ひなかご 8

 ジォンが飛行機を見せてあげる、といった日は、カミーユの十二歳の誕生日の二日後だった。戦争がはじまる寸前の夏のことだ。

 ふたりは馬車でニームへ向かった。

 はじめて見る飛行場は、想像していた以上に広かった。舗装された敷地内には、飛行場の格納庫や司令塔などの建物がならび、その周囲は松や杉などの林が覆っている。

 二人が会社の建物のなかへ入っていくと、整備士やジォンの同僚たちが冷やかしの声とともにふたりを迎えた。

「めずらしく美人を連れてるじゃないか」

「恋人かい?」

 ジォンは不機嫌そうに、

「馬鹿。姪っ子だよ」

といってカミーユをエプロンへ連れ出した。

 カミーユは、飛行機乗りというのはまともな人間が就く職業ではないと聞かされていたので、すこし緊張した面持ちであたりを見回していた。そうして、格納庫からエプロンへ引き出された機体をみると、カミーユはその大きさに目をみはった。

「これに乗っているの?」

「そうだよ。綺麗だろう?」

 深緑色の機体に両翼をひろげた鳥の紋章をつけた飛行機が、なめらかな金属の輝きを身にまとってたたずんでいた。

 主翼と機首に三発のプロペラが並び、細長い胴体と先のほそいすんなりとした翼が、図鑑で見た海鳥のすがたを思わせる。

「ドボワチーヌD・332エムロードという名前だ。おもに人や航空便などを運ぶ、輸送機だよ」

「人も乗れるの?」

「ああ、貴族や金持ちばかりだけどね」

 緑色の宝石の名前は、この瀟洒な機体にふさわしかった。カミーユは飛行機のまわりを歩きながら、こんな重そうな機体がほんとうに飛ぶのだろうかと思った。

「本当に飛べるの?」

「ああ。昔は木や布で飛行機をつくっていたけど、今は金属製だよ」

 ふたりが飛行機を囲んでいると、格納庫のほうから人が出てきた。飛行機のステップを運んでくる。

「臨時便を出すのかい?」

 不思議そうに聞くジォンに、

「君がね」

 と男がジォンを指さした。

「支配人がちいさなご婦人を乗せてさしあげろと言っていた」

「あの人が?」

 ジォンは目を剥いて事務所を見た。

「親戚の子だから、危険な目には」

「なにもアフリカまで飛んでいけと言ってるわけじゃない。観光艇よろしくこのへんを遊覧してくればいいさ」

 ジォンは困惑したようにカミーユを覗き込んだ。

「乗ってみるかい?」

「今日中に帰れるなら」

 ジォンを除く全員が笑いだした。

「子供のほうがしっかりしてらあ」

 ジォンはその後、準備をするために事務所へ戻っていき、カミーユはステップを登って飛行機の客席でジォンを待った。

 ジォンはすぐにやって来た。

「本当に飛ぶそうだ」

 ジォンは信じられないといった表情でいった。ジォンは革の上着と白い絹の襟巻きを身につけていた。

「操縦席のほうへ来るかい?」

「いいの?」

「ただし、周りの機械には手を触れないこと」

 ふだんよりも厳しい表情のジォンに、カミーユはうなずいた。副操縦席の椅子におさまると、カミーユは背筋をのばしてあたりの風景を眺めていた。

「これを着て」

 ジォンから革の上着をわたされる。身の丈に余るそれを身にまとうと、ジォンの強ばった顔からようやく笑みが覗いた。

「大きすぎたな」

 プロペラが回りはじめた。重い震動音がカミーユの耳を覆うように響く。

 ドボワチーヌが滑るように走りだした。

 エプロンから滑走路へ出ると、機体のスピードがだんだん上がってきた。直線のラインを走る機体の唸りが高まっていく。

 カミーユの身体が一瞬もちあがり、そして押さえつけられるように椅子に沈みこんだ。機体が斜めにかたむいている。カミーユはジォンを見た。操縦桿を足のあいだで握って、真剣な目を前方へ注いでいる。カミーユが見たことのない顔だった。胸が高鳴る。カミーユは恐怖を鎮めるために、計器類やスイッチへのばすジォンの手の動きだけを目で辿っていた。

