ひなかご 9
カミーユはアンリエットと別れると、フランスギクの花束をもって家にはいった。
出かける旨を家人に告げようとする。
「母さん」
母は居間で裁縫をしていた。カミーユを見ると、母は、
「シリルと会ったかい?」
ときいた。会っていない、というと、母はおや、と驚いたような声をあげた。
「お前を捜していたよ」
カミーユはしかたなく花束を母に託してシリルを捜しはじめた。
二階の子供部屋に行こうと階段をのぼっているところで、シリルと行き合った。
「カミーユ」
「私もあなたを捜していたの」
シリルは得心がいったようにうなずいた。
「落ち着いて話せるところはある?」
カミーユはシリルを自分の部屋へ案内した。椅子のかわりにベッドを勧めて、カミーユはその脇に椅子をひきよせて座った。
「話って?」
「君に謝りたかった」
「なにを」
シリルは膝のうえで指を組むと、無表情で天井をあおいだ。
「君はまだ父さんのことが好きなんだな」
シリルは表情を隠すように自分の指へ目を落とした。
「君がずっとうらやましかった。君のほうが、僕よりもずっと父さんに愛されているような気がした」
「そんなことないわ」
カミーユが声を鋭くする。が、シリルはとくに何の感慨もないようすで顔をあげてカミーユを見返した。カミーユがひるんだように目をそらす。
嘘を見抜かれていると思った。
「あなたは飛行機に乗せてもらったこと、ある?」
「父に?」
シリルは首を横に振った。
「子供が行けるような職場じゃないと言っていた」
予測していた答えだった。なぜジォンはカミーユを飛行場に連れていったのだろう。
「僕は父さんに似ている?」
シリルは口の端をわずかに上げた。
「僕はじつは父さんには似ていない。君が僕に父さんの面影を見ただけだ」
「そんなこと、わからないわ」
「いや。君はあきらかに驚いていたよ。どうして僕を見て驚いたのか、考えるまでもないことだ」
カミーユはシリルの着ている緑と茶のラインが入ったシャツをいぶかしげに指さした。
「同じシャツだからだわ」
「よく覚えているね」
「同じ髪形だし、髪の色も同じだもの」
言ってから、カミーユは目をみひらいた。
「わざとやってるの」
シリルは笑みを深めた。
「どうして」
夕刻の金色の光が、窓から差し込んだ。
光に照らされたシリルの顔は、片方の眼窩が黒々と落ちくぼんで、不吉な相をつくっていた。
逃げるように目をそらすと、窓のそとには重厚な煙のような積乱雲が見えた。
十年のあいだ、この家で封じられていた記憶を抉り出すために、シリルはやって来た。
ジォンを切り捨てた家族を、断罪するために。
五月の朝のことだった。カミーユが目を覚まして窓に目をやると、空の底を薔薇色の光が灼いていた。
朝焼けが消えて晴れ渡ったころ、セリーヌとシリルが来訪した。
ぎこちない母の挨拶に迎えられて朝食の席についたカミーユは、セリーヌ親子の異変をすぐに察した。
シリルの腫れたまぶたが、引き攣れていた。
二人のおばあさんも、父も、ひどく疲れた表情をしていた。双子はまだ起きてこない。母が起こそうとしない。
カミーユは不吉な予感を感じながら席についた。胸のざわめきがひどくなっていくのを抑えるために、カフェ・オ・レに口をつける。
口火を切ったのは、母だった。
「おじさんが、戦死したそうよ」
両手でつつんでいたカフェ・オ・レのカップが、引きつけられるようにテーブルに落ちた。
セリーヌは、白い顔に炭をぬりつけたような隈をうかべていた。
「初戦で、ジォンが乗った飛行機が、ドイツの戦闘機に落とされたんですって」
セリーヌの沈んだ声が、カミーユの強ばった身体をふるわせる。
「故障で、弾が出なかったそうよ」
父が拳でテーブルを叩きつける。父はテーブルにひじをついて、頭を支えきれなくなったように手に顔を埋めた。
