忘れる人と、忘れられる人

紫陽花

第1話

 その子は、忘れられるのが怖いんだそうだ。


 やばい。今日小テストなのに教科書忘れた。っていうかこの教科あるの忘れててノートも忘れた。あっ、でも資料集は……、忘れた。しかも小テストあるの忘れてたからなんも勉強してない。

 本日、俺、熊崎(くまざき)明志(あかし)はやばい。

「あんだよ、あかっさん、まあーた全部忘れてきたの?」

「おま、またかよ」

「どーせテスト勉も忘れてんだろ?」

「ほんと、何しにガッコ来てんだよ」

 う……。

 全部図星だから、全部言い返せない……。

 本日、っていうか、本日も、ですね……。

「ったく、しょーがないなあー、慈悲深いオトモダチが、テスト範囲見せてやろーじゃないか」

「ほら、明志、こっち来て一緒べんきょーしよ」

 俺を手招く友人たち。

「お、お前らぁ……」

 その元へそろそろと近づいて行く情けない俺。

「だいたい、テスト範囲も忘れてんじゃねー?」

 あっ……、


 一夜漬けにすらなっていないテスト勉強を終えた俺の結果は、言われなくても、もうわかってるようなもんだ。

 でも俺は、友人たちへの感謝が絶えない。

 たとえ結果が出なくても――絶対出てないとわかってても――俺はこの気持ちを忘れないだろう……

 たぶん。

「だから、そんなこと言ってないっつってんじゃん!」

 一教科を終えた小休憩時間、友人たちの理解ある心遣いに改めて感動していた俺の耳に、そんな声が届いた。

 なかなかの大声に、あたりは静まり返った。

 その声が聞こえていたのは、当然俺だけではなかったので、俺が声の方を見ると、同じタイミングで同じ動作をするクラスメイトが何人もいた。

「だいたい、そんなこといちいち覚えてるかっつーの!」

 声の持ち主は、うちのクラスの女子だった。

 その周りで、一緒にいたのだろう他の女子たちが、困ったように佇んでいた。

 彼女は少し気が強い方なので、腰に手を当ててそうしている様も、まあ変な話、納得がいった。

 気にしていないのか気づいていないのか、その声の主は、やはり大きな声で、そう怒鳴っていた。

 その形相は、声と同じく怒りを湛えていたが、同時に呆れも、多分に含んでいた。

 強気な彼女ではあるが、少々ガサツなだけで、理不尽に怒りをぶつけるような子ではない。

 一体どうしたんだろうと、俺はその声の向けられている、相手の顔に目を向けた。

「あれ?」

 これまた、意外だった。

「忘れちゃったの?」

 相手は、自分が怒鳴られているにもかかわらず、それに反して、いやに静かな声で言った。

 相手の子は、真正面から、じっと見つめていた。

「だからっ、ふつーに話してただけじゃんっ、なのに何気なく喋ってる中の一言一言なんて、忘れたとかっていうか、そんなことふつー覚えてないって、」

 クラスの女子は、そう言い返すものの、相手のその態度に少し怯んでいるように見えた。

 しかし相手は、逆に彼女のその言葉に、実にあっさりと視線を落とした。

 まるで、駄々をこねて困らせているのは自分なのだから、我慢しなければならない、とでもいうように。

 そのせいで、曇ってしまった。それまで真っ直ぐに見据えていた――きれいな、目が……。

 って、なに考えてんだ俺、

「そうだね、……うん、覚えてないなら、しょうがないよね。」

 相手の子は、視線を逸らしたままそう言った。

「あ、ぅ、えと」

 クラスの女子は、それまでと一変して引き下がった相手の子を見て、狼狽えだした。

「いや、覚えてなくて、アタシも悪かったよ、ごめんって、別の、話しよっかっ、ねっ」

 どうやら事態は落ち着いたようで、彼女たちはまた話に花を咲かしだした。

