することもなく、手早く箏柱を動かして調弦し、右手の拇、食指、中指に爪をはめた。爪皮の色は黒だった。基本的に生田流では黒が標準である。白い皮を使うのは米川派というところだけだ。だから、山田流でも黒い皮が標準だと思っていた。しかし、絹代は、黒い皮を見て失笑していた。
「一度、譜面を見ないで弾いてごらんなさい。でないと、本当の実力が。」
「わかりました!」
確かに、今でこそ楽譜を見て演奏することは多いが、昔の稽古では暗譜で当たり前だったことは知っている。それに関しては、しっかり練習してきたつもりだ。山田流の箏は、若干大きさが違っているように見えたが、一生懸命構え方を思い出して、恐る恐る手を乗せた。絹代は何も言わない。尋一は、これを肯定と受け取り、一つ息を吸い込むと、指を動かして、箏を弾き始めた。
「頃は弥生の半ばなれば、波もうららに海のおも、霞渡れる朝ぼらけ、静かに通る船の道、、、。」
歌も押し手も、テンポも練習してきたとおりだ。何も間違えていないはずだ。
「不思議やなこの島は、女人禁制と承りてありしが、、、。」
歌詞によると、竹生島は女人禁止制と言われておきながら、美しい女性がたくさんいるようなのだ。そして、彼女たちは、自分は人間ではないと言い、島の中心部にある城に主人公を連れて行った。
「翁も水中に入るかとみえしが、白波の立ち返り、、、。」
城にいるのは老人。彼は、この海つまり琵琶湖の支配者という。そして、空に素晴らしい音楽が聞こえてきて、少女たちが踊りを踊ってもてなす。そうすると、波風が立って、巨大な龍も現れる。こんな景色は、日常生活では絶対に見られない。
「かのまれ人にささぐる景色、ありがたかりける奇特かな。」
ここを歌い終わると曲は終わる。主人公はどうなったかは歌われないが、たぶんこのようなすごい景色を見てしまえば、二度と日常に帰ろうとは思わないだろう。思えば、竹生島と陸上との間から、様々な時代の船の破片などが大量に出土しているという。理由は諸説あり不詳と言われるが、たぶんきっと、竹生島に行こうとした勇敢な人たちが、多数沈没しているんだろうなと勝手に解釈している。そうでなければ、弁財天のいる信仰の島とか、この歌のような素晴らしい景色があるといわれることは、まずなかったに違いない。
弾き終わると汗びっしょりだ。まるで体中の水分が全部出て行ってしまったようだった。顔を拭くこともなく、手を箏から離した。
「ひどいものね!」
不意にそういう声が聞こえてきて、はっと我に返った。
「あなた、どこでお箏習ってたの?」
「はい?」
「ハイじゃなくて、質問に答えなさい。どこか社中にでも入ってたの?」
「あ、ああ、あの、沢井にはいって、」
正直に答えを出すと、絹代は、あきれた顔をした。と、同時に怒りの気持ちにもなったようだ。
「沢井?一番敵対すべき派の人がなんでのこのことこっちに来るのよ。まさか、山田流の様子を探ろうとでも?」
「そんなつもりはありません。確かに沢井にいて、師範免許まで持っていますが、当の昔に脱退して、現在はどこにも所属してはいないんです。特に山田流を潰そうとかそういう気持ちは毛頭ないです。本当に、偽りも何もなく、」
「うるさい!沢井にいたというだけでも、そういうことになるのよ。そんなことも知らないで、うちの門をたたくなんて、虫が良すぎるのもほどがある。どうせ、沢井にいた時、山田流なんて、悪い流派だから潰して来いとかそういう事をさんざん聞かされて、その使いとしてこっちに来たのは、百も承知よ。悪いけど、その手に乗るほど、私は馬鹿じゃないわ。もうちょっと、自分の立場をしっかり考えてから来るべきだったわね!」
「そんなつもりはありません!僕は、沢井のやり方も、曲想も全く合致しなかったから、脱退してきたんです!」
「言い訳したってだめよ!あんたたちのような、汚い音でガチャガチャとお箏を扱うような派閥の人間に、竹生島を弾く資格なんかないわ!出て行きなさい!二度と顔も見たくない!」
「待ってください!それなら、どうやったら教えてくれるかだけでも、」
「それなら、しっかりとした楽譜を入手して、山田流の礼儀作法をしっかり身に着けてからにしなさいね!お箏をぶっ壊すような真似を平気でするような人間に、教える気なんて全くないわ。お箏だって、そういうことする人間に、竹生島を弾いてほしいなんて全く思わないでしょうよ。はっきり言って、沢井の人間は、お箏をダメにしているようなものよ!」
悔しかった。というより悲しかった。
