万年桜
べたくさ
第1話
はらはらと散りゆく桜を見るのはなんと物寂しいことだろう。男は桜の木を見上げる度にそう思う。
「今年もまた散ってしまいますね……」
隣にいる愛しい人が悲しげに言った。どうにか笑顔にしてあげたかったが、男にはその方法が思いつかなかった。
「また来年も共に見ましょう」
気を利かせて言ったつもりだった。しかし、彼女はふっと俯いてしまう。
「来年、また、会えるでしょうか……」
男は震える彼女の声にしまった、と思ったがもう遅かった。一粒の涙が彼女の頬を伝う。
「会えますよ。……会いにいきます、どんなに時間がかかっても」
男の言葉に、彼女はしっかりと頷き、
「ならば、私はーーーー」
ここ最近、巷では散らない「万年桜」が流行っている。夏になっても散らない奇跡の桜。なんでも山中に迷った一学生が偶然見つけたものらしい。その桜を見つけ、それの下で異性に告白すると成功するとかそういう類の噂が流れている。しかし、その桜を見つけられたものはまだ一人もいない。
「それで万年桜を探せって依頼が沢山きているわけですか……。で、受けるんですか? この依頼」
この学校にはある噂がある。万年桜とは別のもの。それはどんな願いも叶えてくれる変人の存在だ。
この手紙の山は青春に対する依頼書である。変人である彼に直接会うのが怖い生徒はよくこうして手紙を寄越してくる。
青春は深いため息を吐きながら手紙の山を見つめた。
「そんなあるかないかもわからないもの探せるか、却下だ、却下。見つけたきゃ勝手にやれ」
「師匠は相変わらず夢がないですね。実際に見たって人がいるんですよ?」
仮部員である小梅が不満げに言うと、青春はハッと小馬鹿にした笑いを返す。
「阿保が。では、お前はその実際に桜を見た人間に会ったことがあるのか? 直接話したことは? ないだろう。そんな信憑性の低いもの、信じる方がどうかしている。だいたい俺はな、この手の噂が大嫌いなんだ」
青春は語るだけ語って疲れたのか、くあっと大きな口を開けて欠伸をした。
ロマンチストな小梅としてはこの噂を信じたいものだが、青春の言う通りいかんせん信じ難い。何より小梅には意中の相手というのがいないので、夢を見るだけ虚しい気分になる。小梅は手に取った手紙を山の上へ戻した
。
途端、コンコンと小さなノックオンが部室に響いた。依頼人である。青春はまた万年桜か、と内心舌打ちした。
「……失礼します」
入ってきたのは肌が日に焼けて焦げ茶色だが、体型は細くひょろっとしているのが特徴的な男子生徒だった。ネクタイの色からして三学年である。
彼の小さな声を聞くなり、青春は椅子を蹴り上げて立ち上がった。顔には胡散臭い営業スマイルを浮かべている。
「話を聞きましょう」
青春は依頼人を、部室に常備されているソファへと座るよう促した。
ソファに座ると、依頼人は名を植田と名乗った。園芸部唯一の三年生で部長を務めているらしい。
「依頼というのはこれのことなんだ」
本題に入った植田は、懐から何かを取り出すと二人の前に差し出した。どうやら写真らしく、随分昔のものなのか色褪せて黄ばんでいる。桜の木の下に立つ若い男女の写真だ。
「この女性を探してほしいんです」
植田はその写真の中で笑っている女性を指差した。女性の笑みはどこか儚げで、今にも掠れて消えてしまいそうだった。
青春が丁重に扱いながら、両手で写真を手に取る。
「随分古いな……。五……?いや、七十年くらい前のものか?」
植田は小さく頷いた。話を聞くと、女性の隣にいる写真の男は植田の祖父らしい。
「その写真は、祖父が若い頃から大切にしているものです。昔から祖父はその写真の女性のことを僕に話してくれました。彼女は祖父の昔の恋人で、二人は戦争で離れてしまい、以来再開できていないそうです」
植田は他に、祖父の容体が数ヶ月前から芳しくないことを教えてくれた。故に彼は写真の女性を少しでも早く見つけだしたいのだ。