 見守っていたクラスメイト達も、ほっとしたように、彼女たちから視線を戻し、それまでしていたことに各々戻っていった。

 かくいう俺も、そうしたいところなのだが……

 俺は相手の子の顔を、じっと見つめていた。

 さっきの言葉、

 覚えていない。

 クラスの女子がそう言ったことを、あの子はひどく怖がっていたように、俺には見えた。

 それが、ちょっと気になった。

 その子は別のクラスの女の子だった。

 話したことはなくて、高校生活も2年目だけど、同じクラスになったことも、まだない。

 ちょ、まだ、ってなんだよ俺。

 その時の俺からは、もう既に、友人たちへの感謝は頭からすっ飛んでいた。


 俺は物忘れが多い。

 一応自覚してはいるが、生まれてこの方、未だにどうにもなんない。

 回りからは、よくそれで生きてこれたな、って言われる。

 そんな俺が、あの子のことは忘れていなかった。

名前は確か、努(ゆめ)。

かっこいい名前なのに、かわいい読みだなって思って、覚えてた。

我ながら珍しいと思う。でもやっぱり苗字までは覚えてない。

それどころか俺は、寂しそうな顔を見せたあの子のことが、暫くずっと、気になっていた。

そんな折、俺にアノコと知り合うきっかけができた。

それは、生徒全員がなにかしらの委員会に入る、その委員の任期が終わって、新しい委員を決めた時だった。

 忘れっぽい俺は、全員出席の委員会会議がある日以外での活動がある委員会活動は基本的やばい。何がやばいって、忘れて活動しないからだ。

 だから、比較的後からでも挽回が効くものに任命される。数人でやる作業だから、他の人が迎えに来てくれる広報委員、クラスの清掃チェックだから、クラスメイトが思い出させてくれる清掃委員、後は、ええーっと……、あれ、これだけだっけ?俺後なんの委員やったことあったっけ?てかほかに何の委員会あったっけ?

 ……とまあ、こんな始末である。とにかく、学校の友達は、みんな理解ある人たちばっかりだ。俺うれしい。

 だが、その時俺がなってしまったのは、なんと学級委員だった。

「ええーっ!なんでーっ!?」

 俺を満場一致(俺以外)で推薦したクラスメイト達が言うことには、たまには他の委員もやれということと、重要な役割に就けば、俺の物忘れが改善されるかもしれないということだった。

 優しい友人たちの気遣いでそう言われては、俺は逆らえない。

 でも俺は今聞いたぞ。学級委員が人気のない委員だから押し付けたっつったの、俺は聞いたぞ。

 とはいっても、確かに普段から助けられている俺は、当然従うのがやぶさかではない。

 学級委員という仕事は、その役職柄、他の委員とは違い、務める人間は二手に分かれる。まずは、責任感があって、リーダーシップがあること、そしてそれを自覚している人間である。他は、なかなか埋まらない学級委員の枠にしびれを切らした、ボランティア精神のある人間がそうだ。

 俺はそのどちらともいえないが、やるからには、俺なりにやってみようと思う。……忘れっぽいけど。まあ、クラスの学級委員は何も俺一人じゃないし、大丈夫だろ……たぶん。

 というわけで、勇んでいった学級委員会の会議に赴いたのだが、

そこには、あの子がいた。

 驚いた。

 これは俺の勝手な予想でしかないが、あの子がここにいる理由は、きっと後者だろう。

 クラスメイトの女子との、あのちょっとした一件から見て、あの子は周りを思いやれる子なんじゃないかと思った。なんとなくでしかないけど。

 今日の議題は顔合わせと、次の全校朝会での準備の段取りだ。これは学級委員の仕事の一つなのだが、委員全員でやるほど、人数のいる仕事ではない。なので今は、委員が変わって最初の朝会の準備担当者を募っている。が、揃わない。初っ端、というのが、なかなかみんなネックなんだろう。