夜になった。もーさんが窓辺に止まって、外をじっと見ている。
「遅いな、兄ちゃんは。」
杉三がそう語り掛けると、心配そうにちーちーと答えた。
「今頃、入門の申込書を書かせてもらっているところじゃないのか。」
疑わしそうに首をかしげる。そこへ、部屋のドアが開いて、蘭が入ってきた。
「はあ、やっと最後のお客さんが帰ったよ。あれ、もーさんまだいるのか。よかったさすがにぎーがーと声を出さないでくれて。」
「それだけは余分だが、もう真っ暗になってしまった。まだ帰ってこないのはちょっと、遅くないか?」
杉三の言葉に蘭は時計を見た。確かに、もう帰ってきてもいい時間だった。
「駅前のコンビニにでも寄っているんじゃないの?」
「それにしては長すぎる。もしかして、疲れ果ててしまって、もーさんを連れて帰るの、忘れてるんじゃないの?」
「それはないと思うけどね。ま、もうしばらく待ってみようぜ。」
しかし、夜の九時近くになっても帰ってこなかった。
「おい、やっぱりおかしいよ。もうすぐ電車も終わっちゃうよ。もしかしたら、電車が止まったとか?」
「いや、電車が止まったなら、テレビかなんかでやるだろう。って、杉ちゃんの家には、テレビがないのか。タブレットはおいてきちゃったしな、、、。ちょっと、スマートフォン鳴らしてみるか。」
蘭は、スマートフォンをとって、尋一の電話番号を回した。
「あれ、おかしいな。電池が切れたのかな。電源が入ってなくてかからない。」
もう一度かけてみたがやはり同じ。
「おい、蘭。水穂さんにでも電話して、電車が止まってないか聞いてみてくれ。」
「そ、そうだな。ちょっと電話してみるよ。」
改めて製鉄所に電話した。
「あ、水穂?あのさ、電車が止まっているとかそういうニュース流れてない?今ね、杉ちゃんの家なんだけど、テレビがなくて、わかんないんだよ。あ、そう。何もないのか。」
電話の奥で、水穂がこういっている。
「うん、正常に運航しているよ、東海道線も、新幹線も、身延線も、岳南電車も。それよりどうしたんだよ。」
「実はね、」
蘭は、困っていることを詳しく話した。
「大丈夫かな。」
「確かに心配だな。たぶん、もーさんそっちにいるんだったら、帰ってくると思うけど?」
「そうだよ。エサがなくなったらどうしよう。」
「これでは、電話で話すより、直にあったほうがいいかもしれないね。今から、教授と二人でお前のうちへ行くよ。冷蔵庫に葡萄があるから、それを持ってな。」
「悪いなあ。じゃあ、お願いしようかな。頼むぜ、水穂。」
「気にするな。そっちでしばらく待っていてくれ。」
「うん、頼む。」
「はいよ。」
電話を切った蘭も、非常に不安になってきた。近頃は、物騒な世の中になっていて、なんの面識もない人間を、平気で拉致して殺害するという事件もある。静岡県は田舎だというけれど、静岡よりもっと田舎の県でこういう事件が起きたこともあるので油断できない。
「もしかしたら、華岡さんを呼ばないといけないかもしれないね。」
杉三が発言したが、そういう事もあり得る時代だと蘭は思った。
人気のない富士駅では、特に人身事故があったという通知はなく、普通に下り列車がやってきた。ぽつりぽつり降りてくる乗客のなかに、バイオリンを持って小春が降りてきた。ちょうどこの日は、隣の沼津市で夜公演があり、近くなので泊まらずに帰ってきたのだ。
駅のカフェには少ししか人はいなかったが、一人の紫の着物を着た男性の後姿が見えた。
「お客さん、そろそろ店を閉めますよ。」
店長がそう言っても、彼は全く反応しない。
「ここで泣かれても困ります!」
しまいには語勢を強くして店長が言う。何かあったのかなと思い、小春はカフェに入ってみた。その髪型から、彼が誰なのかすぐにわかった。
「どうしたの?」
思わず声をかけてみる。
「いや、ずっとここにいて、もう閉店時刻なのに出ようとしませんから。」
店長が代わりに答えても、彼は何も反応しなかった。
「森田さん!」
彼の肩を叩いて、見るとやっと気が付いたらしくびくっと反応した。
「あ、、、。」
「もう閉店だって。」
「もう閉店?」
尋一はおうむ返しに答える。その言い方は、まるで現実感のない、呆然としたいい方だ。
「そうよ。帰らなきゃ。」
そう言われて尋一ははっとした。
「た、大変!もーさん忘れてた!」
どうやら、夜になったのにも気が付かなかったらしい。突如、椅子から立ち上がり、渋い顔をしているカフェの店長に長居をしすぎたことを丁重に陳謝して、コーヒーの料金を払い、急いで外へ出た。小春は、そのあまりの急ぎぶりに、またこの前のようになってしまわないか心配になって、