 離陸が終わると、身体を押さえつけていた重力と耳をふさぐ振動から解放された。機体は安定して、プロペラの音がおだやかになる。カミーユは伸び上がって外の風景を眺めた。

 空の深いところを機体は飛んでいた。快晴の空。視界には一片の雲も見えなかった。空の静謐につつまれていくような安らぎを感じる。

 ジォンは操縦桿をかたむけ、方向舵を踏みこんだ。機体が旋回し、太陽の白い光がカミーユの目を灼いた。

「どこへ行くの」

「海へ」

 機体は緑の布のうえを滑るように飛んだ。整然と区切られた緑の畑、小石のような茶色の屋根。針金の道。

 瑞々しい草色の大地から、ギラリと光が放たれた。それは見る間に太くなり紺色の帯となって沼へ注いでいく。

「ここはどこ?」

「カマルグの湿地帯だよ」

 カマルグ、とカミーユはおうむがえしにした。白馬の産地だ。

「白い馬が見える?」

「群になって走っているのが見えるよ」

 地上には深い森と草原がひろがり、いくつも点在する沼が陽光をはじいていた。

「向こうをごらん。フラミンゴがいるよ」

 ジォンが右の方向を指さした。ひときわ大きな沼地に、白い点が散在していた。近づいていくにつれて、フラミンゴの薄紅色が見えてくる。あるものは水上で身体を休め、あるものは光を散らして羽ばたいている。

「すごい!」

 大きなフラミンゴの群が湖を薄紅色に染めている。カミーユは驚嘆の声をあげた。

「ここは渡り鳥が羽を休めるところなんだ」

 ジォンがカミーユに説明した。

「もうすこしで海に出る」

 沼がだんだんひとつにまとまって、広くなってきた。視界を一面の水が覆う。水の色がふいに変わったと思ったら、薄い青緑色のかなたに空を区切る水平線が見えた。

「海に出た?」

 ジォンがうなずく。カミーユは頬を上気させて笑った。

 機はふたたび右に旋回して高度を下げ、水際を走った。ジォンがあまり口をひらこうとしないので、カミーユはジォンの邪魔にならないように黙っていた。

 こんな景色を毎日眺めていられるなんて、操縦士というのはなんていい職業なんだろう。カミーユは真剣にそう考えていた。

「そろそろ帰ろうか」

 ジォンが呼びかけた。

 カミーユはもっと遠くまで飛んでみたいと思ったが、仕事の邪魔になるといけないと思ってジォンの言うことに従った。

 馬車で家にかえるあいだ、カミーユはジォンとなかなか話すことができなかった。

 言葉がのどに詰まって、なにを言っていいのかわからなかった。

 プラタナスの木々の葉に眩しげな目をやりながら、ジォンは話しだした。

「僕は最初、空軍へ入ろうと思ったんだ。でも、戦闘機乗りにはなりたくなかったから、やめた」

 ジォンのはしばみ色の瞳が微妙に翳っている。カミーユは、つりこまれるようにその瞳を青い目に映していた。

「ヴェルダンの戦いはひどかった、って、おばさんたちが」

「ヴェルダンの戦いのころはまだ悠長だった。飛行機から操縦士が爆弾を投げ下ろしていたんだからね」

 カミーユはたしかにジォンは戦闘機に乗るような人間ではないな、と思った。

「地上は美しいだろう?」

 カミーユはうなずいた。

「緑と、光と、街が調和している。見ているとホッとするよ。あんなにきれいなものを壊したくない。そうは思わないか?」

 カミーユは同意した。ジォンが自分と同じように地上の風景を愛しているのだと知って、うれしくなった。

 ふたりは黙して街の風景を眺めていた。午後の飴色の光が古色の煉瓦をやさしい色に染め上げていく。こころよい沈黙だった。一日の光が満ちて終わる瞬間を、ふたりは共有していた。