「祖父はこの女性ともう一度桜を見よう、と約束していて、それだけが心残りだって……」
植田の言葉を聞きながら、青春は難しい顔で写真を撫でていた。
「情報はこれしかないのか?」
「裏に彼女の名前が」
青春が写真の裏を確認すると、掠れた達筆な字で立花千鶴、そして植田雄二郎と書かれていた。女性の名は立花千鶴というらしい。
「祖父はずっと彼女を探しているんだ。お願いだ、彼女を見つけてください」
植田は深く深く頭を下げた。彼の膝に置かれているその手は堅く握られて、小さく震えていた。
青春は暫く黙考した後、しっかりと背筋を伸ばすと植田に正面から向き直った。
「その依頼お受け致します。しかし、一つご質問がございます」
「……なんでしょう」
植田がゴクリ、と生唾を飲み込む。緊張がこちらまで伝わって来そうだ。青春は少し間を溜めた後、ゆっくりと口を開いた。
「結末がどのようなものでも、受け入れる覚悟はございますか?」
「どうしてあんなことを聞いたんですか」
小梅は不機嫌そうにドスドスと足音を立てて歩いていく。その後ろには軽やかな足取りで踵の音を響かせる青春の姿があった。
「最初に確認しておくことだろう」
青春はしれっと言う。小梅には理解できなかった。
青春たちに渡された写真はおよそ70年前のものだ。何でもいいから写真の女性の手がかりが見つかれば良いが、もしや彼女は既に他界している可能性も否定できない。最悪の場合、彼女の居場所どころか、生存確認さえできぬまま依頼を達成できず終わることになる。
いやしかし、だからといって自分の保身のために依頼人を不安にさせていいはずがない。小梅はグッと下唇を甘噛みした。
「それで、今私たちはどこに向かっているんですか?」
「お前、知らずに俺についてきていたのか……」
青春は深いため息を吐いた。そして、すっと手を挙げたかと思うと、目の前にある神社を指差した。
「ここだ」
鳥居の向こう側は閑散としていて、女性が一人いるだけだった。青空に真っ赤な鳥居があまりにも映えるものだから、まるで鳥居の先が別世界のような感じがした。
「写真の背景にここの本殿が写っていた。恐らく桜はここのものだろう」
青春の言う通り、植田から預かった写真と本殿を比べてみると、確かに写真の奥にこの神社の本殿が写っていた。青春にとっては当然のことだろうが、たった一枚の写真からこの神社を見つけてしまう彼の頭は異常だ。
「写真の角度からして、桜が立っていたのはここのはずだが……」
「師匠?どうしたんですか?」
桜が立っていたであろう位置の前で急に立ち止まってしまった青春に、小梅は小首を傾げた。青春の視線の先を見ると、小梅も固まってしまった。
そこには大きな切り株があるだけだった。
「神主さん曰く五十年ほど前に雷が落ちてしまい伐採してしまったそうです。ここまで条件が悪いと、彼女を探し出すのは難しいかと」
翌日、植田は青春の話を聞いて、見てわかるほどにしょげていた。何とかしてあげたいがさすがに桜を生やすことはできない。
「どうしましょう……」
「……よしんばこの女を見つけられたとしても肝心の桜がないんじゃどうしようもない」
依頼は止めだ、とでも言うように青春は言った。
しかし、小梅は諦め切れなかった。毎日のように神社に通っては、何か手がかりがないかと探った。何も見つかりはしなかったが、それでも探した。
「貴女、最近いつもいるわね」
数日経って、ある女性が声をかけてきた。小梅が神社に来るといつも見かける女性だ。いつも黒い日傘を差していて顔は見えなかったが、綺麗な顔をしている。
返答に困っていると、女性はにこりと微笑んだ。
「ごめんなさいね、いつも参拝した後何かを探しているようだったから、落し物でもしてしまったのかな、と思って……早とちりでいけないわね」
女性は口元を手で隠しながら笑った。つられて小梅も破顔してしまう。
「探し物でも、落し物でもないんです。ただ、ここの桜が好きだった人がいて、その人を探しているんです」
