第20話


 やがてざわめきは聞こえなくなった。明かりもなくなり、暗くなった。

 ミラはだんだんと不安になった。手の主が、何を考えているのか、まったくわからない。

 やがてあたりは真の暗闇となり、かすかに木の幹が光を放つだけとなった。森の奥へと進んでいるのだ。

 村を出ても、シルヴァーンの歩く速度は落ちなかった。

 ミラの足はその速さについて歩けたが、真っ暗で明かりもない道なき道は、夜目の利かないミラには恐怖だった。足のつくところが地面なのか、水なのか、はたまた空気なのかわからない。

 握られている手首は、血の流れが止まりかけて冷たく、痛く感じられた。その指先の冷たさを感じていないのだろうか? シルヴァーンは声を発することもなく、ただ黙々と歩きつづけている。

 怖いのは暗がりだけではない。冷たく痛いのは手だけではない。

 先が見えないのは森の道ではなく、ミラの行く先だった。血の流れが止まりそうなのは、ミラの心臓だった。


 どうして何も言わないの?

 その一言が、口元で凍りつく。


 道に突き出した木の根に足をとられ、ミラは転びそうになった。

 即座に支えられたが、預けた体は優しく抱かれることはなかった。シルヴァーンは、まるで何かに警戒しているように、緊張しながらあたりを見回していた。

 夜目の利く彼の目にも、何もうつるものはなかったのだろう、しばらくすると再び歩き出した。

 小さな事件も状況を変えることはできなかったと知って、ミラはますます気分が重たくなった。

 いったい、二人の間に何が起きようとしているのか? なぜ、このようにすれ違ってしまったのか? 考えてもミラには思いつかない。

 何とはかない信頼の上に成り立った幸せ。簡単に傷つき、壊れてしまう……。

 ふっと、ミラの頭に、その答えが浮かんできた。

 シルヴァーンのことを何一つ知らないのだ。暗闇の道を歩いているように、彼の手だけが頼りなのに。

 そして、彼を信じたいばかりに、ミラはいつも目を閉じている。


 突然、道に自分の影ができる。

 はっとして見上げると、木々の間に上りかけの半月が見え隠れしている。

 開けた場所に出たのだ。シルヴァーンの足も止まった。

 ミラは、息を呑んだ。

 静寂が横たわっていた。

 目の前に、闇色の湖が浮かんでいた。湖面は鏡のように波ひとつなく、月明かりで輝く木々を映している。そして、星までも映し出している。

「きれい……」

 自然と声が漏れた。

 シルヴァーンの手を離れ、ゆっくりと惹かれるように水面へ近づく。水はミラの影を黒々と描き、底のない闇の世界をミラに見せつけた。

 畏怖の念にかられ、ミラが震えたとき、はじめてシルヴァーンが口を開いた。

「許してください……」

 何のことなのか、ミラにはわからなかった。

 水面に映っている自分から、視線を移して彼を見た。銀色の髪に月の光が絡まって、木々と同じようにぼんやりと姿が浮かんでいる。まるで亡霊のようだった。


 足のことだろうか? 

 踊りをさえぎったことだろうか? 

 ここへ無理矢理連れてきたことだろうか?

 何も真実を教えてくれないことだろうか?

 それとも……そのすべてだろうか?


