番外編0 はじまりの日


 ※WTS1より前の時間軸



 青年はとある扉の前に立っていた。緊張しているのか表情は硬く、掌には若干の汗を滲ませている。まるで入学試験や就職試験を前にしている時のような緊張感だ。青年は大きく深呼吸をした後、コンコンと小さく扉を叩いた。返事を待つまでの間がやけに長く感じる。


 この扉は運命の扉だ。青年のこれからの人生を左右するような扉――とまではいかないが、一年間くらいの人生は左右される。合格ならば今年は安泰、不合格ならば――あまり考えたくはない。


「開いてるよ」


 扉の向こうから落ち着いた声が聞こえ、青年は気合いを入れ直す。格上相手に挑む前の戦士のような表情を浮かべながら、青年――北村太一は扉の取っ手に手をかけた。




 彼がこの部屋に居る時間も更に少なくなったが、部屋の主たる威厳は衰えていない。少し古くなった只のキャスター付きの学習用椅子に腰かけているだけなのに、まるで玉座に座る王者のような風格がある。彼は脚を組みながら「よくきたね、太一くん」と穏やかに微笑んだ。


 しかし、太一の心境は穏やかとは程遠い。今から行われる“検問”によっては、地獄を見る事になるからだ。


「太一くん、今日はどんな日かわかるかい」

「氷華の誕生日……」

「ああ。何で天皇の誕生日は祝日なのに、今日は祝日じゃないんだろうな」


 冗談か本気かいまいち判断がつかなかったので、太一は「そうっすね」と無難に同意しておく事にした。一般的に冗談のような内容だが、彼の人間性を考えると本気の恐れもある。


「それで太一くん、今年はどんなものを持ってきたんだい?」

「毎年こうやって事前チェックされるの、何か恥ずかしいんですけど……」

「疚しい事がなければそんな風には思わない筈だよ」

「そういう問題じゃなくて――って、包装紙そんなビリビリにされたらラッピングし直すの大変なんですけど!?」

「あっ手が滑った、ごめんごめん」


 自分の持ってきた氷華へのプレゼントを容赦なく開ける彼に対し、太一は「手が滑る訳ないだろ……凍夜さんなら尚更……」と言って溜息を零した。




 今日は太一の幼馴染、水無月氷華の誕生日である。水無月家とは家族ぐるみの付き合いの為、ホームパーティーとまではいかないが、毎年それなりに祝う事になる。しかも氷華の時は特に、だ。

 その原因ともなる人物は現在、太一が氷華の為に用意したプレゼントを真剣な眼差しで確認している。


 氷華の兄――水無月凍夜は一言で表すと“ちょっと救いようのないレベルのシスコン”だ。自分とも幼馴染である太一の事は一応信頼しているものの、同時に氷華との距離が近過ぎる事がたまにあるので、常に警戒の目も向けている。


 太一と水無月兄妹との関係は少し複雑で、最初は普通に仲睦まじかったものの、次第に太一と凍夜が様々なもので競うようになり――その度に太一は辛酸を舐める結果になった。凍夜が太一を圧倒し続けた事には理由があったのだが、それは別の話で触れる事にしよう。


 そうやって幼い頃から凍夜に打ち負かされ続けた過去もあり、現在の太一は凍夜に対して一種のトラウマを抱いている。自分の意見は何とか主張できるものの、未だに頭は上がらない。

 ここ数年、凍夜は将来を期待される若き天才ピアニストとして海外で活動している為、太一との接点はかなり減ったものの――こうしてたまに顔を合わせる度、凍夜は着実に太一のトラウマを大きくしているのである。




「ストラップか。安物っぽいけどこのデザインは氷華が気に入るだろうから――まあ今年は許してあげるか」

「この時季に探すの大変だったし、こう見えて意外と高かったんすけど」

「いくら?」

「野口二人が旅立つくらい……」

「安いね。福沢なら、まあ――及第点って感じかな」

「俺は売れっ子ピアニストの凍夜さんと違って、しがない一般人ですから!」


 金銭感覚もおかしい凍夜を見て、太一は「やっぱ敵う気がしない」と頭を抱えていた。



 ◇



 本日の主役の氷華は、自室の窓からザーザーと降り注ぐ雨をぼんやり眺めていた。

 今日が誕生日だからという理由ではなく――何故か今日の雨はいつもと違う特別なもののように感じていた。雨量が格段に多いという訳でもない。雨音もこれといった特徴はない。

 だけど何となく、何故そう感じるかすらわからないが――窓の外から目が離せなくなった。


「雷もきそうな天気……」


 これで雷も鳴られては、酷い天気の誕生日だ。梅雨の季節なので雨の年は多かった気がするが、雷までは記憶にない。


「雷……?」


 そう呟くと、何故か頭の中に橙色の髪を揺らした人影が思い浮かぶ。顔までは見えなかったが恐らく青年と思われる人影は、自分と太一の手を取るとそのまま背中を向けてしまった。