「あたしもついていくわ。」
と、彼の後をついていった。
杉三の家では、やってきた懍と水穂を含めて、華岡を呼び出したほうが良いかどうか、議論が行われていた。とりあえず、終電になっても帰ってこなかったら、華岡を呼んだほうがいいかもしれないと杉三たちが話していると、いきなりインターフォンがなって、
「杉三さん、すみません!遅くなってしまって!」
また汗を瀧のように流して、尋一が飛び込んできた。窓から外を眺めていたもーさんが、ばたばたと飛んで行って、彼の肩に止まった。
「どうしたんですか。こんなに遅くまで。」
懍の口調は厳しかった。
「あ、ごめんなさい。ちょっともめてしまったりして、、、。」
「そうだけど、連絡くらいよこせよ、僕らは警察に相談しようと思っていたんだから。」
蘭がちょっと不服そうに言った。
「まあ、帰ってきてくれたから、それで良しにしてあげよう。それより、すごい汗だな。風呂でも入って行ったら。」
杉三だけが喜んでいたが、他の人たちは、嫌そうな顔つきだ。それはそうだろう。電話すらつながらなかったんだから。それだけでも許すのは相当寛大でないとできない。
「で、どうだ?竹生島はうまく行った?」
杉三がそういうと、我慢できなくなったようで、見る見るうちに涙が流れてきた。
「なるほど。入門断られたか。やっぱりな。」
蘭はため息をついた。尋一は返事もしないで泣き続ける。
「なんていわれたんだ?」
杉三が、あえて優しく聞くと、
「沢井だったから。お箏をぶっ壊すような真似をする人に、教える気はないって。」
と返ってくる。
「ああ、沢井ですか。確かに古典を大事にする人にとっては、沢井は異質な集団に見えますね。多かれ少なかれそういう事はあると思いますけど、確かに傷つきますよね。」
水穂は、考え込むように言った。
「で、どうすれば入門させてもらえるの?」
「竹生島の正式な版を持ってくることと、白い爪皮にしなければ教えないと。」
「そうですか。そういわれたら、もう来るなと同じことを意味しますよね。あれは、」
「なんでだ?お箏屋で買ってくればいい話じゃないか。」
水穂の話をさえぎって杉三が言った。
「いや、杉ちゃん、どちらももう二度と手には入らないよ。竹生島の出版社は十年以上前に廃業したし、山田流の白い爪皮も生産されなくなっている。つまり、どこのお箏屋さんに行っても手に入らないんだ。それに、生田流の人であれば、白い皮を使うのは米川派のみで、沢井であれば使うことはまずないから、慣れないでしょう。」
「はい。水穂さんの言う通りです。そうなっていたなんて、全く知りませんでした。」
「まあ、山田流では、師範クラスになると、一昔前だったら、白い皮が当たり前で、黒なんて、よほどの初心者でなければ使いませんよね。今でこそ、白い皮が生産されないので、黒い皮の使用を認めている社中もありますけど、家元の八田先生であれば、そうはいかないと思います。」
「なんだ、誰でも同じというわけじゃないの?」
「そうだよ、杉ちゃん。爪の形とか、皮の色とかそういうものは、弟子の階級を示したり、やる気があるのかないのかをそれで判断することもあるんだから。黒い皮で家元の先生に習いに行ったら、確かに怒られるだろう。」
「そういう事も見られるのかあ。本当に厳しい社会だなあ。僕らの世界でも、手彫りの道具がもうすぐ博物館でしか見られなくなるというが、、、。」
蘭は、考え込むように言う。
「まあ、お前の世界よりもっと厳しいと思う。依然として、昔の道具に誇りをもって、というより持ちすぎて、今出している道具を全否定する人もいるからね。」
「そうか。それはまずありえない。もし、マシーンを否定したら、筋彫りができないので、仕方なくみんな持っている。」
「そうだろう。家元クラスの人は、それすら持たせないで、ひたすら昔にこだわり続けて、若い人に強要するから困るんだ。それでお箏はとっつきにくいという印象を与えるんだよね。」
「蘭も水穂さんも黙ってやってくれ。彼がかわいそうだ!」
不意に杉三がそういった。
「いいえ、杉三さん、これはまぎれもない事実ですので、しっかり認識しておかねばならないでしょう。彼も、古典箏曲を学びたいという意欲は素晴らしいのですが、その実情をもう少ししっかり把握しておかなかったところは、反省すべきだと思います。」
懍はつらい話を語り始めた。