「北極星は動くと思う?」

 唐突にジォンが聞いた。

「ひなかごの星のこと?」

 カミーユはコレットに聞いた星座の話を思い出していた。空の中心の星のことだ。

 北極星は船乗りたちが目的にする星で、聖母マリアをたたえる星でもある。目印の星なのだから、動かないのではないかとカミーユは思った。

「動くんだよ。ほんのすこしだけ」

「本当?」

「一晩中眺めていると、くるりと小さな円を描く。こんどよく見てごらん」

 カミーユはいぶかしげにジォンを窺ったが、ジォンが嘘を言っているとは思えなかった。

 そんな星を目印にして船は迷わないのだろうか。カミーユは心配になった。

 カミーユは馬車の窓から空を見上げた。暮れはじめた空に、輝く雲がたなびいている。

「空の本当の中心はどこにあるのかな」

「たぶん、どこにもないんだよ」

 宵闇の色に染まる空に話しかけるように、ジォンはひっそりとつぶやいた。

 時間は戻らない。過去をやりなおすことはできない。

 本当はジォンを空軍に行かせたくなかった。ジォンは戦闘機には乗りたくないと言っていたのに。

 でもカミーユはジォンを止めることはできなかった。ジォンと最後に会った日。あれは冬の北西風が嵐のように吹き荒れる、寒い日だった。

 カミーユは窓枠をガタガタと揺らす風を横目に、ベッドのうえで本を読んでいた。

 ドアの向こうからジォンの声がした。

「入って」

 ドアがひらく音とともに、窓がはげしく震えた。

「ひどい風だ」

 本から顔をあげると、カミーユは目をみはった。

「髪――切ったのね」

 ジォンの焦げ茶色の髪がみじかく刈り上げられていた。

「シラミにたかられたくないからさ」

 自分の頭を撫でるジォンを見て、カミーユは首をかしげた。ジォンの目が笑っていない。

「カミーユ。戦争へ行くことになった」

 扉の横の壁にもたれて、ジォンは淡々と言った。

「どうして」

「招集がきたんだ」

「空軍へ入るの?」

「ああ。リオレ・オリビエという飛行機に乗る」

 パイロットとしてはぎりぎりの年齢だが、とジォンは控えめに笑った。目がなくなる、いつもの笑み。カミーユはその笑みに違和感を感じていた。

「どうして行くのよ」

 カミーユはベッドに腰掛けたまま聞いた。声のするどさに、自分で驚く。

「誇大妄想狂のドイツ野郎から、国を守るために」

「戦争のために飛行機に乗るのはいやだって、いったわ」

「状況が変わったんだ」

 ジォンの静けさにかえって激情をそそられる。

「自分がわかってないの? あなたは戦争に行くような人じゃない」

 深い空の色が、脳裏をかすめる。

「あなたは人を殺せるような人じゃないわ」

「カミーユ」

 ジォンの声は低く、やさしかった。

「君は時間を戻したいと思ったことはあるかい?」

 カミーユは息を詰めて、それから首を横に振った。

「僕は一度だけある。ベベが殺されたときだ。ベベは泣いてた。僕を呼んで――でも、そのときだけだ。僕は自分の人生に満足している。僕には守らなければならないものがある」

 カミーユは小さな豚を思い出した。小さな豚が、叔母のセリーヌやシリルの面影が、今のジォンを突き動かしていることに気づいた。

「もう二度と、自分が守らなければならないものが死ぬのを、見たくないんだ」

 カミーユはジォンを止める言葉を失った。行ってほしくない。自分が人を殺したことに傷ついてほしくない。

 カミーユは窓枠から洩れる風の音の大きさに肩をすくませた。

 目が突然熱くなった。涙が目のふちに満ちて落ちる。

 ジォンがベッドに近づくと、その角に腰を下ろした。涙でふさがれた目を閉じてうつむく。

 カミーユの頬になにかが触れた。

 いとおしむように、指が頬を滑る。涙をぬぐって、指は離れた。

 カミーユは顔を上げた。ジォンは歪んだ視界のなかでかすかに笑っていた。

 大きなてのひらに頬が包みこまれる。

 守るべき者のために、だれかを殺す手。行ってしまう。あの空が遠くなる。

 あの空の美しさが、永久に失われてしまう――

 あたたかい感触のなかで、一瞬、氷のようにつめたい異物が、カミーユの頬をかすめた。

 離れた左手に、カミーユは指輪を見つけた。

 冷気が傷のように頬に残った。

 なぜジォンが笑っていることがこんなに恐ろしいのだろう。

「君を飛行機に乗せたときのこと、うちの息子には言わないでくれないかな」

 そっけない口調だった。

「どうして」

「いくじなしだと思われたくないんだ。父親の勝手な見栄だな」

 それにシリルはカミーユを飛行機に乗せたことを知らないんだ、とジォンはつづけた。どうして知らないのだろう、と思いながら、カミーユはうなずいた。

「下へ行くよ」

 ジォンはそっと呟いてベッドから立ち上がった。

「落ち着いたら、下においで」

 ジォンはカミーユの部屋を出ていった。

 カミーユはベッドに横たわった。しばらく呆然と天井を見上げていたが、やがて潮が満ちるように目に涙がうかんできた。

 カミーユは一階へは行かなかった。ゆえに、それがジォンの最後の言葉となった。

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