 それが異様に気になってしまった氷華は、どこかで会ったかもしれないと記憶を呼び起こす。両親の知り合い、兄の関係者、友達の家族――思い返してみても、やはりピンとくる事はなかった。


「場所……どこで見たんだっけ……」


 知り合いではないとなれば、完全に他人かもしれない。

 例えば買い物に行った時、やけに印象が強かった客とかかもしれない。氷華は色々な場所や景色を思い浮かべてみたが、やはりモヤモヤした感覚は払拭されなかった。寧ろよくわからない風景すら頭の中で描いてしまい、氷華は「ここどこだっけ」と頭を悩ませる。

 かなり幼少の頃の記憶――だろうか。氷華は眉間に皺を寄せて難しい顔をしながら「何だろう、この感じ」と首を傾げる。


 ――でもどこかで見たような気もするし……夢の中とかだっけ?


「こういうのを、デジャヴを感じるって言うのかな……」


 氷華は少し悩んでいたが、下の階から自分を呼ぶ声が聞こえたので考える事を放棄した。

 未だに降り注ぐ雨を見ていると、不思議な思考も洗い流されるような感覚に包まれる。そして氷華は何事もなかったかのように踵を返して部屋を出た。



 ◇



 太一や氷華たちが住む陸見町と同じように、その場所は雨が降っていた。バケツをひっくり返したような大雨。雷の気配も感じる。橙色の長髪がべったり貼り付く事も気にせず、青年は大雨の中でひとり佇んでいた。


 ――何だ、この胸騒ぎは……。


 心臓の鼓動が酷く煩かった。不可解な手の痺れも感じる。何故か震えが治まらない。


「他の同族だけど、それっぽい噂が――って、何やってんだよシン」

「そんなところに居たら風邪引いちゃうよ」


 空色の髪をした色白い青年と、青緑色の大きな瞳が可愛らしい少女が訴える。彼等からシンと呼ばれた青年は、降り注ぐ雨粒を見上げながら「そうか、これが風邪か……?」と呟いた。その発言を聞いた少女は「ええっ、どこか具合悪いの? 大丈夫!?」と慌てふためく。


「おい、シン。聞いてる?」

「…………」


 シンは押し黙っていた。本当にこんな感覚は初めてで、何と表現したらいいのかわからなかったからだ。自分が体調を崩すなんてあり得ない。風邪なんてものも引く筈がないのだ。

 だって青年は、この世界の造物主であり、この世界の神権を持つ管理者――つまり神と呼ばれる存在。だから不調なんて感覚も理解できないどころか概念すらない。


 ――何か、大きな事が起こる……?


 不意にそう思ったシンは、仲間である青年と少女に指示を出す。只の杞憂ならばそれで構わない。しかし未だに、胸のざわめきは治まらなかった。寧ろ、徐々に大きくなっている。

 まるで、何かが近付いているように。


「今から言う場所を調べてきてくれ。何もなければそれでいい。でも少しでも不審な点があれば、すぐに私に報告して欲しい」

「別にそれはいいけど、本当に大丈夫なのか?」

「今日のシン、ちょっとおかしいよ?」

「私なら大丈夫だ。だから、頼んだぞ――カイ、ソラ」


 シンからカイとソラと呼ばれた二人は何かを言いたげだったが、顔を見合わせた後に忽然と姿を消した。恐らく二人は自分が指示をした場所を急いで見回ってくれるだろう。そんな風に確信しながら、シンはぎゅうっと心臓付近を押さえる。


「何なんだ、これは……」


 神の力の均衡を保つ為の石が体内で疼いた気がした。



 ◇



 燃えるような緋色の髪をした青年は、ギリッと奥歯を噛み締めた。空中に漂う土埃が口内に侵入し、ジャリっとした感覚に不快感を覚える。青年は眉間に皺を寄せながら、荒れ果てた大地を放浪するように進んでいた。

 彼が歩む道の後ろには、彼に襲いかかった賊たちの屍が散らばっている。背後に気にする事は一切なく、青年はナイフのように鋭い眼光で、どこに繋がっているかもわからない道をひたすら前へ進んでいた。


「…………」



 ◇



 獣のように獰猛な眼光をギラつかせながら、青年は夜の森を彷徨っている。凶暴な肉食の狼でさえ、青年に対しては近付こうとしない。本能で青年には敵わないと悟っていたからだ。まるで動物の呻き声のような音を発しながら、青年はその場で片手を翳す。


「ああああぁぁあ!」


 持て余した力を発散させる為なのか、青年は癇癪を起こすように叫んだ。同時に周囲には謎の突風が巻き起こり、乱暴に木々を薙ぎ倒していく。暫くして力を使い切ったのか、青年は肩で息をしながら立ち止まった。


