第14話 重さの無い蒼 前編

 どうにも大学のキャンパスというものには良い思い出がない。けれどそれは単なる悲観であり、より正確に言うなら悪い思い出もない。


 僕は今、某所に位置する芸術大学の敷地内で木偶のように突っ立っている。ここがもしも映画のワンシーンだったなら、背景に溶け込んだ舞台装置のひとつとして重宝されていたことだろう。


 目前にはミントグリーンの爽やかな建造物があり、古風な校舎の立ち並ぶなかで文字通り異彩を放っている。待ち合わせ場所には最適だろうということで、沙智に指定されたのだった。


 しかし実際に来てみれば、僕と同様に合流待ちの人々が多く寄り集まり奇妙な一団が出来上がっている。それぞれが誰かを待っているようで、しきりに腕時計やスマホを眺めていた。


 こういった人の集団が、何よりも僕の苦手なものだ。不特定多数の視点があるというだけで、過剰に意識してしまい正常な判断力が損なわれる。群れる動物であれば落第認定を受ける重大な欠陥であり、それは社会性を必須事項とするヒトも例外ではない。


 ともかく僕は、不得手な状況に放り込まれてストレスのあまり身じろぎひとつできない状態のまま、予定の時間を十数分過ぎてもまだ来ない沙智を待っているのだった。


「およ? およよよよ?」


 不意に背後で奇声が上がった。素知らぬふりをしておくのが無難だろう。


「その背中、その後頭部……あなたはもしや、お兄さん?」


 どこを見てどう判断しているんだ。無視無視。


「おっかしいですねー。私の声がわかりませんか? 私ですよ、私。立てば病欠、座れば悪寒、歩く姿は彼岸花。のフレーズで有名な」

「なんだよその不吉の欲張りセットは」


 だめだ、無視しきれなかった。


 振り向くと、そこには白磁の肌を持つ少女がいた。


「お久しぶりです、お兄さん」


 にっと口端を吊り上げ、八重歯まで覗かせて少女は笑う。


 三か月ぶりの、憂月との再会だった。




 芸大で年に二回開催される学祭のうち、六月に行われるのは鳴神祭めいしんさいと呼ばれる。


 『鳴神なるかみ』は歌舞伎十八番の十五番目にあたる演目で、当時の学長のお気に入りでもあった。さらに陰暦六月の別称が鳴神月なるかみづきであることから、その名が付けられたのだそうだ。


 だが不思議なことに、毎年梅雨の真っただ中で開催されるにもかかわらず当日は決まって晴天になるのだという。随分と皮肉な話だ。


「共通必修の授業はそういうのばっかりなんです。文化史に芸術史、古典への回顧だーってどの先生も言っててつまんないです。おかげで隣の人と仲良くなれました」

「講義は真面目に受けろ」

「てへっ」


 キャンパスの中央を貫くメインストリートは盛況だった。美術棟、文芸棟、映像棟といった校舎の名前が書かれた看板を掲げる学生たち。彼らに導かれ、来客者たちは各棟で展示物の鑑賞をおこなう仕組みのようだ。


 裏を返せば、人通りの多いここは集客闘争の最前線だ。少しでも多くの人に自分たちの創作物を見てもらうべく、あの手この手で客の奪い合いをする。


 憂月の目一杯の仮装もまた、その一環であるようだった。


「舞台芸術学科の人に捕まっちゃったんですよ。私は普通にしてるほうが目だつらしくって、仮装させれば他と変わらなくなるからって」


 生々しい傷や青黒い痣のペイントを身体中に施されている。いわゆるゾンビメイクというやつで、衣装も血糊がべっとり付いたナース服という気合の入りようだ。


「目だたせないという意図が微塵も感じられないんだが」

「興が乗ったんですって」

「ならしょうがないな」


 芸術家気質らしいその人物の気持ちはわからなくもなかった。生ける屍リビングデッドを表現することにおいて、これほどの逸材はそうそういない。


「ほら見てくださいこの右眼。でろーん」


 無邪気に顔を近づけてくる憂月。至近距離でなくても、目玉がやや飛び出ているように見える。錯覚を利用したらしい巧みな技術には感心するが、さすがに笑えなかった。


 憂月に誘導されるがまま、メインストリートから逸れて横道に入る。人の気配は減ったが、まったくいないというわけでもない。正午を過ぎたばかりで日陰が少なく、梅雨の合間の快晴で初夏並みの暑さが蔓延っていた。


「あそこで待ちましょう」


 憂月が指さしたのはこぢんまりとした会館だった。他の学舎とは違い、普段の来客用に設けられた建物のようだ。


 中に入るなり、涼やかな風の出迎えがあった。穴場らしく人も少ないようで、ここなら安心して腰を落ち着けられる。


「あはは、私より病人みたいですね」


 虚弱で悪かったな。暑さはともかく、人酔いは耐性の面でどうにもならない。


 ぱたぱたと手で首元を扇いでいる憂月を横目で見ながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。


「そういえば、きみは客引きしなくていいのか?」

「はっぴぃに替わってもらいました」


 はっぴぃ、というのは憂月がつけた沙智のあだ名だ。ゆるキャラがつけられるような名前だと思うのだが、沙智は存外気に入っているらしい。


「そのときに頼まれたんです。兄さんは人混みに弱いから避難させてあげてって」

「なるほどな」


 少し到着が遅れたのは半強制的にゾンビの化粧をされていたから、といったところだろうか。そう勝手に納得することにした。


「人が多いのは知っていたから、見つけられるか不安だったんです。でも相変わらずひねりのない恰好だったからすぐわかりました」

「ひねりのない恰好」

「大学生感が抜けてない、と言えばいいですかねぇ」

「大学生感」


 余計なお世話すぎる。


「でもそういうとこも含めて、お兄さんはお兄さんだと思いますよ」

「そんな取って付けたようなフォローなら要らない」

「あははっ」


 ソプラノの笑い声が鼓膜をくすぐる。つられて緩む僕の頬。


 この再会を望外に喜んでいる自分がいた。


「お兄さんのご家族と一緒の学科で良かったです」

「こちらこそ、義妹と仲良くやってるみたいで良かった」


 沙智のことだ、客引きの役割を替わったのは憂月を僕に引き合わせるためだったに違いない。どこまで事情を共有しているのかはわからないが、少なくとも憂月の僕に対する態度は以前と何も変わっていないようだった。




 どんな話題を振ろうかと頭の中で選んでいるうち、司の顔が浮かんだ。彼は明確に言っていたわけではないが、僕を憂月と会わせたがっていた。だが実際に会ってみても、特筆するような変化は感じられなかった――このときまでは。


「新しい環境には慣れたか?」


 無難に近況を尋ねてみる。憂月は、左膝の剥がれかけた青痣メイクを指で突っついていた。


「おかげさまで。講義も、さっきはああ言いましたが楽しいですし。充実していると評価しても差し支えないでしょう」


 口ぶりこそおどけているが、視線は故意に外していた。膝に塗られた青と黒の色彩を指の腹で擦って落としていく。一心に。


「バンドのほうは順調?」

「問題ありません。月に二、三回は唄わせてもらっています。身体の調子もこれまでにないくらいすこぶる良好です。皆さんとも仲良くさせてもらって」


 見逃してしまいそうなほど微かな、言葉の隅に挟まった違和感。



「――私は、幸せですよ」



 憂月の眼は、虚ろだった。

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