カドミウムイエロー ナギコさんの平穏な日常1

澳 加純

第1話

 ある晴れた日、ナギコさんが洗濯物を干そうとしてベランダに出ると、バラの茎に新芽が芽吹いているのに気が付いた。

 アパートの猫の額ほどの広さのベランダで、百円ショップで買ったプラスチックの鉢に植えられた小さなミニバラだ。


 数か月前、スーパーの花売り場の隅に追いやられて枯れかけたミニバラになんとなく目が止まり、困ったことに目が離せなくなり、ナギコさんは気が付くとミニバラのポットを手にしていた。

 さらに困ったことに気付いたのは、家に帰ってからだ。ナギコさんには、園芸の知識は全く無かった。連れ帰ったのはよいが、かわいそうなミニバラをどうしてよいのか、皆目分からない。

 ひとりで頭を悩ませても、夫に聞いてもおそらく解決しそうにないと観念すると、そそくさとネットでバラの育て方を調べ、その通りに実践した。


 ナギコさんの努力が報われたのか、与えた肥料が効いたのか、狭いながらも日当たりだけはよいベランダで、ミニバラは枯れることなく生きながらえたのだ。



 いつ、芽吹いたのだろう。先端に赤みの差した新しい葉は、美しい黄みがかった緑色だ。葉が青々と茂り、やがて蕾を付けて花咲くことがあるのだろうか。

 ナギコさんの心の中で、希望が膨らんでゆく。


 花――そうだ、何色の花が咲くのだろう。

 ナギコさんは洗濯物そっちのけで、ミニバラに見入っていた。出会ったときにはすでに瀕死の状態だったから、かつてこのミニバラが何色の花をつけていたのか知らない。

 赤かしら、それともピンク、白もいいかも。ああそうね、黄色もかわいいわ。ナギコさんは、自然と顔がほころぶのを感じた。

 そして、唐突に「絵を描こう!」と思ったのだ。



 ナギコさんの趣味は、「絵を描くこと」である。

 夫と違って人と接することが苦手なナギコさんだが、子供の頃から絵を描くことは好きで、おしゃべりするよりクレヨンや色鉛筆を動かしていたタイプである。

 心躍ることがあると、突然絵を描きたくなる衝動は、今も昔も抑えることができない。

 ナギコさんはいそいそとスケッチブックを引っ張り出す。宝物の、ステッドラーの三十六色の色鉛筆も取り出した。


 創造の中で花開いたミニバラを紙の上に再現しようと、せっせと色鉛筆を走らせる。気分が良いので、色鉛筆はどんどん走る。

 深緑色で大体のアウトラインを引くと、バランスを取りながら、少しずつ線に肉付けをしていく。茎、葉、そして……花。


 花……、何色にしよう? ナギコさんは、はたと考え込んでしまった。同時に手も止まってしまう。


 ナギコさんは、ミニバラが何色の花をつけるのか知らない。だから、ここは、想像で色を付けるしかないと思った。

 だったら、何色がいいかしら。悩みながら、ナギコさんの人差し指はケースに並ぶ色鉛筆の上を滑っていく。こういう迷い事は、いいわ。くよくよしなくて済むもの。むしろ、楽しい。

 ナギコさんは、知らないうちに鼻唄を歌っていた。



 そうだわ、やっぱり春ですもの。黄色にしよう! 

 ナギコさんの指は黄色の色鉛筆の上で止まる。

 黄色いミニバラ。かわいいじゃない。ナギコさんは思う。実際に何色の花を咲かせるかは、お楽しみ。でも今のナギコさんの頭の中に咲いているのは、黄色い可憐な花なのだ。


 だから黄色よ! 再びナギコさんの手は、せわしく紙の上を動きだした。



 咲いた、咲いた……。

 あら、いやだ。ミニバラを描きながら、鼻唄はチューリップになっている。

 ナギコさんは自分のちぐはぐさにおかしくなった。


 でも、春の花って言ったら、チューリップかしら。菜の花や桜もあるけど、子供の頃はチューリップだったような気がしてきた。

 幼稚園の園庭に咲いていたのは、チューリップだった記憶がある。たぶん桜も咲いていたような気もするが、子供にはチューリップの方が人気があった。たぶん、あのコップのような形状が、子供にはウケが良いのかもと適当に答えを出す。



 そういえば、子供がチューリップの絵を描くと、たいがい赤か黄色だ。ピンクだって、白だって、紫だってあるのに、ダントツ人気色は赤と黄色。なぜかしら? 


 絵を描く人間の感覚からいえば、葉の緑とのコントラストがはっきり出るのはこの二色だし、見栄えもするからわからないでもない。でもほかの色だってキレイなんだから、これは依怙贔屓だわ。ナギコさんは、些細なことに憤りを覚え始めた。



 どうでもよいと云えばどうでもよいことだが、「色」が好きなナギコさんにとっては、なかなかに重大問題だったのである。

 世の中は色にあふれている。特に春は、柔らかでみずみずしい色に染まる。子供たちだって、それは敏感に感じているだろう。なのに、赤と黄色のチューリップに人気が集中するとは哀しい。しかも原色を塗りたくるなんて、言語道断でしょう。デリカシーってものが、無いわ! ナギコさんは憤慨する。


 でも幼児にデリカシーを求める方も、どうかしているわよね。第一子供の使うクレヨンなんて、原色しかないじゃない。あら、問題はそこにあるのかしら。


しかし、もっとよく考えてみれば、チューリップ自体原色の花が多いのだ。もちろん品種改良によって繊細な花びらや色を付ける種もあるけど、広く一般に知られているチューリップという花は、花の色は原色で形状は花弁の先が丸く一重咲きのものだ。

 近所の幼稚園の園庭にあったのもこの種類なのだから、子供が先割れスプーンみたいな形の赤や黄色のチューリップを描くのは仕方のないことなのかもしれないわ。


 ナギコさんは独りごち、なかば強引に結論を導き出すと、同時に絵を完成させた。黄色の色鉛筆を置くと、達成感に満足し、にっこりとほほ笑んだ。





 その日の夜、夫が帰宅すると、ナギコさんは一日の出来事を話し、それから意気揚々とスケッチブックを取り出すと昼間描いた絵を見せた。自信作だったので、夫に感想を求めたのだ。

 ところが夫のショウさんは、笑顔を引き攣らせたまま、頭をひねっている。



 そこに描かれていたのは、バラの葉と茎と思われる緑色で着色されたいびつないくつかの丸とくねった線に、大小のバランスを崩した黄色い楕円形の花びらであろうものを付けた、シュールでキメラな図形の集合体だ。



 ショウさんの目には、どうしてもその大胆な構図と奔放な色使いの図形の乱舞はミニバラには見えない。

 しばらく無言で絵を眺めていたショウさんだったが、この絵の良さがわからないのは、きっと自分に絵心が無いからだろうと思うことにした。

 それから目の前の妻に、「斬新な傑作だね」と称賛の言葉を贈ったのだった。

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