34.裏宇宙航法―12『遷移―1』
「……船内服の機能、ですか?」
後藤中尉に言われて、深雪は自分の胸もとに手をあてた。
主計科室の中である。
自分の席で課業をこなしていると、上官である後藤中尉に話しかけられたのだ。
先に難波副長からあった全艦通達で、〈あやせ〉が本格的な恒星間航行に移行すると達せられた刻限にそろそろ差し掛かろうかという頃合いだった。
本格的な恒星間航行――遷移。
すなわち、光の速度を超えた超光速航行の開始である。
実施一度あたりで数光年から数十光年……、条件が良ければ数百光年の距離を一気に跳び越え移動する。
我々が住まいしているこの宇宙(常空間)と、異なる物理法則が支配している違う宇宙(異空間)――その二つの間を
ついに訪れた今日この日までに、艦船勤務者としての訓練を深雪は一応というか、なんとか
必要はないが、やはり心配だったのだろう。――今回に限り、自身が科長を務める主計科室に後藤中尉は在室していた。
これからの航程で繰り返し実行されることとなる大倭皇国連邦独自の超光速航行技術――裏宇宙航法の特異な光速超越手段を未だ経験したことのない深雪を
そして、
それとなく深雪の仕事ぶりを観察していて、やはり、そわそわと落ち着かない様子でいるのを見て取り、声をかけたのだ。
事前に知識を授けておく。また、誰かと言葉を交わす。――そうすることで少しでも不安を解消させようとしたのだった。
そうして話の内容は、やがて深雪や自分も含め、〈あやせ〉全乗員が着用している船内服に関する説明に及んだのである。
〈纏輪機〉ディスプレイの中から深雪の顔を見つめつつ、後藤中尉は頷いた。
「そう。緊急遷移の訓練が実施された時、あなたも〈連帯機〉とリンクしたでしょう? その経験を含み、どうして船内服にそんな機能が付与されてあるのか考えたことはある?」
「……いいえ」
問われて深雪は目を伏せる。
なんとなく叱責されているような気分になってしまっていた。
「ああ、いいのよ。これまでずっと大忙しだったものね。そこまで気がまわらなくて当然よ。別に落ち度ではないから心配しないで。……まずは船内服の裏地を見てごらんなさい」
少ししょげた様子の深雪をなだめ、後藤中尉はそう促した。
「はい」と答えて、深雪は自分の船内服――その襟ぐりに指を差し込み、ぐいとばかり、かなり強めの力で引っ張ってみる。
着心地が良いため意識することはほとんど無いが、船内服は生地が分厚く頑丈で、かつピッタリ身体にフィット
と言うより、軍より支給をされた船内服は、装着者がはじめて袖を通してより、着衣時間が増すにしたがい自らのサイズや形状を変化させていくようになっているのである。
着れば着るほど、着用者個人の動作のクセといった要素までフィッティングに折り込み、あつらえ以上――唯一無二な感じに最適化していくのだ。
それは、もはや衣服と言うより、新たに追加された宇宙時代の皮膚という表現の方がふさわしいのかも知れなかった。
深雪は詰め襟をわずかにくつろげ、下を向く。
覗きこむ視線の先に、こんもり盛り上がったしろい双つの膨らみと、服の表側とは色合いの異なる裏地が見えた。普通の布地のような風合いの表地と異なり、裏地は一見ゴムかゼリーのような見ばえと質感である。それが素肌に一分の隙なくピッタリ密着している。
ネバネバ、ペタペタ――擬音でいえば、そんな感触を連想しそうな外見なのだが、実際の着心地はちがう。サラッとしていてほぼ装着感はなく、通気性、吸汗性、保温性――いずれをとっても一級品の、実に見事なスグレモノだった。
暑さ寒さはもちろんのこと、汗で濡れることもなく、蒸れたり臭ったりすることもない。どういう仕掛けか、
「目安になるかどうかはわからないけれど、船内服一着で豪邸が買えるんだそうよ」
そんな深雪に、笑みをふくんだ口調で後藤中尉がそう教える。
「は、はぁ……ッ?!」
思わず深雪はのけぞってしまった。
断熱や真空暴露対策をふくめ、簡易的な宇宙服としても使えるその多用途性を思えば高価であるのも当然なのだが、やはり驚く。
(豪邸?! いま豪邸って言った?! 普通の家一軒って言われたってビックリするのに、この服、ゴージャスなお屋敷と同じくらいするっていうの?!)
