第12話 揺蕩う君にも

 転院してすぐに千世の病状が改善される、なんて魔法のようなことは起こるはずもなかった。入院初日におこなった精密検査でも、診断は以前受けたものと何ら変わらないものだった。


 けれど千世本人はその事実を意に介さないようだった。わざわざ転院を選んだ決め手について訊いてみても「いつか話す」と茶を濁すだけで答えてくれない。何か思惑があるらしかったが、教えてくれない時点で僕にとっては不安要素でしかない。


 入院再開から二か月近く経って、ようやく僕にも情報が開示されるようになった。担当医は三十代くらいの女性で、髪をバレッタで束ねているのが特徴的だ。


「確認したい点がいくつか」


 まずは指を一本立てて担当医は言う。


「英さんとはどのような間柄ですか?」

「恋人です」

「ご結婚はなさっていないんですか?」

「はい。婚約もまだです」

「彼女からは家族だと伺ったのですが」

「同じ孤児院の出身で、小さい頃から一緒に暮らしていました」

「……なるほど。わかりました」


 続けてもう一本の指を立てる。


「以前の病院では英さんの病状をどう聞かされていましたか?」

「停滞期だと。この病には即効性のある治療法がないので、患者の気の保ちようによるところが大きいとも聞きました」

「即効性のある治療法がない、と言われたのですか?」

「……いや。確立されていない、と言っていた気がします」

「そうですか」


 もう一本指を立てるかと思いきや、担当医は既に立った二本の指を折り曲げた。こちらを真っ直ぐに見た後、椅子を回してデスク上の書類に手を伸ばす。


 何かおかしなことを言っただろうか。肩身の狭くなる思いだが、いっこうに責められる様子はない。むしろ同情されているような気配さえある。


「単刀直入に申し上げます」


 やけに重みを込めたトーンで担当医は言う。


「あなたは騙されています」

「え?」

「まったくもって褒められたことではないです。前の担当医のかたも、彼女さんも」

「理解できるように話してもらってもいいですか」


 焦るあまりに煽るような文脈になってしまったが他意はない。何とかそう伝えたいものの表情筋が固まって思うように意思表示できない。


「お怒りはご尤もです」

「いや、そんなことよりどういうことか教えてください」


 騙されているって、医者が嘘を吐いていたのか。信じられない。


「誤解される前に言っておきますが、あなたを騙す提案をしたのは英さんです。前の担当医からも裏づけは取ってあります」

「千世が、提案を」

「はい。悪意はないようですが良くないことです」


 他人事のように、ともすれば少し面白がっているようでもある女医の態度に苛だつ。


 だが僕の感情は二の次だ。問題なのは、それが千世にとってメリットになっていたかどうか。


「それは千世の病状に関係することなんですか」

「直接的には関係ありませんよ。ただし英さんが自身の体を第一に思ってらっしゃらないことははっきりしています」

「どうして」

「自分より大切な男がいるからです。つまり、あなたのことよ!」


 あっ、この人変な人だ。


 僕は身の危険を感じた。


「私はその真相を知ったとき、愛の力を感じましたね。病床に居ながらも最愛の男性のため、自分の身も省みず。愛ゆえに主治医までも上手く言いくるめて騙し続けるなんて。まるでドラマのようで――すみません取り乱しました」


 こういうのは真面目に突っ込んだら負けだとは思うが、それにしたって医者らしからぬ不謹慎さである。前回の医者の比にならない速さで不信感が累積する。


「ともかく、これまでの治療過程は英さんにとって最適ではありましたが最善ではなかったのです。患者には治療法を選ぶ権利がありますから」

「さっきから言っていることがよくわからないのですが」


 本当に説明する気があるのだろうか。


「要するに、僕は千世に隠し事をされていたってことですよね。そしてそれは僕のためだったと」

「おそらくは。半分は私の推測ですが」


 この人ほんとに医者やってて大丈夫なのか。


 ドラマの観過ぎなんじゃないかと思われるが、これでも界隈では腕利きとの話なのだ。千世からの信頼も前任者より更に厚い。僕が下手をうって関係悪化してしまうのはつまらない。


 なんだかいいように弄ばれている気がしないでもないが。


「以前の病院での治療方針は『現状維持』かつ『体力増進』だったようですね。あなたには前者しか明かされていなかった。後者は転院が前提の方針ですから、伝えればあなたが気を揉むと考えたのでしょう」

「医者がそんなふうに一部情報を開示しないなんてことはあるんですか」

「患者本人が望まないのなら、往々にしてある話です」


 思わず肩の力が抜けた。担当医が何か隠していることには勘づいていたものの、不信感ばかり募らせてしまっていたのが情けない。


 思えば僕は精神的に追い詰められていたらしい。疑念を抱いていたなら直接問えばよかったのに、それすら思いつかず勝手な推測で自分を責めていた。


 その場で見えるものだけに固執するせいで、千世の益になることを何ひとつできていない。


「僕にできることはないんでしょうか」


 この台詞を何度も言った。あの壮年の担当医は、毎回似たような台詞で返した。


 今度の医者も、同じ台詞を言うのだろうか。


「第一に、傍に居てあげることです」


 それを聞いて僕は落胆する。結局、何も変わらないのか。


 震えそうになる膝を両手で押さえながら、内心を悟られまいとする。いつだってそうだ。自分の無力は、自分が一番よくわかっている。


 けれど担当医はもうひとつの提案を残していた。


「第二に、受け入れてあげてください。英さんは独りで決断してきた強い人です。どうかあなたにはその決断を尊重してあげてほしいのです」

「決断を……尊重する?」

「はい。そのために今日はあなたをお呼びしたのですから」


 それから担当医は、つまびらかに千世の治療の経緯を話し始めた。それは僕の理解を大きく裏切るもので、またどうしても看過できない千世の闘いの記録だった。


 僕が知らなかった事実は、すべてが僕のためだった。その事実を受け入れなくてはならない。




 かくして僕は覚悟する。


 今度こそ。千世を大切に想うのならば。

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