桜前線の旅人

星留悠紀

桜前線の旅人

 さまざまなこと思い出す桜かな 松尾芭蕉


 おじい様はよく小学四年生になったわたしにはむずかしい話をした。

「桜は想い出の花だ」

 庭先の、ひらひらと花弁を散らす桜を見ながらおじい様はひらひらと呟いた。

「桜に何か想い出があるのですか」

 わたしは、年上のおじい様にけい語を使って聞いてみた。

「それもある」

 と、障子戸のろう下に座り庭に足を向けるおじい様が宣う。

「じゃが、桜そのものが想い出の形なのだ」

 わたしはその言葉の意味が分からなかった。おじい様はよく分からないことを言う。魚が空を跳ねている風景を見た話や、とかげを食べる雲の話。

「よく分かりません」

 わたしは素直に言葉をつむいだ。素直さは美点だとおばあ様が言っていた。

「そうか。ならば、この花弁を見てみるがよい。これは想い出の欠片じゃ。これから過去になるもの。過ぎた本の頁。」

 おじい様は、立ちあがってからんころんと下駄の音を楽器のように鳴らした。わたしは音楽の授業のようで楽しくなりました。おじい様の後に続きます。

「のう。落ちた花弁はどうなる?」

 おじい様がやさしく問う。それにわたしは手を空よりも高く挙げ、風音より大きな声ではい!と返事をするのです。発言するときは、こうするのだと学校の先生が言っていた。

「無くなります!」

 わたしは、お腹の底から答えた。答える声は大きく聞きやすく。

「そうだ。じゃが、われわれは桜の花弁をおぼえている。しかしじゃ、それは想い出の中の存在。保持した想い出はどうなるのか。」

 おじい様は、立ち止まり着物の胸元から一冊の本を出しました。少し前に聞いたその本の作者は、かじいもとじろうという名前でした。漢字は思い出せませんでした。

 その本を開くと、中には一輪の可愛らしい花がありました。可愛らしい花なのですが、それは茶色をしていて、ひどくつぶれているのです。

「これは桜なのでしょうか、別のものに見えます」

 わたしはおどおどと自信なさげに答えたのです。

「左様。形は残っておる。しかし、色が落ちた。色が褪せた。色が失せた。」

 本を再び、着物に戻した。その頃にはわたしたちは、ちょうど桜の木の下に来たのです。

「わしは、桜の木の下に骨をうずめよう。桜のような存在になり、桜前線の旅人に毎年会い、変わり行く今を見てみようと思う。」

 おじい様はどこか遠くを見ていました。わたしにはそれが少しこわく思えました。

「大丈夫、わしはここにいる。」

 おじい様の目を見てわたしはまた、安心するのです。

「ほれ、想い出の時間は終わりじゃよ」

 そう頭を叩かれわたしは……。



 重たい瞳を開けると、仰向けになっていた額に一輪の桜の花が載っていたのです。

 私は立ち上がって、桜を見上げてみました。僅かな木漏れ日がちかちかとして、光を私に届けようとしています。その色の褪せていない桜の花を見て、言葉を呟きたくなりました。

 あぁ、桜前線の旅人が、次に旅先をこの桜をするのはいつのことになるだろう。そんなことを思いました。


「さまざまなこと思い出す桜かな」


 そう呟いて。

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桜前線の旅人 星留悠紀 @fossil-snow

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