「死体は、見つからなかったそうよ」
シリルは硬直したまま、テーブルの一点を凝視していた。まぶたがふるえている。泣くのを堪えているようだった。
カミーユは最後にジォンに会ったときの悪寒を思い出していた。
予感を。
わかっていたのに。
どうして無理にでも止めなかったのか。
「故障じゃないわ」
「カミーユ?」
咎めるように母が制する。
「なぜそんなことを言うの」
「あの人は、戦闘機になんか乗れる人じゃなかった。戦争になんか行く人じゃなかった」
身体がふるえる。視界がゆらぐ。目は乾いていた。視界がおかしいのは、激しい眩暈のせいだ。
「人を殺せるような人じゃなかったのよ! 判ってたのに、どうして止めなかったの? どうして」
誰に怒っているわけでもなかった。一番呪わしいのは自分だった。テーブルに顔を伏せる。ジォンを見殺しにした。私が見殺しにした。
破裂するような音とともに、頭上からなにかが降ってきた。
髪からつめたいものが滴り、悪寒が背中を滑り落ちる。服が冷気を帯びて肌にまとわりつく。
顔をあげると、甘い花の匂いが鼻腔をかすめた。そうして、テーブルに、膝のうえに、白いユリの花が折り重なって倒れているのを見つけた。
シリルが空になった花瓶を手に立っていた。冷静な顔がかえって不安をそそる。
「父さんを、侮辱するな」
打たれたようにカミーユは肩をふるわせた。そうして、シリルは静かに花瓶をテーブルに置いて、部屋を出ていった。
その寸前に、シリルの虹彩が揺れるのを、カミーユはぼやけた視界のなかでとらえていた。
身体の芯がすうっと冷える。
ジォンが自殺した可能性をほのめかした。
みずから命を断つ、大罪の可能性をほのめかしたのだ。
吐き気がこみあげる。カミーユは口元に手をあてた。異臭がする。手をはなすと、指にユリの花粉がこびりついていた。
毒々しい黄色の粉が、指を汚している。
「ごめんなさい」
カミーユは視界が涙でふさがれるのを感じながら、セリーヌにむかって言った。
「ごめんなさい」
扉がひらく音がした。顔を伏せたシリルが、大きなタオルを手に自分へ近づいてくる。
シリルは無言でタオルをカミーユの頭にかぶせた。
「ごめんなさい」
カミーユが呟くと、シリルは顔を伏せたまま首を横にふった。肩がふるえている。シリルはタオルをかぶせたカミーユの頭を抱いて、嗚咽を押し殺して泣いた。
崩れ落ちそうなシリルの身体を支える。
憎まれ口しか利かないシリルが、自分に取りすがって泣いている。
カミーユはいままで、シリルに優越感を抱いていた。ジォンをだれよりもわかっているのは自分だと、心のなかで思っていた。
なんていやらしい感情だろうとカミーユは思った。なんて傲慢な感情。ジォンを愛する気持ちは、シリルだって同じはずなのに。自分以上にシリルは父親を愛していたかもしれないのに。
シリルの震える腕に、カミーユは呆然とユリを凝視したまま抱かれていた。
金色の夕焼けの光が赤く染まり、たそがれの青色が部屋をみたしても、シリルは黙然とカミーユのかたわらに座っていた。
「あなたはどうして、ここに来たの?」
闇を動かすのを恐れているような動作で、カミーユは顔を上げた。
「目的があったの?」
「目的は果たしたよ」
シリルの顔は見えない。影がカミーユへ身体を向ける。
「君が父を覚えていてくれれば、それでいいんだ」
影は立ち上がると、部屋を出ていこうとした。
「父は君のために行ったのだから」
扉の寸前で、シリルが立ち止まる。
「父に会うかい?」
闇がカミーユを誘っているようだった。
「会うわ」
「では、夕食のあとで、墓地の入口に」
シリルは光の洩れる部屋のそとへ消えた。
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