 みんなが困り始めたころ、あの子が、おずおずと手を上げた。

 議長がほっとしたように笑うと、あの子に学年とクラス、名前を尋ねた。

「英田(あいだ)、努です」

 あの子は手を上げた時と同じようにおずおずと、大きくもなく小さくもない声で、そう言った。

 苗字、英田さんって言うんだ。英田努さん、かあ。

 俺は頭の中で、今はっきりしたあの子の名前を、意味もなく繰り返していた。

 そしてやっぱりあの子は、やる人がいないから、自分が立候補したのだろう。

 俺は自分の予想が当たったことに、上機嫌になった。

 けれど得意げになって見たあの子の表情は、固かった。

 いやでも、そりゃそうだろう。

 さっさと人数がそろうなら、別にやりたくもなかっただろうし。

 なら何故、あの子は手を上げたのか。

 やりたくなければ、じっと黙っていればいいのだ。

 他のみんなのように。

 そこで俺が、あの子の固い表情から感じたのは、自己犠牲、だった。

「ほか―、誰かいませんかあー、あと一人なんだけどなあー」

 俺は議長の言葉にはっとした。

「はいっ!」

 何故か俺は、元気良く返事をしていた。

「そんなにいい返事してくれるんなら、もうちょっと早くて上げてほしかったなあー」

 議長が苦笑いして言う。他の委員も笑っていた。

 まったくそのとおりである。

 俺は恥ずかしくなって、元気よく手を上げた時と同じように、さっと手を下した。

 あの子の方を、ちらと見る。

 あの子は、名前の連なる黒板を見つめていた。特にこれといった表情は浮かべず、そっと息を吐き出していただけだった。あの子がこちらの視線に気づくことはなかった。

「ちょっと君、学年とクラスと名前、教えてってば、」

「あっ、はいっ、すみませんっ」

 議長が俺を呼ぶ声に、慌てて顔を前へ戻す。

「元気はいいけど、うっかりさんなのかな?」

 議長が、やはり苦笑いを浮かべながら、けれどさっきよりも穏やかな笑みで、そう言った。他のみんなが、また笑う。

 俺は、学年とクラスとそれから名前を、気持ち大きめに言った。

「熊崎明志ですっ!」

 俺の名前を、あの子が少しでも、覚えていてくれるように。


 俺の物忘れは、ほんと、生まれつきだ。

 だから、人に言われたり、自覚したりしてからは、俺も忘れないようにする努力はしていた。

 手に油性ペンでメモしたり、カレンダーに書き込んだり、スケジュール帳に記したり、ケータイにアラームかけたり、いろいろ。

 だがしかし、手とかカレンダーとかスケジュール帳を、そもそも見るのを忘れるし、ケータイはケータイをどっかに忘れてきてしまう。

 ぶっちゃけ今まで試した中で一番有効だったのは、周りの人間に予め知らせておいて、直前になって教えてもらう、という方法だ。

 我ながら、実に情けない。

 でも俺は朝会での学級委員の仕事を忘れないために、それを全部やった。

 手には右にも左にも書いたし、カレンダーは家の全部に記した、スケジュール帳は制服と鞄と勉強机と食卓と玄関に準備した、ケータイは家族全員のを借りて全部にアラームをかけた。目覚まし時計や鏡にメモもはっつけた。朝会の話は家族にはもちろん、クラス全員に話した。

 それまで俺の物忘れを、しょうがないなーと言ってくれていた周りのみんなは、それはもう驚いていた。

 仲のいい連中は、学級委員でもないのに朝早く俺を迎えにきてくれると言った。

 みんなありがとう、俺は俺なりに頑張る。

 そして、いよいよ運命の日を迎えた。

 俺はその日、前日に何度も確認した目覚ましが、地響きを上げる前に目覚めた。

 驚く母親に朝の挨拶をして、俺は迎えに来てくれると言った友人に、大丈夫だとのメールを送った。そしていつもより早い朝食を食べ、いつもより早く家を出た。

 登校中、俺を迎えにきてくれるはずだった友人から、驚いたとの返信が返ってきた。本当に大丈夫か、と心配も、一緒にされていた。俺の家は学校から歩いて行ける距離だ。俺は友人に、もうすぐ着くと、返事を返した。