「ミラ……」

 ふたたび声がした。シルヴァーンの影が、両手を広げているのがわかる。

 ミラは走りより、その腕の中に体を預けた。しっとりと夜露に冷たいが、凍るような寒さはない。むしろ、血が全身にゆっくりと流れ、芯より温まってくる。

 痛くもきつくもない、優しい腕。ミラはやっと安心した。

 この場所は静かだ。

 ミラが立ち入るはじめての場所、おそらく禁断の地なのだろう。押し寄せた客人からのざわめきより逃げるには、ここへ来るしかなかったのだ。

「私を許してください」

 シルヴァーンは言葉を繰り返した。ミラは、そっと顔を上げ、暗闇にやっとなれた瞳で、彼の顔を見つめた。

「それは……私の足の事?」

 ミラの言葉に、彼は一瞬戸惑ったようだ。詫びはそのことではないらしい。

「足は……確かに私が暗示を掛けたのです。初めは、あなたが無理をしないようにと……。それから……」

 歯切れ悪く、彼はうつむいた。

「それから……私にもわからないのです。いつでも暗示は解いてもいい状態にあった。でも、ついつい後々にしてしまった。明日でいいだろう、明後日でいいだろうと……」

「では、今日の事?」

 それも違ったらしい。が、シルヴァーンは、ゆっくりと答えた。

「あなたが踊っているところを見るのが、なぜか辛かったのです。とても幸せそうで、輝いて見えて、それこそ、私が望むあなたの姿だったはずなのに……」

 こちらの答えも切れが悪かった。

「私自身、動揺しています。なぜ、このように気が騒ぐのか? 兄たちのせいなのかも知れません」

「エルヴィルのこと?」

 思わず聞きかえした言葉に、シルヴァーンの瞳がきつく光った。

 一瞬たじろいだミラだったが、この機会を逸するわけにはいかない。

「エルヴィルは言っていたわ。『あなたの時は終わっている』って。それはどういうたとえ? グリンティアは『母』だって。それはどういう意味なの?」

 ミラの矢継ぎ早の質問に、シルヴァーンは空を仰ぐようにして、かすかに唇を動かした。

 音はなかったが、エルヴィルめ……と動いたことが、ミラには読めた。

「あなたにも語ったことがある。我らの父が死したとき、父に代わって母を守るべき者が必要だったと……。それが私だと。答えになっていませんか?」

「なっていないわ」

 あまりに辛そうなのでこれ以上聞きたくはなかったが、聞かないわけにはいかず、ミラは短く一言で答えた。

 その言葉に、シルヴァーンは何か考え込んだが、やがて口を開いた。

「母……我がグリンティアは、この森深くに眠っている。そして、夢を……思い出を飛ばして村で生活しているのです。母の眠りを妨げることは、何人にも許してはならないこと。誰かが残された時間をすべて捧げ切り、森を守らねばならなかった。私は、その役目を持って村に残りました。それが、一族にとっては一番大切なことだから」

「一族? エルヴィルたちのこと?」

 シルヴァーンはうなずいた。


 同じ種族にして、エルヴィルは自由の民であり、シルヴァーンは森に囚われている。

 ミラは、宴会の客人たちの様子を思い出した。

 森の主であるグリンティアには敬意を払っても、守り手であるシルヴァーンには何の感謝も示さない。むしろ、軽んじているようにも見えた。

「あなたが犠牲になる必要なんてないわ。誰か……そうよ、今度はエルヴィルが親孝行すればいいんだわ」

 何となく軽薄なエルヴィルの態度を思い出し、ミラは顔を歪ませた。

 その様子を見て、シルヴァーンは苦笑してみせた。

「たとえ代わってもらったところで、捨てた時間が戻るわけでもない」

「きっと、これから取り戻せるわ」

 ミラには、どうしてもシルヴァーンのこだわりがわからない。

 純血種でも混血でも、親の面倒は子ども全員が責任をもつものだ。誰か一人がすべてを捨てて身を尽くすなんてありえない。『時が終わった』なんて、まるで出家したムテの人々のようではないか?

 そう、ほんの数ヶ月でもいい。誰かに代わってもらえばいい。

 シルヴァーンにだって、エルヴィルのように旅をする権利があるはずだ。自由にミラとともに世界を見たっていいはずだ。

 必死に訴えるミラの言葉に、シルヴァーンは微笑みのまま、首をふるだけだった。

「なぜ? なぜなの? だいたいどうして、そこまでして森を守るの?」

「ミラ、何も知ろうとしてはいけない。何も探ってはいけない。母があなたを恐れているのは、あなたがうっかりと母の眠りを覚ますことにならないか? ということだけです」

 同じ希望を抱いてくれない彼の言葉に、ミラは夢が砕けていくのを感じた。

「そして……あなたも……なのね?」


 この森の秘密。シルヴァーンが守ってきたもの。けしてミラには語られないこと。

 足枷の理由。早く出ていてもらいたい理由。よそ者とする理由。

 ミラにはわかったような気がした。

 この世界には、ミラが触れてはならない禁断が多すぎるのだ。

 でも、それならばなぜ、突き放したままにしてくれないのだろう?

 なぜ、愛してくれるのだろう?


 固く唇を結び、声が出るのを押えたが、無駄だった。嗚咽が漏れた。

 自由な足で踊れるミラは、この森の世界をあばこうとする危険な存在であり、グリンティアとシルヴァーンを脅かす存在である。

 人形のようにおとなしく家にこもり、グリンティアの目論見どおり動き、夜にシルヴァーンに抱かれるだけの存在であればいい。


 ――ならば、自由であれなどと、なぜ、願うのか?


「ミラ、違う。それは違う」

 シルヴァーンの腕が、泣き崩れてしまったミラをささえた。彼の指先が何度もミラの涙をぬぐった。そして、唇が涙を吸う。


 ――ならばなぜ、ともに自由であれ、とは願わないのか? 

 何か方法があるはずだ。


「違います。違わないけれど、それは違う……。ミラ!」

 耳元で響く言葉の意味がわからない。しかし、言葉は何度も囁かれた。

 やがて、言葉は吐息と代わり、ミラの首筋を伝わっていった。

 ミラをささえる腕の力が緩み、代わりに肩に重みを感じる。まるで祈るように、シルヴァーンはミラの肩に頭をうずめた。

「許してください。ミラ……。あなたに何も語れないことを……」

 揺らぎのない水面の際、しっとりとした砂地に膝をついて、二人は抱きあった。

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