第26話
亡霊は、気味の悪い呪縛の言葉を唱えた。
とたんに、筋肉質の腕がやせ衰え、骨と化す。死人であっても苦痛だったのか、彼は一瞬顔をゆがめる。
ミラは驚いて悲鳴をあげた。
しかし、たしかに今までと違う道が、目の前に開いたのだ。
森の結界と亡霊の呪が、ぶつかり合って相殺される。その力は森のほうが勝っていて、すべてを開く力は亡霊にはない。
『早くいけ! 急がねば、村まで戻る道を開く力が尽きるぞ』
そういいながら、亡霊のもう片腕が落ちていた。ミラは恐怖におののきながらも、開かれた道に飛び込んでいった。
今までの森の空気とは違った。
木々ははるかに背が高く、天に届くかと思うほどだ。しかし、木漏れ日は確かに足元まで注いでいる。
木が光を通している。透けているのだ。
きらきらと輝き、そして光を何度も屈折させ、柔らかく滑らかなものに変えている。
あの湖も美しかったが、ここは凛とした冷たさよりも、温かなまどろみ……繭玉に包まれたような世界だ。
足元には七色に輝く苔が生え、ミラが足を踏み込むたびに、透明な水を吐き出した。
思わずこの場所でくつろぎたくなってしまうが、そのような時間はない。亡霊の呪が尽きる前に、彼の心臓を探し出し、戻らなければならないのだ。
ミラは、森に取り込まれそうになりながらも、必死に前を向き、走り出した。
緑の芳しい香りがする。
子守唄のような、木々の囁きが聞こえる。
奥に進めば進むほど、安らいだ気持ちになり、眠くなる。ミラは、自分の頬を叩いた。
眠ってはいけない! 自分に言い聞かせた。
さらに奥に、この世界にそぐわないものを感じて、ミラの神経は逆立った。
亡霊の心臓がそこにある。
一点、墨を落としたように、邪悪な存在が世界の和を乱しているのだ。ミラはその闇を目指して進んだ。
目の前が開けた。
突然、指標となっていた闇の存在が感じられなくなって、ミラは動揺し、あたりを見回した。
光の渦が広がっていた。そして、透明な世界、音、色が……。
七色をたたえる泉の中に、銀白色の幹を持った巨木があった。
ただ、一本だけである。が、その枝は天をすべて覆い、根は大地を覆い尽くしていた。
泉の中に光るのは、木の根が反射した光であり、天から差し込むのはすべて枝をすり抜けた光である。
ミラは、その壮大さに撃たれ、しばらく立ち尽くしていた。
口を開いたまま、巨木を見あげた。
その枝一つ一つに、不思議な実がついている。
丸く透き通った繭玉のようなものが、細い糸でぶら下げられているのだ。宝玉のように光を反射し、あたりをますます明るくしている。
息を呑む。天井からぎっしりと、宝玉は無数に釣り下がっていた。
ミラは目を凝らした。
その青水晶にも見える玉の中に、人の姿が見えるのだ。まだ小さな子供の姿。
ミラは、急に不安になった。
いったいなぜ? あの子たちは……何?
ミラは泉を渡り、巨木の幹に手をかけようとした。
――一人で森を歩いてはいけない――
突然、シルヴァーンの言葉が思い出された。
ミラは、はっとした。
もしかしたら、とんでもないことをしているのではないか? そう思ったときだった。
「ミラ! いけない! 早く戻れ!」
悲鳴にも近い少女の声。グリンティアの声だ。
振り返ると、冷たいグリンティアが見たこともないような形相で、こちらに向かって走ってくる。
なぜ、彼女がここにいるのか、不思議だった。
「え?」
ミラは、すぐには状況がつかめなかった。
あまりのグリンティアの迫力に、何も考えることなく身をひいて、巨木によりかかった。
そのとたん、天を突き破るようなグリンティアの悲鳴が響いた。
ミラは木によりかかったまま、グリンティアの最期の叫びを聞いた。
目の前で、グリンティアは悲鳴をあげるやいなや、引き裂かれたように散って、跡形もなく消えてしまった。
その事実を、ミラの目は見ていたのだが、あまりにも信じられない出来事に、頭が理解できなかった。しかも、グリンティアの死を把握しないうちに、次なる変化が訪れた。
グリンティアの悲鳴は、本当に天を突き破ったのだ。
巨木の枝で覆われていた天に、悲鳴は木霊した。
そして、大地が揺れた。
どおぅ……という唸り声とともに、ミラの背で巨木が振るえている。
ミラはあわてて、巨木の前から離れた。
透き通った青白い幹は、にごった錆色に色を変えていく。そして、悲鳴のような甲高い音を立てたかと思うと、縦に大きく引き裂かれていた。
巨木は鼓動のような痙攣を起こし、開いた亀裂からどくりどくりと赤銅色の液体を流し始めた。
ミラは、驚いてその場を離れようと走り出した。が、苔に足を滑らせて、その場に無様にも倒れてしまった。
透き通った水も、いつのまにか錆色に変わり、そのどす黒さはまるで血のようにすら見える。気が動転して、ミラは立つことができず、ばたばたと血の海でもだえた。
水の奥に、巨木の根に押しつぶされて死んでいる女が見える。
血の海に打ち広げられた髪は、銀というよりは白髪。痩せこけた頬は、大きく開かれた口のためにより陥没して見えた。長い時を生きてきたのだろう、老女の姿だった。
何が起きたのかわからないような表情。青い瞳は、これでもかと言わんばかりに見開かれていて、額には木が突き刺さり、頭を貫通している。
震えた。何が起きたのか、やっとわかりかけたのだ。
「本物のグリンティア?」
ミラは思わずつぶやいた。
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