 俺は、学級委員の集合時間より、だいぶ早い時間に着くことができた。

 そこにはもう、あの子がいた。

 他にはまだ、誰もいないようだった。

 俺は途端に、緊張してきた。

 掌に汗が滲む。

 俺はそれを、制服のズボンで拭って、つばを飲み込んだ。

「お、おはようっ」

 明らかにどもってる。明らかに不振。

 けれど俺は、そんなこと気にしてる暇もなかった。

 だってあの子が振り向いて、こっちを見たから。

「あれ、」

 何故かあの子はびっくりしていた。

「え……?あっ、いや、俺も学級委員で、今日、担当でっ、」

 予想外の反応に、俺もびっくりしたけど、そうだ、俺はこの子のこと知ってても、この子が俺のこと知るわけがないんだ。うっかり挨拶なんかしちゃったけど、そりゃあ―驚いて当然だよね。

 焦る俺に、意外にも、その子はこう言った。

「あ、それは、わかってるけど、」

「え?」

「え、ああごめん、あなた、忘れっぽいって有名だから、あー、っと、……ってっきり………」

「………」

 俺、物忘れでどんだけ有名なんだ。

 確かに他のクラスまで行って物借りたりしてたけどさあー。

 俺はがっくりと肩を落とした。

 まさか、初めて話した子まで、俺の物忘れを知っているとは。

 そして、俺が今日の仕事を忘れていると、予想までされていたとは……。

「ご、ごめんね。えっと、熊崎君?」

 けれど、名前を呼んでくれたその子の言葉で、おてはばっと顔を上げた。

「えっ、俺の名前までっ?」

 名前まで噂になっているとっ?

「え、だって、おんなじ委員だもんね」

 けれどその子は、予想に反して、そう言っただけであった。

 あの時俺がちょっとだけ大きな声で名乗ったから、覚えててくれたのかな。

「わたし、同級生だったら、たぶん、だいたい名前わかると思うから」

 しかし、その子が言うには、そういうことだった。

「ちょっと、変に物覚えがいいっていうか……、あ、いきなり名前呼んじゃって、やだったかな?気持ち悪いもんね、知らないやつなのに、ごめんね」

 その子は申し訳なさそうに笑った。

「ち、ちがっ!」

 そんな顔してほしくなくて、俺は大声を出してしまった。

 その子は驚いている。

 俺も驚いている。

「いっ、いや、嬉しかったよ、名前覚えててくれて、初めて喋ったのに、」

「……」

 その子はそれきり、黙ってしまった。

「お、俺っ、知ってると思うけど、すんごい物覚え悪くてっ、人の名前とかも、全然覚えられないんだけど、俺もきみの名前は覚えてたんだってっ」

「……え?」

 ……しまった。

 なんか俺、焦って捲し立てて、余計なことまで言ったか?

 いやどう考えても不自然だろ物覚え悪いヤツがこの子の名前だけ憶えてるなんてっ!

「あ、いやっ、流石にフルネームは覚えてなくって、下の名前だけ……、そう、名前が、漢字がかっこいい割にかわいい読みだなって思って!……て」

 あーっ!なんか余計に余計なこと言ったあー?

 物覚え悪すぎて学習能力もないんじゃん俺!

