第537話 亡霊ではありませんので

「……!?」


ジャヤンタの姿を目にしたリフィが、声にならない悲鳴を上げながら椅子を蹴立てて立ち上がるが、足腰に力が入らないようで床に倒れ込む。


「大丈夫かい?」


胡霜フー・シュアンが手を貸して起こそうとしているが、リフィは青い顔で震えている。

 そんなリフィの様子を見て、雨妹ユイメイはその傍らにしゃがんで話しかける。


「リフィさん、あちらは亡霊ではない、生身のジャヤンタ様です」

「生身……え、生きていたの?」


雨妹の言葉に呆然とそう漏らすリフィだが、すぐにハッとした顔になって雨妹たちをぐるりと見ると、友仁ユレンで視線を止めた。


「もしや全て……全てをご存知だったのですか?」


恐々と問うリフィに、友仁が困ったように眉を下げて答える。


「叔父上にね、二人のことを頼まれたんだ」

シェン殿下に……では、なにもかもが計算ずくで?」


青い顔が今度は白くなっていくリフィを、ジャヤンタが睨みつける。


『楽しそうに茶を飲んで、ずいぶんなご身分だな?』


会話に割り込んできたジャヤンタに、リフィは顔色に微かに朱が混じると、足に力を入れて立ち上がった。


『そうね、あなたの前でのわたくしは、お茶を楽しむことも許されなかった、都合の良い飾り物でしたものね』


静かだが、怒りを込めた口調で言い返すリフィに、ジャヤンタが驚いている。

 恐らくは、これまでのリフィから言われたことのない、そんなことを言うとは想像してもいなかった言葉だったのだろう。


『あなたにとって己よりも下の身分は、全て奴隷なのよ』

『妙な言いがかりはやめてもらおう、人聞きの悪い!』


雨妹には二人の言葉はわからないが、どう聞いても生きていることを喜び合うような口調ではなく、罵り合いである。


『人聞きが悪いなんてない、本当のことだわ。

 私はあなたが嫌いです。あなたが大っ嫌い!』


リフィがそう叫ぶとジャヤンタを指差す。


『見なさいよ、王太子ではなくなり、国にもいられなくなったあなたになにができたの?

 誰も助けには来なかったし、自力で脱出もできなかったじゃない!

 私が助けてあげたのよ!』


リフィに激しく糾弾されていたジャヤンタが、ムッとした顔で言い返す。


『こちらこそ、お前のように人の顔色を窺ってばかりの人間は嫌いだ!

 それにお前に、皆に勝手に期待を背負わされ、行き先の暗い国を希望の国へ変えるという呪いのような力を望まれる、この気持ちがわかるというのか!?』

『そんなのは勝手に思わせればいいじゃない、そうよ、なんで他人の思い通りに動いてやらなきゃいけなかったのよ!?』

『王族とは民の期待の上に生きるものだろう、それこそが勝手な行いだ!』


この後も短い言葉の応酬が続く。

 リフィもジャヤンタも、付き添っていた胡霜や立勇リーヨンたちを振りほどき、つかみ合いにこそなっていないものの、お互いに唾が飛ぶ距離で言い合っている。


「こりゃあアレだね、子どもの喧嘩だ」

「そうかもしれませんねぇ」


呆れる胡霜に、雨妹も苦笑する。

 ジャヤンタを連れてきた立勇とリュも、口論の激しさにあっけにとられている。


「まあけど、気が済むまで罵り合う方がいいのかもね、この二人は」


やれやれという風に述べて息を吐く胡霜に、雨妹も同意だった。

 雨妹とて、誰もが「喧嘩をして本音を言い合えば全てが解決する」なんて考えていない。

 人によっては、一生顔を合わせないことが唯一の解決法になることだってある。

 本音は別のところで発散して、仮面を被ってやり取りする間柄が合っているという場合だってある。

 それに婚約者だから、夫婦だから、お互いを常に深く理解し合わなければならない、などというのは誰かが言っている幻想でしかない。

 夫婦であれ親子であれ友人であれ、どこまでを許せて、どこまでを許せないのか、それをお互いに妥協し合って生きていくのが人というものだ。

 でないと、父や兄が後宮であんなに大勢の妃を集めて暮らすなんて無理であり、あの場所こそが理解ではなく妥協の上に成り立っているのだから。

 しかしリフィとジャヤンタに関しては、お互いの理想が高すぎたのかもしれない。

 その上、お互いに相手が自分を縛る縄のようになってしまっていて、己の理性だけでは解けなくなってしまっていたのだろう。

 国を背負った者同士であるので、個人の思いだけでは動けないだろうし、そこが難しいところだが。


 ――けど怒鳴り合う今のあの二人は、これまでで一番目が輝いている。


 生気に溢れているというのか、ジャヤンタなど、あんなにも声が張れたのかと驚くばかりだ。

 大声に身体がついていかずに頻繁に咳き込んでいるものの、それで黙ろうという様子ではない。

 一方で二人とも王族として躾けられてきたからか、掴み合っての殴る蹴るに発展することはない。

 そうやってこれまでずっと怒りを態度で発散できなかったからこそ、リフィもジャヤンタも心を病んでしまい今となるわけだけれども。

 ――ひょっとしてこの二人が婚約者だった頃、実は会話すらろくに交わしたことがなかったとか、あるかも?

 雨妹がそんなことを考えながら成り行きを見守っていると、扉が外から叩かれた。

 扉の外はミンが守っているはずだ。


 ――さすがにうるさいっていう苦情かな?


 雨妹はそう思いつつ扉を微かに開けて外を窺い、


「え!?」


すぐにギョッとして固まる。


「なぁんか、いい感じに揉めているぅ~?」


何故って、扉の外に何宇ホー・ユウがいたのだ。

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