夏という季節

第1話空の色

 晴れた時の空の色がいつもと違うことに気が付いた。いつもと違う、というのは俺の目から見て、ということで別にみんながそう感じていたのかはわからない。ただ、夏の空は冬の空とは明らかに違う色に見えた。澄んでいて、青という色に限りなく近いと思う。冬の空はそうじゃない。暗くて、濁った風に見える。「空の色を青と名づけたんだよ」なんて言われた日には、俺は自分の浅慮さを限りなく恥じて、己の感受性を否定してしまうかもしれないけれど。

 空の色で季節が変わったことを認識できるのだと気付いたのは、割とここ数年のことだったりする。幼い頃の俺は、自然を眺めて何かを考えたり、自然から何かを感じ取ることができるほど、豊かな心を持っていなかった。当時何を考えていたかというと、大抵はテレビゲームのことで、あとはアニメとか特撮ヒーローもののことだった。「幼い時分から、色々なものに触れ、感受性や想像力を鍛えてきたからこそ今の私があるんだと思います」というクリエイターのインタビューを見るたびに、ああ、俺はこういう人には成れないんだ、という気持ちになってくる。でも、それは俺の思い込みだってことにも最近気づいた。「十代の頃なんて何も考えずにただ日々を過ごしていました」というインタビューを見る機会が増えたからだ。どちらも、俺の主観が選択して得た情報なので、何が正しいのかはわからないけれど、こういった事柄に正しさなんてものはないのかもしれない、ということにも気付き始めていた。

 まあ、夏に感受性を発揮するのは簡単なことではないから。暑いし、汗は出てくるし。暑いと何も考えられなくなる。何かを観察する気力もない。俺は空を見ることをやめて、部屋の中央でがんばって風を生み出している扇風機を見ることにした。扇風機はすごい。未だにどうやってこちら向きの風を生み出しているのかよくわかっていない。涼しいし、役に立っているからどうでもいいや。でも、こういう疑問をどうでもいいと感じてしまう俺が今の自分を形作っているということは否定できない。

「暑い」

 口に出してみる。余計に暑くなった気がする。言霊は信じていないのでやっぱり撤回する。暑くない。

「暑いな」

 今、口に出してしまったのは俺ではない。それは、先ほどから一緒にこの俺の部屋でだらだらしている友人の川上の声だった。川上は、半袖のシャツの裾をはたはたと揺らしながら、扇風機の風を使って上手く涼んでいる。あまり暑そうではない。

「暑くはない」

「どっちだよ」

 なんとなく言い返した俺に、川上は笑いながらそう返す。まだ笑えるだけマシな暑さなのかもしれない。本当に暑いと、何も言えなくなるし、何もしたくなくなる。

「なあ、そろそろどっか行かねえ?」

「なんで」

「俺がこの部屋に来てからかれこれ二時間経つから」

「俺はもう何時間いるかわかんねえよ」

「それはここがお前の部屋だからだろ」

 それもそうだった。だけど、俺の部屋に来て二時間経つから他の場所に移動したいという川上の理屈はよくわからなかった。きっと、やることがなさすぎて暇になったのだろうけれど。

「行く当ては?」

「駅前の喫茶店はどう? 煙草が吸える」

「こんな暑い日に吸う煙草は美味しくないよ」

 スマホをちらりと確認すると、時候は一四時過ぎだった。ランチ目当ての客も減ってくる頃合いだし、喫茶店に行くにはちょうどいいかもしれない。

「涼しいところで喫煙するために喫茶店に行くんだよ。お前はわかっていないな」

「遠回しに外に出るのがめんどくさいって言ったんだよ」

「いいだろ別に。ちょっと歩けばすぐだし」

 外の気温を考えると、どうも出歩く気にはなれなかった。歩いているうちに、身体中から汗が噴出するに違いない。そういうことを川上は気にしたりしないのだろうか。川上との付き合いはまだ一年程度だから、そういったことはよくわからない。深いようで浅い関係。大学に入ってからの知り合いなんて大体そんな感じだった。

「嫌だ。めんどくさい」

「今日はあの可愛い子がシフトに入ってるかもしれないし行こうぜ。ほら、この前話しただろ? 谷沢と行ったときに見たっていう」

「ああ。でもいるかどうか確定ではないんだろう」

「そうだけどさ。あ、そうだ。この前谷沢と行ったときに買ったコーヒーチケット一枚やるから行こうぜ」

 川上のよくわからないやる気がよく伝わってきた。その源はこの前来店した時に見たという可愛い店員らしい。川上と谷沢が口を揃えて、可愛いだ、美人だと言うものだから以前から気になっていた。

「コーヒーチケットまで買ったって、お前通い詰める気しかないじゃないか」

 川上の入れ込み具合に少し引いた。下手するとストーカーではないだろうか。友人として、ここはひとつ注意をしてみなければならない。

「当たり前だろ。俺はこれから毎日彼女の姿を見に行くんだ」

「まあ、ストーカーにだけは間違われるなよ」

 あまり具体的な言葉にして注意ができなかった。咄嗟に出てくる言葉というのは、往々にして抽象的なものばかりだ。

「わかってる。嫌われないように気を付けるよ」

 嫌われないように、というだけマシかもしれない。本物のストーカーは相手に嫌われる、ということをそもそも想定していない気がする。好かれるかもしれない、あわよくばお近づきになれるかもしれない、そんなことを考えていられるうちが一番幸せだ。

「とりあえず、喫茶店に行こうか」

 暑さにほとんど敗北していた己の肉体に活を入れて、俺は外出する準備をしてから、川上と一緒に家を出た。扇風機にはしばらくの間、休息を与えることにした。

 家の外は相変わらず燦とした眩しさと、熱を持った光に照らされている。駅前の喫茶店までは大体歩いて一〇分程度。これは汗だくになるな、と思いながら、もう家を出たことを後悔していた。アスファルトは熱を持ってゆらゆらした空気を作り出しているし、空の色は相変わらず青かった。

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夏という季節 @fairymon

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