「ふふふっ」

「……え、」

 その子は笑っていた、きれいに。

「じゃあ、下の名前で呼んでよ、わたしのこと、それなら覚えてくれるんじゃない?」

「あ……」

「わたしも名前で呼ぶからさ、ね?明志」

「うん……、努」

 その後の、朝会の準備の記憶を、俺は覚えていない。


 それ以来俺は、努とすっかり仲良くなった。

 そして同時に、何故か物忘れも少なくなっていった。

 それはたぶん、努のおかげなんだと思う――

「あれ明志、体操着借りたの?」

「え、努、なんでわかったんだ?」

 体育で校庭から戻ってきた俺は、移動教室から帰って来たんだろう努に、廊下で会った。

 学級委員の仕事は何とか忘れずに済んでいる俺だが、その日はあいも変わらず体操着を忘れていた。

 もちろん努から借りたわけではない。けれどそれを指摘されて首を傾げる俺に、努はおかしそうに笑った。

「なに言ってるの、体操着には名前が書いてあるじゃない、それが『熊崎』じゃなかったから。それ、うちのクラスで借りたんでしょ?また忘れちゃったの?」

 あ、そうじゃん。

 むしろ俺、今自分が体操着着てることも忘れてたよ。そういえば努と同じクラスの友達に借りたんじゃん、すっかり忘れてたわー。努は学年のやつの名前ほとんど覚えてるって言ってたから、当然クラスメイトの名前も全員知ってるんだろうなー、って、それはさすがに当たり前か。俺ってほんと情けねー。

 努は、他のみんなと同じように、俺の忘れっぽさに理解はあるが、みんなとは違うところがある。

「だあいじょうぶ、この間の朝会に忘れず来られたんだから、次の体育は忘れずに済むよ、」

 それは、俺が何を忘れても「しょうがない」って言わないことだ。

「ね?」

「……うん、次は忘れないようにする」

 俺は、ふとした時に努の言葉を思い出し、忘れ物に気をつけられるようになっていった。

 今までは、忘れ物をしていること自体を忘れていたのに、最近では、努との、そんな些細な会話すら、忘れなくなっていた。

 物忘れが少なくなっていくにつれて、努は

「今日は忘れ物しなかったんだ、よかったね」

 そう言って、自分のことのように喜んでくれた。

 俺の方はと言えば、今まで忘れ物をしたってなんとかなっていたせいなのか、そうじゃないのか、忘れ物が少なくなったことより、努がそう言ってくれることの方が、なんだかうれしかった。