「確かに、古典箏曲は素晴らしい物だと思いますし、それを彼のような若い人が学ぼうというのは、大いにほめるべきだとは思いますよ。しかしですね、古典をやる人にとって、沢井は、ある意味憎むべき相手なんですから、そのような態度をとられても当たり前だと思わないといけません。先ほど水穂さんが言った通り、古典箏曲の中核となってきた博信堂出版が廃業したのは、ある意味沢井の仕業です。山田流にとって大打撃だったのは、宮城道雄の出現と言われますけれども、」
「宮城、ああ、春の海か。」
小春は、玄関先で黙って聞いていたが思わずつぶやいた。杉三の家に着いたら、自分は帰ろうと思っていたが、心配だという気持ちが勝ってしまい、そこへ残っていたのだ。
「それだけではありません。現代になって、古典どころか、平調子でさえもくそくらえと主張する沢井の出現により、さらに多くの山田流の者が、沢井にとられていったということもまた事実です。ですから、山田の人は沢井のことを、自分たちを絶滅寸前まで追い込んだ元凶とみなしているでしょう。その中でも、八田絹代さんは、中心的な人物なのですから、彼女の下に、沢井の回し者が現れたら、怒りを感じても不思議はありません。そこをしっかり知っておかないと、生田流の者が、山田流に寝返るということは難しいでしょうね。その逆であれば非常に簡単なんですが。八田さんのような人は、生田流の誘惑に負けずに、山田流を守っているという強い自負心もありますから。そのためには、今の時代、ものすごく苦労をしたと思いますよ。怒りを感じられて、当たり前だったんです。」
「ひどいよ!彼が悪いことをしたわけじゃないでしょ!」
「杉三さん、事実は小説より奇なりです。もし、確かめたいようなら、富士の三曲演奏会に出向いてみたらどうですか。」
確かにそうかもしれないけれど、これはつらい事実だった。でも確かに懍の言うことも一理あった。
「だけど、そんなに。」
顔中を涙で濡らして、尋一が言う。
「僕、そんなに悪いことをしたのですか。例え脱退したとしても、沢井の人間が、絹代先生に、習いに行くということは、そんなにいけないことなんですか!」
「結論からすればそういう事です。伝統の世界というのはそういうことはつきものでもあります。」
懍の口調は厳しかった。
「事実、沢井の作品はどれを聞いても、山田流の人にとっては単にひどい曲としかみなされないでしょう。」
「先生は、直接かかわっているわけではないのに、どうしてそういう事を言えるんです!だったら、僕もいわせてもらいますけど、はじめから、沢井に入ろうとは思いませんでした。ほんとは、はじめから古典を習いたかったんですが、以前住んでいた八王子の近隣にあるお箏教室は、ほとんどが沢井の系列だったんです!もう、一生懸命調べたけど、ほとんどの先生方が、沢井の名を冠していて、それを付けていない先生を探すほうが大変でした!山田流の先生は、問い合わせても高齢で弟子が取れないとか、新規でならっても上達する見込みはないとかさんざん言われて、どこにも入門させてもらえなかったんです!それでもお箏をやりたかったから、仕方なく沢井に入らせてもらいました。先生がいうような、ひどい曲もさんざんやらされましたけど、生きた心地がしなかった。それでもいつかは、と思って、一生懸命やってきて、それだけが、それだけが、ずっと頼りだったのに!」
もーさんが、怒るな怒るなというように、ちーちーと声をあげて、その嘴を彼の顔に付けたが、効果はなかった。
「なんで、これほどまでに勉強したいと思っても、どんどんどんどん遠ざかってしまうんですか!そんなに、いけないことですか!」
「そこまでにして!あんまり激すると、また癲癇を起こすわよ!」
小春は、我慢できなくなって部屋に飛び込み、怒りと悲しみで震えている彼を抱きしめた。
「癲癇?」
水穂が聞くと、
「そうなんですよ!この人!私、一回その場面を見てますから、わかります!」
小春は、とっさに言い返した。
「教授、今の発言は言い過ぎだったかもしれません。あんまり激怒させてしまうと、癲癇とは、恐ろしい事態になる可能性もありますし。」
「いや、癲癇と言いますものは、まじめに薬を飲み続ければ、完治に近い状態が保障されています。」
懍は依然として冷酷な態度をとった。
その時、人が倒れた時のどさんという音と、もーさんのぎーがーという怒りの声が響き渡る。
「あ、やったな!」
時すでにおそかった。
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