第17話


 幻想の世界にヒビが入った。

 やや汗ばんだエルヴィルの腕は痛いほど力強く、シルヴァーンの抱擁が幻とすら思えるほどに現実だった。同じ純血種とはいえ、彼はミラのいた世界に属している存在なのだ。

 突然夢からさめたような感覚に、ミラはかえって不安を覚えた。

「余計なことをしてはいけない。飼っている生き物には足枷が必要だ」

 冷たいグリンティアが眉をひそめて、氷のような声で言った。

 グリンティアたちとエルヴィルの隙間に、冷たい風が通り抜け、ひゅるりと音を立てた。エルヴィルは、軽く目を伏せてみせる。まるですまないとでも謝っているようにも見える。

 ミラは何の事だかわからずに、このわけのわからない事態を打開しようとして、不埒な男の腕をふり切り、飛び出した。

 信じられない事実があった。


 足が……動く? 


「足枷か? たしかに必要かも知れないが、この女は踊り子だ。踊り子は踊らなければ生きてはいけない」

 エルヴィルの言葉を、ミラは理解できなかった。

 わかったことは、自分は足が不自由ではなかったということだ。

「どこでもかしこでも、探られては困る」

 グリンティアの冷たい言葉に、ミラははじめて理解した。

「わ、私を自由に歩かせないために?」


 足は治っていた。

 でも、ミラは治ったとは思っていなかった。いや、思わせないように暗示を掛けられていたのだ。

 そういえば、あの時……。

 シルヴァーンを追って家から飛び出した時、不自由なはずの足で走った。思えば、足が治っていなければ、あのように走れるはずがなかった。

 無我夢中だったので、暗示を一瞬忘れていたのだろう。思い出したとたんに、また足は動かなくなったのだ。

 それを、シルヴァーンと同族であるエルヴィルは見抜いて、暗示を解いたのに違いなかった。


 なぜ、このようなたわいもない暗示に引っかかっていたのだろう? 

 いや、それよりもずいぶんとひどい話だ。仲良くしているふりをして、ミラはそこまで他人でよそ者だった。最近のグリンティアたちの優しさが、もしかしたら……と思わせていただけに、余計に悲しくなってくる。

 この森では、けして外れないレッテル。【よそ者】

 ミラは、涙をにじませた目で、冷たいグリンティアの冷え切った目を睨みつけて無言の抗議をした。

 小さなグリンティアが困ったような顔をして、ミラと冷たいグリンティアの顔を交互に見ている。冷たいグリンティアは、はじめてそこにミラを発見したような顔をして、鼻で笑ってみせた。

「もちろんだ。でも、暗示を掛けたのは私たちではない。シルヴァーンだ」


 飼われている鳥が飛んで逃げてしまわぬよう羽根を切るように、馬を繋いでおくように、ミラは自由を奪われていた。

 しかも、それをしていたのは、シルヴァーンだというのだ。

 ミラは、信じることができなかった。


「! 嘘よ! だってあの人は!」

 彼は、ミラに何と言っただろう? 

 早くよくなり自国へ帰るようにと、不自由は似合わないと、その言葉を繰り返していたのだ。

 ミラが悲しくなるほどに、そっけなく接していたのは、自由を奪いたくはなかったからだ。そうミラは悟っていた。それが彼の真の想いだと信じた。

 その彼が、実はミラを縛り付け、閉じ込め、外と触れ合わないようにしていた張本人だった。

「よそ者は知りたがりだ。詮索されるのは、我々は好かない」

 グリンティアの言葉に、何かがガラガラと音を立てて崩れるような気がした。血がさっとひくような音を聞いた。

 癒された心臓が張り裂けて、血を流したのかと思われたが、流れたのは涙だった。

 いつまでたっても、シルヴァーンにとっても、ミラはよそ者だった。

 ミラには、グリンティアとシルヴァーンの秘密に触れる権利はない。それをどこかで感じていたのだろう。

 だから、ミラは知りたいことをシルヴァーンに聞くことを恐れていたに違いない。

 その事実は、幸せの影に隠れて、押し込められていた。幸せは、事実のもとに刃となってミラを切り裂いた。


 突然、エルヴィルが高らかに笑い出した。

 場違いな明るい声に、ミラの悲しみは驚きに変わった。

 グリンティアの凍りついた表情に、やや怒りの色が浮かび、エルヴィルは、ぺこりとおどけて謝ってみせる。外の空気を充分に含んだ男は、どうもグリンティアのペースを狂わせてしまうらしい。

「たしかに秘密はひとつ知るとさらにひとつと知りたくなる。それは困った問題だがね、詮索が嫌なら、あれはこの女を助けない。見殺しにしていただろうよ」

 彼は、呆然と立ちつくしているミラの肩に手を乗せ、耳元で囁いた。

「我がグリンティアの読みは的を外しているな。あれは、おまえを失うのを恐れている」

 シルヴァーンにそっくりな、しかし明らかにもっと強い瞳。ミラは目を白黒させて、エルヴィルの顔を見つめた。

 この男のことが、まったくわからなかった。

 彼はぽんぽんとミラの肩を叩くと、にやりと笑ってみせた。

 あまりにも無礼で、ミラは腹を立てた。

「馴れ馴れしくさわらないでください!」

 怒鳴ると、エルヴィルは高らかに笑ってみせた。

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