 だから俺は、喜んでくれる努にこう答えた。

「努が、大丈夫って、忘れないようにできるって、言ってくれたから……」

 照れくさそうに言ったのが、ばれてしまったかもしれない。笑われるかな。言葉を放ってすぐ、そう思った俺はとっさに俯いてしまった。

 しかし、そんな俺の杞憂をよそに、努からは何も返ってこなかった。

 不思議に思って、俺が顔を上げて努の方を見ると、努は顔こそこちらに向けているが、その表情は驚きに染まっていた。

「え?」

 逆に俺の方が驚いてしまった。

 こんなこと、前にもあったな。あれは俺でも忘れもしない、努と初めて喋った時だ。

 でもその時よりも、努は驚いているように見えた。

 暫く固まってしまっていた俺たちだったが、そのうち努が、その表情を緩めた。

 それに、俺はもっと驚いた。

「覚えてて、くれたんだ」

 崩したその顔は、俺が今まで見たことのない、努の笑顔を浮かべていた。

景色が変わったような錯覚さえ覚えた。

それは華美ではないが、ふわりと花咲く蕾のような、初々しい笑みだった。

俺はさっきの照れくささとは比べ物にならないほどの熱を両頬に感じたが、今度は顔を俯けることはなかった。

俺は、努の笑みを形作る、きれいな瞳を見つめていた。

その瞳は以前俺が見た、些細なことを友人に忘れられた寂しさが、曇らす前の、きれいな瞳に似ていた。

俺はうれしかった。

その瞳を今ここで取り戻すことができて、ほんとうにうれしかった。

その瞳がもう失われることのないよう、切に願った。

失われることがあっても必ず取り戻すことを、真に望んだ。

そして、自分が憶えていれば、この子のすべてを忘れなければ、この笑顔が守れるのだと知った。


 俺は、学級委員の任期の間、委員の仕事のある日だけは、とにかく忘れずに制覇することができた。奇跡だ。

 他のことで忘れてしまったものは、減ったとはいえ、やっぱりまだまだ多かった。しかし、学級委員の仕事に関することだけは、忘れずにコンプリートした。やっぱり、奇跡だ。

 それもこれも、周りの人たちの協力や、努の励ましがあってこそだ。

 そして俺たちは、3年生に上がった。

 3年生は、高校最後の年ということで特別に「卒業アルバム実行委員会」

というものが存在していた。

 アルバム委員は、デジタルカメラを学校から借りて、同級生たちの最後の年を、自らシャッターに収めていく。単独行動が多く、一人一人が重要な仕事を務める。

 忘れっぽい俺には、一番任せちゃならない役目だ。

 俺は、それに立候補した。

 それに、クラスのみんなは先生も含め、当然驚いていた。

 けれど、最近の俺の忘れ物が少ないことと、学級委員の仕事は自分で全部覚えていたことが相まって、みんな応援してくれた。

 こうして俺は、晴れて卒業アルバム実行委員になれた。

 俺は、自分の物忘れが減ったことを自覚していたので、挑戦してみたかったのだ。

 というのももちろんあるが、実は2年の終わりに、努と話していたことがあるのだ。

「わたしね、委員会、これまで学級委員になることが多かったんだけど、3年生になったら、アルバム実行委員やりたいんだ」

「ああ、卒業アルバムの?」

「そう。……みんなが、自分の思い出だけじゃ忘れちゃうような、何気ない学校生活を、アルバムに残したいなって、」

 それは、いつもなら相手の顔をまっすぐに見つめて話す努が、俯きがちに話してくれたことだった。

「うん、そうだな!」

 俺は抱いた感情を乗せるように、強く頷いた。

 それに努は、ほっとしたように、きれいな笑みを見せてくれた。

 結局高校3年間、努と同じクラスになれることはなかった。

 俺がアルバム委員になりたかったのは、努と一緒にやりたかったのもあるが、もし努のクラスのアルバム委員の希望者が多かった場合、きっと努は身を引いてしまうだろうから、そうなったら俺が、努にカメラを貸してやるつもりだった。ちょっとずるいけど、たまにならいいだろ。

 初めの委員会会議の日、会議室には、めでたく努の姿があった。

 俺はその顔を見てほっとした。

 よかった。努、アルバム委員になれたんだな。

 努は俺に気がつくと、小さく手を振ってくれた。俺もそれに振り返す。

 少し嬉しそうな顔になってしまったかもしれない。

 でも別にいいよな、ちょっと嬉しそうな顔になるくらい。挨拶に笑顔はつきものだもんな。

 ……いや、嬉しそうな顔になりすぎていたかもしれない。

 そうして俺と努は、卒業アルバム執行委員の係に就いた。

 結果的に、俺はアルバム委員の仕事も、忘れることなくこなすことができた。努と一緒に。


「明志最近がんばってるね」

「ほんと、物忘れのあかっさんはどこ行ったんだよ」

「おまえだれ?」

「なんか変なもんでも食ったんか」

 ちょちょちょ、後半ひどすぎじゃねえーぇ?