いまさらなのだが、船内服の相場を聞かされ、身動きひとつできなくなった。
ウッカリ動くと破いたり汚したりしそうで、怖くてたまらなくなったのだ。なまじ子供の頃から経済観念が鍛えられていたのが災いし、心の底から震えあがってしまったのである。
そんな深雪の様子に後藤中尉はクスクスとわらった。日常生活はもちろん、深雪がこれまでに課された種々の訓練等でさんざん酷使(?)してきたことを思えば当然ではある。
「つまりは、宇宙軍がそれだけ将兵を大事に考えているということなの」
座席の上で石像のように硬直してしまった少女をなだめる口調で言う。
嘘ではなかった。
戦闘航宙艦を筆頭に、軍の装備品はそのいずれもが高価ではある。しかし、その中でも、もっとも高価な兵備は将兵だからだ。人命が他のなにものにも代えがたく貴重だとかいったヒューマニズムではなく、実際にかかる金額が、である。
なにも知らない一般人をいっぱしの兵員たらしめるのにかかる教育訓練はもちろんのこと、人間ひとりを食わせて寝かせて養っていくには、機械を
「私たち艦船勤務者は、全員、生体情報を検知するトランスポンダを常に身につけているよう義務づけられているわよね? そして船内服の裏地は、このトランスポンダと一部機能が連動し、着用者の生活環境管理をおこなっている。――保温、保湿や防汚、
「〈連帯機〉は、船内服のこうした管理機能を利用したもの。
「船内服の裏地が温かくなったり冷たくなったりする保温、湿り具合や乾き具合を一定に維持する保湿、更には厚みや硬度、緊縛強度を部分的に変化させておこなう痛痒感の減免、過荷重状態での動作補助を目的とする増力――これら機能を利用して、あたかも服の外から何かが触れてきているかのような錯覚を着用者にもたらすことを可能にしたもの。その錯覚をネットワークで繋いで、〈連帯機〉にリンクしている人間同士が共有できるようしたものなのよ。
「なぜなら我が国独自の超光速航法――裏宇宙航法は、人間ひとりだけではこうむる負荷が過大にすぎて、とても正気を保ってはいられないから」
最後にボソッと聞き捨てならない言葉を口にした。
「え……?」
深雪が目を瞬く。
「あの……、それってどういう……?」
不安な気持ちがおおきくなった。信頼している上官が、遷移の際に気が狂うかも知れないなどとほのめかしたのだから無理もない。
と、
「どういうも何も、裏宇宙航法ってのはそーゆーもんなの。――そう納得するしかないんだよ~ん」
と、そこに、そんなカルい口調で深雪と後藤中尉の会話に割り込んできた者がある。
深雪、後藤中尉の他に、主計科室に席が用意されているもう一人の女性。――言わずと御宅曹長だった。
ローテーション上、不在な筈だが主計科室にいたのだ。
俸給分しか仕事なんかしない、したくないと日頃から公言している人間にしては珍しい。
もしかすると後藤中尉と同様な理由でここにいるのかも知れなかったが定かではない。
が、まぁ、それはともかく――後藤中尉と深雪の会話に言葉を差し挟んだ御宅曹長は、淡々と、と言うよりは、むしろ
「いま現在、〈ホロカ=ウェル〉銀河系に割拠する国々が使用している超光速航行手段は二種類――
「え、ええ。まぁ……」
頷きを返しながらも、そもそもの話し相手だった後藤中尉の様子が気になる。しかし、さりげなくうかがってみても、諦めているのか、問題ナシと考えているのか、御宅曹長の非礼ともとれる横入りに不快な様子を示してはなかった。
正直なところ、〈あやせ〉に乗り組み、艦船勤務者としての訓練をうけるようになるまで、深雪は裏宇宙航法のことなどほとんど何も知らなかった。大倭皇国連邦の臣民としてはともかく、宇宙軍軍人としては問題アリかもしれないが、レッドカードが手許にくるまで生まれ故郷を離れることなど考えたこともなかったのだから仕方がない。
幸い、御宅曹長から
「マイナーだからと言って、決して劣っているわけじゃあないよ? なにせメジャーなスペースワープ航法の方は、ワープ機関を搭載可能な航宙船が、軍艦でいえば駆逐艦クラスが最小サイズだけども、裏宇宙航法の方は艦載機、もしくはもっと小型の観測機材にまで遷移をおこなう
自慢げな顔でニンマリと笑った。
が、すぐにその笑みを消すと、「でもね」と言って、
「でもね、そんな我らが裏宇宙航法にも、実は、ちゃ~んと(?)弱点はある。その最たるモノが遷移の際、乗員に生じる知覚障害――いま中尉殿がおっしゃった『とても正気を保ってはいられない』って部分。……実際、この障害があるから
溜息をついた。
「……どうもね、『知性』とか『自我』とかいった高尚なモンが裏宇宙航法とは相性が悪いようなのよ」
「え……? じゃ、じゃあ人間は……? 人間も……?」
あらためて聞く、『狂う』という言葉に深雪がゴクリと唾を飲み込み質問する。御宅曹長はニヤリとわらった。
「だからこその〈連帯機〉、よ。
「深雪も緊急遷移の訓練で体験したからわかるっしょ? 錯覚とはいえ、あたしら妙齢の女がまっ
両手をワキワキえっちな具合に
「ひ……?!」と深雪が身をすくめる。
〈纏輪機〉の画面越しだが、御宅曹長の手つきに訓練の際、味わった感覚を思い出したのだ。そして、ほのめかされる行為の生々しさに震えあがって
「そんな筈がありますか!!」
たまりかねた後藤中尉が雷を落とした。
「違うからね?! そんなのじゃないから! 常識的に考えたってあり得ないでしょ?! 駄目な先輩の戯言なんて真に受けたりはしないのよ?!」
首筋までも真っ赤に染めた深雪に向かって誤解しないでと訴えた。
「あのね」と、なおも言い募ろうとするが、無情にもそこで言葉は断ち切られてしまう。
傾聴を意味するブザーが〈あやせ〉艦内に響きわたったからである。
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