ブルー

日の出

第1話チューリップの国


あ、チューリップの国か。

彼がオランダ出身だと聞いた時に、一番最初にそう思った。私がオランダについて知っていることは、チューリップ、ゴッホ、木靴、チロリアン、マリファナが合法で、自死の選択が法的に許容されている事くらいだった。


私はチューリップが好きで、家に大きな造花を二つ、ガラスの細長い花瓶にいれて年中飾っている。葉っぱが二枚、軽やかなカーブを描いて垂れ下がり、その間にニョキッと緑の茎が伸びて、先端にはぽってりとしたオレンジの花弁が垂れている。


私はチューリップに少女性を感じる。少女にしか持ち得ないものという意味ではなく、概念として大人の私も宿しているソレだ。カサブランカのようには開ききれない花弁の臆病なかわいげ、ぽってりとしたつぼみにそう感じているのかもしれない。その個性はパキッとした赤も甘やかなピンクにも、どっちつかずの健康的なオレンジ、全てに発揮される。


いつか恋人から花束を貰うなら、チューリップがいいなと思っていた。透明のセロハンの包み紙に、シンプルで長めのリボンをかけてほしい。そしてそんな花束を貰うのは、20代半ばまでだとうっすら思った。なぜだかは分からない、焦ったのかもしれない。今思い返すと、青い気持ちになる。


チューリップの国の彼と出会い、オランダの印象はかなり変わった。というより、知ったという方が正確だけれど。色んな発見と偏見があった。お互いに直面したことのない、現実もあった。


彼は花束なんてくれなかった、特にイベントを大事にするような人でもなく、何も祝う事はなかった。バレンタインが近づいた頃、チョコレートを準備しようと思っていたら、バレンタインはしないよと言われた。少しガッカリした。しかし当日になると、ぼくのチョコレートはどこ?と聞いてきた。職場で沢山貰ったらしく、上司が日本の文化を教えてくれたのだとか。私は、なんだか悔しさと愛おしさ半分に意地悪を言って、ないよ、そんなのと言った。ほんとうはあげたかったな、と思いながら。半ば残念そうに、笑いながらお願いと言ってくる彼とドーナツを食べて、コーヒーを飲んで映画をみた。そうやって、特に普段と変わらない日を過ごした。今度こそチューリップの花束を貰えると思ったのだけど。


私たちは程なくして関係を終わらせた。

短く熱い、トリップしていたかのような時間は、まだ寒い西の空に暮れる赤い夕日の影を残しながら、雪を溶かし去っていった。寒くて雪の多い冬だった。不安定で激しく、とろけるほどに甘い時間だった。チューリップの花束はもちろん貰えず、いつまでも素直になれず、最後まで泣きつけなかった。


チューリップは今でも好きだし、変わらず私の部屋に色を与えている。机の上にそれがあるだけで、青い部屋は随分明るく見える。街の花屋で見かけると、つい思い出す。


花を買い、模様替えをし、失恋の儀式を一通り済ませた。

ほどなくして春の暖かい風が吹きすさび、コートを脱いで街に出てた。

そこには甘さも情熱もなく、ただ穏やかな日常がジワジワと広がっていた。

ここに生きている人々にも日々何かが起こり、それでもなお日常に戻ってくる。

日常を愛おしく感じられることは、幸せなのだ。丁寧に生きていたり、誰かを愛しているわけでもないこの日々は確かな私の日常である。


チューリップの国の彼からは、チューリップの花束を貰えなかったけど、いつか誰かから贈られるという密やかで小さな夢は、恋の傷にも負けずに今でもひっそりと私の中に存在している。

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