 でも確かに、ここ最近の俺は見違えるようだった。

 なんと、俺のチャームポイントである物忘れが、ほとんどなくなったのだ。

 不気味がられても仕方がないと思う。何より俺も驚いている。

 けれど結局、なんだかんだ言って忘れ物は、しないに越したことはない。

 しかしそれがわかったのも、忘れ物をしなくなった今が、あればこそだ。

 今では逆に、俺が忘れ物をした友人に、物を貸すこともあるくらいだ。ずっと借りてばかりだった俺が、ここまでになった。これはすごいことだ。まじで自分でもビビる。

 そのおかげで、誰かが何かを忘れると、その周りの人も大変なんだと、知ることもできた。

 でも努の場合は、少し違う。

 忘れられて困っているというよりは、寂しがっているのだ。

 会話の内容を忘れられて、待ち合わせ場所や時間に会えないなどというのとは、わけが違う。努は、そういった重要事項とは違う何気ない日常会話を忘れられて、悲しんでいるのだ。

 でも、だからこそ、忘れてしまうのだろう。

 しかしそれは、逆にそういったことを覚えている側にとっては、つらいのかもしれない。

 自分が当たり前に覚えている友人との記憶を、その友人は持っていないのだ。

 それって確かに、悲しい、よな。

 会話に限らず、なんでも忘れてしまう俺は、逆に忘れるのが当たり前になってしまっていたが、あの子は、努は、忘れられることが当たり前になってしまっているのかもしれない。

 けれどそれは寂しい。

 そんなの、寂しすぎるよ。

 俺は、努と過ごした全てを、忘れたくない。

 努は、卒業アルバム委員の仕事をしている時、嬉しそうにカメラを構えていた。

 初めは、壊さないように、とか、うまく撮れない、とか、いろいろ心配していたが、シャッターを切った後は、なんとも満足そうであった。

 俺はそんな努が見られて満足だった。

 俺は努のおかげで変われた。

 だから、忘れられることを怖がるあの子を、なに一つ忘れないでいこう。


 大学受験を終え、俺や努、そしてみんなで作り上げた卒業アルバムをその手に、俺たちは門出を迎えた。

 俺と努は別の大学へ進んだが、頻繁に連絡を取り合ったり、会って一緒に遊んだりと、その仲は変わらなかった。

 大学の新しい友達に、俺前まではすっごい物忘れ激しかったんだぜ、と言っても、何それうっそだあー、と言われるくらいには、すっかりなくなった物忘れを、努は相変わらず喜んでくれている。

 そして努がふとした時に振ってくる、ほんの些細な思い出を、俺も忘れずにいる。それを努は、ことさら嬉しそうにしてくれる。

 俺もうれしかった。

 努がうれしそうにしてくれるのが、何よりうれしかった。

 なのに、それは突然だった。

「……え、っと、俺、何しにここへ来たんだっけ……?」

「?何って、今日は普通にわたしと遊ぶ約束してたでしょ?さっき映画見たじゃない」

「映画?」

 何かがおかしい。

 でも、そのおかしさに気付いても、どうしようもなかった。

「……何の映画、見たんだっけ?」

 驚愕し、動揺する努の顔を最後に、俺はふらつく体に促されるまま、瞼を閉じた。

「明志っ」

 ああ、俺は、努に寂しい思いをさせてしまうのかな。

 次に目を開けた俺の目に入ったのは、白い天井だった。

 それはどこかで見たようであり、けれど忘れてしまったものであった。

「明志……」

 声のする方に顔を動かした。

 揺れた視界に最初に入ったのは、俺の手と、それを包む暖かな手だった。

 俺はその手の持ち主を見た。

「努っ!!」

 俺はその名を叫んで、体を起こした。

 しかし手の持ち主が、自らの体ごと、体当たりするように俺の体を戻した。

 手の持ち主は、俺に覆い被さったまま、俺の名前を呼んだとき同様、静かな声で言った。

「まだ、横になってて。」

 俺の体にかかる負担は、そう感じられなかったが、俺は大人しくするしかなかった。自分の体が、思うように動かないことに、今気づいた。思えば、叫んだ喉も、焼いたように痺れている。

 確かに今、その名を呼んだのに。

「……病院の天井って、学校の保健室の天井と、似てるよね」

 声を発することで覆い被さている体が震え、俺にも伝わってくる。

 そうか、見たことあると思ったら、学校か……。

 あれ、俺、学校に行ったことなんて、あったっけ。

 学校?学校って、何するとこだっけ……?