小梅が桜が咲いていたであろう空を見つめた。そこには今は何もなく、真っ青な晴れ空が広がっているだけだ。女性も小梅の視線を辿り空を見上げる。
「……私もね、会ったことはないけど小さなときから探している人がいてね。その人も桜が好きだったって」
一緒ね、と女性は笑った。
「もしかしたらと思って毎日ここに通っているけれど、もう駄目かしらね……」
彼女の微笑みがあまりに悲しげで、小梅は彼女と別れた後もその顔が頭から消えなかった。
「……ってことがあったんです、師匠!!」
小梅が興奮した様子で語ると、青春はふっと顔を曇らせて黙ってしまった。不審に思った小梅が呼びかけても反応しない。
「ウメコ」
「小梅です。いい加減私の名前を覚えてください」
「お手柄だ」
青春は逆転を予期する笑みを浮かべた。
薬品の匂いが鼻に付く。青春は一瞬だけ顔をしかめた。すれ違う人を横目に見ながらコツコツと踵を鳴らし廊下を進んでいく。
青春は植田、と書かれたシールが貼られた病室の前で立ち止まった。一人部屋、しかも角部屋で助かった。少し重い引き戸をぐっと開く。
「……誰だ」
カーテンが閉められた薄暗い病室の中には、眉の太い、いかにも無骨そうな老人がベッドに寝ていた。植田雄二郎だ。彼は青春を怪訝な顔で睨んできた。
「初めまして、僕は相楽青春と申します。お孫さんに依頼されて、貴方の心残りを払拭しに参りました」
「……孫?何のことだ」
認知症、か。青春はふっと息を漏らした。哀れなことだ、どれほど尽くされようとその想いに気づくことはないのだから。
「立花千鶴さんという女性を覚えておいでですか?」
立花千鶴の名が出た途端、雄二郎の顔つきが変わった。彼女のことは覚えているらしい。
「……覚えている。が、もう会わないと思っていた」
「ええ、彼女は10年以上前に既になくなっています」
雄二郎はゆっくりと目を閉じた。わかっていたのだろう。雄二郎が黙ってしまったので青春は続ける。
「立花千鶴さんにお孫さんがいるのはご存知でしたか? 彼女のお孫さんは、貴方の孫同様にずっと貴方を探していたのですよ」
青春は懐から封筒を取り出した。差出人は立花千鶴、宛名は書いていない。それを差し出された雄二郎は、すっかり細くなってしまい骨ばった手で受け取った。
「彼女はお孫さんに最期の手紙を残した、貴方宛の」
大事に仕舞われていたのであろう。手紙は十年以上経っていても、まだ書いたばかりのようだ。雄二郎は黙ったまま、ビリビリと丁寧に手紙を破いていく。青春は静かにそれを見守っていた。
お元気ですか。
いざという時、貴方が私に会いに来た時に私がいなかったらと思い筆を取りました。
貴方と別れてから長い時間が過ぎました。あれから多くのことが起こり、貴方にどんなことを伝えようかとこれでも迷ったのですよ。今ではもう、貴方の顔も声も曖昧で、この想いだけを頼りに貴方へ手紙を綴りたいと思います。
貴方はいつも桜を見上げては、散るのがよいと言っていましたね。今だからこそ言えますが、私はそれがよくわからなかったのです。桜が散る時はいつも寂しい気持ちで一杯でしたから。ですが、貴方の言っていた通りでした。散ってしまうからこそ、慈しみを感じるのですね。
貴方は桜のような人だったと思っています。貴方と別れてから想いは募るばかりです。もう会うことはないでしょうけれど、叶うのであれば貴方が今、桜を見上げていることを。
貴方に出会えたことを心から感謝しております。
雄二郎は読み終わると、呼吸の仕方を思い出したかのように大きく息を吐いた。
「彼女の字だ」
「当然です。千鶴さんのお孫さんから正式に預かったものですから」
鼻で笑いながら答える青春に、雄二郎は苦笑した。少しだけ雄二郎から緊張が抜けた気がする。
「ようやく彼女に会えた。ありがとう」
「それは良かった。これでもう心残りはありませんか?」
青春の問いに雄二郎は少し思案した後、ぽつりと呟いた。
「……欲を言うなら、桜を見たい」