 人間の見た目にも関わらず、獣のように獰猛な雰囲気を纏う青年は、この世のものとは思えない奇妙な力を扱う。宝石のような青緑色の瞳をギラリと輝かせ、彼は再び夜の森の闇へ消えてしまった。



 ◇



 自室の椅子に座り、彼は瞳を閉じて考えた。もう彼等には失望してしまった。全て諦めてしまった。この意思だけは揺るがない。


 これから先の未来は視えないが、恐らく明るくはないだろう。もしかしたら腹いせに彼等が立ち塞がるかもしれない――否、それはないか。そう自己完結し、彼は黙って立ち上がる。


「あの人たちは、利用価値がなくなれば容赦なく捨てる。最初からなかった事にするだろう」


 自嘲するように、彼は渇いた笑いを零した。このまま最後になるであろう自室を見納める為、静かに瞼を持ち上げる。彼の菖蒲色の双眸に、光はなかった。



 ◇



 太一や氷華たちが住む陸見町――の隣町。そこのとある学校を背に、帰宅途中の男子生徒が「はあ……」と大きな溜息を零した。

 自分はごく普通の学校生活を送っていた筈なのに、最近どうも周りからの雰囲気がおかしい。同年代のちょっと有名な不良生徒との接点はないし、特に何の変哲もない、普段通りの毎日を過ごしていた筈だ。彼等の気に障るような心当たりは思い出せず、彼は「僕、何か下手な事でも言ったっけ……」と口にする。

 そんな彼の呟きは雨音にかき消えてしまった。陰鬱な気持ちが、雨によって効果倍増だった。


「……早く帰ろ」


 少しでも気を紛らわせるように、彼は急ぎ足で歩く。それ以上に早いスピードで、群青色の髪をした生徒が「再放送」と叫びながら通り抜けた気がした。


「な、何だろう、今の……」



 ◇



「「誕生日おめでとう、氷華!」」

「ありがとう!」

「母さんたちはもうすぐ帰ってくるって」

「俺のとこは料理作ってからくるらしい」

「太一のお母さんの料理凄く美味しいから楽しみ」


 嬉しそうな表情を浮かべる氷華を眺めつつ、凍夜は「前菜は太一くんが作ってくれたよ」と言いながらケーキを差し出す。氷華は「いきなりケーキ……」と苦笑いを浮かべ、夕飯が食べられなくなったらどうしようかと少し戸惑っていたのだが――太一が「ちなみにアイスケーキだぜ」と告げた瞬間、氷華は目の色を変えた。彼女にとってアイスは別腹でもあり、最優先事項でもある。まるで子供のように琥珀色の目をキラキラ輝かせながら「アイス! のケーキ!」と喜ぶ氷華の横で、凍夜は蝋燭を用意していた。


「アイスケーキに蝋燭は溶けるかな?」

「すぐ消せば大丈夫だと思うけど……」

「じゃあ私すぐ消すね! 点けたらすぐ消すから!」

「それ意味あんのか……?」


 太一が蝋燭を刺すのに苦戦していると氷華自らも手伝い始め、火が灯る前に凍夜が部屋の明かりを消してしまい、手元が見えずに携帯電話のライトで照らし――段取りの悪い三人だったが、漸く誕生日らしい形になった。

 火の灯されたケーキの前で、氷華が「じゃあ消しまーす!」と楽しそうに手を挙げる。


「せーの……」



 ――――シュッ



 ――――ドォォォオオオンッ



 轟音が響き渡る。突然の出来事に、氷華は困惑しながら「まさか私の息が……?」と酷く驚いていた。


「それはないだろ……タイミングが奇跡的なだけだって」


 氷華が蝋燭の火を吹き消した瞬間、強烈な光と共に轟音が窓の外で鳴り響いたのだ。凍夜は「かなり大きな雷だったね。もしかしたら近くに落ちたかも」と言いながら部屋の明かりを点けると、氷華も外の様子を見るべく立ち上がるのだが――。


 ――「いつか、必ず……この……運命の、連鎖……を……」


「――え?」


 近くで聞こえた何かの声に、氷華はその場で首を傾げる。


「太一、今何か言った?」

「いや、何も言ってないけど――どうした?」


 太一の返答を聞き、氷華は「……何でもないや」と自分の気の所為だと自己完結しながら微笑みかけた。


 氷華は再び椅子に腰を下ろし、窓の外をぼんやり眺める。

 あの雷が、曇天を切り裂く剣のように――先程まで薄暗かった空には青空が差し込んでいた。




 今日は、はじまりの日。北村太一の相棒――水無月氷華がはじまった日。この世界の管理者に危機が訪れ、世界が大きく揺らいだ日。


 そして繰り返されていた運命が動き出す――全てのはじまりの日。


 これから数年後、太一と氷華は自らの運命を大きく左右する、雷鳴のように衝撃的な出会いを果たす事になる。




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