第136話 運命の選択 水無月凍夜の場合①



 先刻まで公演が行われていた華やかなホールから、次々と観客たちが浮かれ出る。粛然とした老人は「第三楽章の初めの一音。あそこから世界が変わったようじゃった」と評論家のように述べ、若い女性は恍惚の表情で「現代のリスト様のようだわ」と零した。同伴者と感想を言い合う者、暫く余韻に浸る者、ホールから退場を促す従業員――公演中とは打って変わって、賑やかな音を奏でている。


 そんな中、観客たちの様子を気にする様な素振りは一切見せず、青年はホールの裏口を堂々と歩いていた。

 正装で身を固めている、金色の髪をした青年。ぴょんっと立っている逆毛と琥珀色の瞳は誰かを彷彿とさせる。

 そのまま併設されたホテルへと足を進め、関係者用の入口を通り抜けた。エレベーターに乗り込むと、従業員から「お疲れ様です」と挨拶をされたので、青年は小さく笑みを浮かべながら「ありがとうございます」とだけ返す。


 青年は何も言わず、じっと点滅する数字を真剣に眺めていた。青年の横に佇むマネージャーは「今日の反省をしているのかもしれない」と思ったが、実際そうではない。彼は何となく目に留まった数字から家族の事を思い出し、約七ヶ月後に迫る誕生日という名の祭日について考えていた。


 エレベーターが止まり、扉が開く。このフロアは関係者しか居ないので、もう周囲の目を気にする必要はない。今日の仕事も全て終了した。青年は途中で手渡された花束をマネージャーに預け、前髪を留めていたピンを外す。流れるような所作で白い手袋を嵌め、差し出された携帯電話を黙ったまま受け取った。


「今日の公演が年内最後だっけ?」

「はい。年末は少なめにしてますから。だからもうやめてくださいよ、突然帰国するのは」

「仕事に影響出なきゃ別にいい気がするけど」

「俺の仕事に影響出ます」


 マネージャーからの指摘に青年は「……確かに」と同意を見せると、そのまま今後のスケジュールを確認する。仕事量的に、今年はクリスマス前に帰省できそうだ。そうと決まれば報告しておかなければならない。

 青年は少しだけ目を輝かせながら「今さらクリスマス公演追加とか言われても遅いからな」とマネージャーに宣言し、自室の扉を開く。そんな青年の目を見て、長年彼に付き添っているマネージャーは「あれは妹だな」と確信していた。


「さて、と。クリスマスで思い出した。誕生日より先にクリスマス用のプレゼントも用意しないと。氷華、何なら喜ぶかな」


 青年――水無月凍夜は世界で活躍する若き天才ピアニストだ。現在は海外を中心に公演を続け、活動の幅を広げている。

 また、名字から伺えるように、彼は水無月氷華の実兄である。そして、凍夜本人と言動から伺えるように、彼はちょっと救いようがないレベルのシスコンである。


 何事もなかったかのように振る舞ってみせたが、流石に公演終わりは疲労が溜まっている。マネージャーからも解放され、漸くひとりになった凍夜は、そのまま大きすぎるベッドに身体を沈めた。

 ふうっと溜息を吐き、今も遠い場所に居るであろう家族の事を思い浮かべる。徐に懐へ手を伸ばし、隠し持っていた黒く光る銃を取り出して、ぼんやり眺めていた。


「まあ、これを使って今すぐ帰ってもいいんだけど」


 凍夜は認めたくないが、本人は友人と言い張る――シンから「きっと役立つ日がくる」と言われて贈られた怪しい拳銃。友人に対してこんな物騒なものを贈るなんてと呆れていたが、どうやらこれは武器ではないらしい。見た目は正しく拳銃だが、この中に込められた一発の銃弾は特殊なものだった。


 シン曰く、この拳銃は攻撃用ではなく移動用である。銃弾を放てば、一度だけ空間転移が可能らしい。しかも普通の空間移動ではない。強く念じた人物が“これから訪れようとしている場所”へ飛べる。つまり必ず対象者の先回りをして先手が打てる――使い方によっては便利な代物だった。

 只の人間が手にするには便利すぎる上、使い方によっては凶悪なものになるので、そこは“一発限定”だったが。そこまでの代物を贈るくらいだ、「余程シンは俺の事を信用してるんだろうな」と凍夜は理解した。


「もしくは期待か、牽制か」


 どうやら太一や氷華同様、自分にも“才能”があるらしい。だからシンは稀に凍夜を勧誘してみたり、期待するような素振りも見せていたが――凍夜自身は別にどうでもよかった。