 俺の記憶は、随分ぼんやりしていた。

 っていうか、この子、誰だっけ…………

 そこまで思って、俺は愕然とした。

 なに考えてんだ、この子は努だろ。

 俺がずっとずっと大事に思ってきた子だろ。

 自分が些細なことでも覚えていてしまう質だから、人にそれを忘れられてしまうのを怖がる、そんな子だろ。

 俺は俺を思いっきり殴ってやりたくなった。

 でもそう思ったことも、どんどんおぼろげになっていく。

 何かを思っては忘れ、思っては忘れ、物忘れがすごい速さで浸食してくる。

 俺は確かに、高校の2年くらいまで、物忘れが激しかった。でもこんなんじゃない。なんだこれ。怖い。

 こわい。

 こわいよ、努。

 きみを忘れてしまうことがこわいよ。

「……め、」

 俺がきみを忘れて、きみのきれいな瞳が曇ってしまうことがこわいよ。

「……ゆ……め……」

 きみに怖い思いをさせてしまうことがこわいんだよ。

「ゆ……め、」

「明志、」

「努、」

「……うん、」

「ゆめ、ゆめ、」

「うん、あかし、」

 喉は依然としてひりついて、体に力は入らなかった。

「ゆめ」

 それでも、俺には忘れたくないことがある。たとえ自分のことを忘れても。

「ゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめ」

 なんとしても、忘れてはならないものが。

「……口に出すことを一瞬でも途切れさせてしまったら、」

「ゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめ」

「きっと忘れてしまうのだろうと、思っているのでしょうね、」

「ゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめゆめ、ゆめ、ゆめ、ゆ、め、」

「……明志なあ。」


 俺は物忘れが激しく、覚えている記憶は数少ない。

 そんなんだから、一人で日常生活を送れるはずもなく、いつもそばに誰かしらがついている。

 自由がないと言えばその通りだが、ここまで何も覚えていられないのならば、それも仕方ないことだろう。

 そんな俺が日々していることといえば、俺の写真(らしい)が載っている、アルバムを眺めるくらいだ。

 今日俺が見ているのは、高校の卒業アルバムだそうだ。

 どれが見たいかと見せると、一冊目は必ずこれを選んでいるらしいのだが、生憎俺は忘れてしまっている。

 当時俺は、卒業アルバム実行委員なるものを務め、このアルバムの写真には俺が撮ったものも数枚あるそうなのだが、さっぱり覚えていない。

 俺はアルバムのページを捲った。

 覚えのない写真が続く中、ふと、気になる一枚が目に留まった。

 その写真を見つめていると、傍にいた人物が、これは俺が撮ったものだ、と言った。

 けれど、もちろんそれを、俺は忘れてしまっているわけで。

 その写真は、一人の女子生徒の横顔が写されていた。

 その女子生徒は、カメラを構えていた。

 首を傾げた俺に、傍にいた人物が、また教えてくれた。

 その女子生徒もまた、実行委員だったらしい。

 だからカメラを持っているのだという。

 ということは、実行委員だった俺が、同じく執行委員の、その女子生徒が仕事をしているところを、写真に収めたということか。

 まあ確かに、おもしろい場面にはなっているかもしれない。

 けれど、俺はなんでこの写真が気になったのだろう。

 他の自分が撮ったらしい写真には、特になんとも思わないのに。

 俺は、この女子生徒の名前を尋ねた。

 するとその人は、アルバムのページを一番最後まで捲り、実行委員の名簿のところを指さした。

 指先には、一人の名前があった。

 英田努

 なんて読むんだ?

 俺は尋ねた。

「あいだ、ゆめ」

 ゆめ、

「かっこいい漢字なのに、かわいい読みなんだな」

 その人は、華美ではないが、ふわりと花咲く蕾のような、初々しい笑みを見せた。

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