雄二郎はカーテンに隔てられた空を見上げた。ベッドに殆ど寝たきりの彼の足は筋肉が衰え痩せてしまっており、自身の力だけでは満足に歩けない。
「これまた丁度いい。もう一つだけ貴方にプレゼントがあるのですよ」
「……ほう」
雄二郎は子供のように目を輝かせた。青春は窓際に立つと、ぐっとカーテンの端を握った。
「皆で計画していたんですよ」
先日、青春と小梅、植田の三人は神社の女性の家を訪問した。彼女の名は木野咲、苗字こよ変わっているが、立花千鶴の孫で間違いなかった。
「……ええ、確かにうちの祖母です」
咲は写真の女性を見て言った。そして、急に立ち上がったかと思うと、仏壇の引き出しから一通の封筒を持って来た。
「祖母が残していったんです。この先、祖母を訪ねてくる男性がいたら渡してほしい、と。行先が見つかって良かった……」
封筒には宛名がなかった。しかし封がしており開けることはできない。植田雄二郎宛であると信じるしかなかった。
「祖父はもう長くありません。それまでに二人で桜を見させてあげたかったけど……」
植田の言葉は尻すぼみになってしまった。
桜はもうすっかり散ってしまい葉桜となっている。立花千鶴ももういない。このままでは植田の依頼を遂行することは叶わない。青春は「ふむ」と顎に手を当てた。
「夏に咲く桜、か……」
「あ! 噂の万年桜を探しましょうよ、師匠!」
「阿保が……。あるわけがないだろう、そんなもの」
小梅がいいアイディアだとばかりに言うと、青春は深い深いため息を吐いた。万年桜などただの噂、探すだけ時間の無駄だ。
「だがしかし、枯れぬ桜ねぇ」
青春はある案を思いついた。それはあまりにも手のかかるハリボテだったが、今はそれでも構わなかった。
青春は窓際に立つと、ぐっとカーテンの端を握った。
「皆で計画していたんですよ」
そのまま勢いよくカーテンを開く。一気に入って来た日の光に雄二郎は目を細めた。そして、真っ白な視界が光に慣れ始めて、目の前いっぱいに広がる。
「桜……?」
「いえ、厳密には桜色の紙です」
青春は満足げに笑った。雄二郎の病室に最も近い樹、それの枝先から枝先まで敷き詰められた緑を隠すほどに大量の桜色。全て青春たちが準備したものだ。
「でもただの紙ではありませんよ。いろんな人の願いが込められた紙です」
青春は窓を開けて、一番近い紙を引っ張る。そこにはサッカー選手になりたい、と書かれていた。なんとも微笑ましい。
「病院全体に声かけして書いてもらったんです。それをこの樹に括り付けた。あまりにも簡素でちゃちなハリボテですが、綺麗でしょう?」
窓枠の中に真っ白な世界とピンク色が映えてキラキラ光っている。沢山の人の願いで作られた散らない桜だ。
「……ああ、今までで一番きれいだ」
雄二郎はまるで懐かしいものでも見るように笑った。ふと、千鶴の声が蘇る。
「ならば、私は待ちますよ。ずっと待っております、また共に桜を見られる日を」
さわさわと風が吹き、桜色の樹を揺らした。
樹の下では病院中の人が桜の樹を見物しに来ていた。下から見上げても、桜の樹は実に美しい。
「あ、お疲れ様です、師匠!」
青春が樹に近づくと、真っ先に小梅が彼を見つけて駆け寄ってくる。
「五月蝿い」
「どうでしたか!?」
「……まあ、依頼は達成しただろう」
青春はやれやれと伸びをした。このためだけに近くにある文房具店の用紙を買い占め、ハサミで細かく切り、一つ一つに紐を通し、満遍なく樹に括り付けた。気が遠くなるような作業だった。しかし、結末が結末故に悪い気はしない。
「本当にありましたね、万年桜!」
小梅がハリボテの桜を見上げて、嬉しそうに言った。青春も桜を見上げる。
「……ああ、そうだな」
桜の樹には、「桜が散りませんように」と書かれた紙がゆらゆらと揺れていた。
万年桜 べたくさ @betakusa
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