 凍夜にとって、世界なんて興味がないし、世界を救う気なんて起きもしない。氷華が居れば、世界なんてどうなっても構わなかった。


「だから敢えてこんなヤバイ力を押し付けて、変な気は起こさないようにって牽制――まあ、あり得るな」


 凍夜がヤバイと評したように、この力は強大すぎる。表向きは便利な空間転移でも――もしかしたら、対象者の未来を大きく変える――なんて事になる可能性もある。そこまで本質を理解していたので、凍夜はこの力を手に余していた。


「ここぞって時に使うべきなんだろうけど、そんな瞬間わからないし……だからってタイミングを誤れば大変な事になるかもしれない。これを使う時は、俺も覚悟が必要だな……」


 盛大な溜息を吐いた後、凍夜は呑気に「これがあればいつでも氷華に会えるかな……せっかくならどこにでも繋がってるドアとかならいいのに」と愚痴を零す。ぼんやりしながら拳銃を眺め、それを側に置いて両腕を広げた。


 寝返りを打つと同時に、ぐるりと視界が揺らぐ。いつのもように、身に余るくらいの部屋が見えた。そのまま瞳を閉じれば、いつの間にか寝ていて――起きたらとりあえずピアノに触れておく。明日はオフだから、そのまま買い物にでも行くだろう。氷華に贈るプレゼントを眺めて、帰宅したらとりあえず再びピアノに触れておく。

 今回も、そんな日常を繰り返す――筈だった。


 ――「不吉な予感がする。だが、何故か“それしかわからない”んだ」


 唐突に、シンの発言が脳裏を過ぎる。どうして今、こんな事を思い出すのかわからないが、何故かその言葉が頭から離れなかった。


 公演後で疲労も溜まっている。できればこのまま寝てしまいたい。シンの事で自分の時間を割くのは不本意だ。


 普段の凍夜ならばそう考えて後回しにするだろうが、それ以上に妙な不安感に支配されてしまった。一度考えたら、気になってしまって仕方がない。一度知ってしまえば、もう後戻りはできない。

 凍夜は上体を起こし、胸の辺りをぎゅっと押さえ付けた。何故だかわからないが、心臓の音が異様にうるさい。


「考えろ、水無月凍夜。何故俺は、あいつの言葉で気を狂わされている?」


 ――あいつは氷華の上司だからだ。認めたくはないが、この世界の最重要人物だからだ。つまり、あいつに何かが起これば、氷華にも何かが起こる可能性が高い。


「って事は、あいつの言葉は無視しちゃいけない訳か……」


 その結論に至った凍夜は、もう一度シンの言葉を思い出し、当時の状況を振り返った。

 そして、今の状況を再確認する。


 ――ちょっと待て。


 冷静に考えたら、確かに不可解だ。


「ふざけた真実だが、あいつは神だ。そんな立場に居る奴が、予測不可能な不吉な予感って……おかしいだろ」


 その違和感に辿り着いた瞬間、とてつもなく嫌な予感がした。心臓の音が更にうるさく鳴り響く。危険信号を訴えるように、凍夜の逆毛がぴんっと立ち上がった。同時に、凍夜もベッドから立ち上がる。


「そんな状況、絶対にヤバイ事が起こるだろ――何か起こってから緊急用のこれを使っても遅いんじゃ――」


 その瞬間、凍夜の視界がぐらりと揺れ、まるで地震が起こったかのような錯覚に陥った。だがその感覚は一瞬で、身体に異常は見られない。手も正常に動く。


「何だ、この感覚……?」


 不可解な現象に悩まされたものの、凍夜は静かに手を伸ばす。シンから贈られた、例の拳銃。凍夜は“今すぐに”これを使う事にした。




 凍夜は心の内で考える。


 ――俺は今、知らぬ間に人生の分岐点に立っているのかもしれない。こんな思い付きで、この力を使うべきじゃないのはわかってる。


 この力を使う事で、何が起こるかわからない。

 どんな影響を及ぼすのかもわからないし、もしかしたら何かが壊れるかもしれない。


 ――それでも。


 転移先で危険な目に遭う恐れだってある。下手したら命を脅かされるかもしれない。そこまで苦労しても、この不安感は拭えずに無駄足になる可能性もあるだろう。

 しかし、凍夜の中では無意識に“今すぐ”これを使わなければいけないという謎の使命感に陥っていた。拳銃を握り直し、瞳を閉じで思案する。


 ――この選択は、間違っているのか、正しいか。俺にはまだわからない。だから、それを確かめに行く。


 月に手を翳すように腕を伸ばし、凍夜は真実に疑問を抱きながら口を開いた。


「俺は世界なんてどうなっても構わない。だから、お前だけは無事でいてくれ……氷華」


 自分の直感だけを信じ、凍夜は躊躇なく引き金を引く。次の瞬間、凍夜の身体は光に飲み込まれ――忽然と姿を消してしまった。


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