第510話 ぬるま湯の二人

 そんなシェンよりも、ぬるま湯育ちであるのがリフィだ。

 リフィは自分に経験のないような境遇の者を、「違う世界に生きる人間」だという割り切り方をする。

 それは不遇の姫として育ったリフィなりの、心の防御策だったのだろう。

 けれどそれがやがて、特に貧しい者を視界から切り離すことに繋がっていく。


「自分は可哀想な人間だ」


そう思い込むためには、自分よりも可哀想な人間は邪魔なのだ。

 それは大きな過ちの一歩だというのに、無意識のことでリフィ本人はその過ちに全く気付いていない。

 だが雨妹ユイメイと接していく中で、次第にそんな無意識の心理に気付かされているのだろう。

 それに、沈自身も気付かされたことがある


「きちんと成果を出してみせた人は、ちゃんと褒めるようにしてください」


友仁ユレンからのそのような伝言をお付きの男が持ってきたが、これは友仁からというより、雨妹からの叱責だというのはわかっている。

 そして「褒める」という言葉が、どこか異国の言語のように聞こえてしまった己に、沈は苦笑した。

 なにしろ沈自身こそが、褒め言葉なんて貰えた記憶がないからだ。


 ――母はいつだって、自分自身が一番愛しい人だった。


 沈は苦い思いと供に、亡き母の顔を思い浮かべた。


天元ティエンユェン、わたくしを見捨てないで。わたくしを助けて!』


今でもそんな母の声が耳の奥に響く。

 あの母の存在は、今に至るまで沈に女性を苦手にさせている。

 沈の母は、先代皇帝と現皇帝・志偉シエイとの間に存在した、一瞬宮城の玉座に座した男の皇后であった。

 その男は今「偽皇帝」と称されており、沈はその偽皇帝の子である。

 戦乱当時幼子だった沈は、父母によって突然宮城に連れられて行けば、父が皇帝を名乗り、後宮で贅沢をする母に抱かれ、戸惑うばかりだった。

 それに当時の宮城は父母のような存在に溢れており、似たような子が大勢いたものだ。

 先代の妃たちも未だ居座っていたこともあり、最も宮城が混乱している頃であっただろう。

 それが戦乱も終われば、沈は皇帝の子から政敵の子という立場に変わってしまう。

 偽皇帝の子を処分するかどうかが言い争われている中で、沈の母は命も危うい我が子を心配するでもなく、むしろそんな我が子へ己の命乞いのために縋りついてきた。

 その時の母が、幽鬼のようで恐ろしい姿であったのを覚えている。

 そしてこのことで、沈に女性への苦手意識が植え込まれた。それ以来、沈は女性嫌いを未だに拗らせているのだ。

 けれども当時、後宮の皇后宮に引きこもって育った沈は、母の周囲が世界の全てだ。

 なので母を見捨てるなどという選択肢が、沈の中には存在しなかった。

 母に言われるままに母の命乞いをした沈に向けられたのは、志偉からの憐みの視線である。

 悔しいやら情けないやらで、唇を血が出るまで噛み締めたものだ。

 結果として、沈は死なずに済んだ。

 そして外城どころか内城にも出たことがなかった沈は、後宮から出された時、初めて女と宦官だけの世界の外を見たのである。


「ああ、これまで過ごしたあの世界は終わったのだ」


その瞬間、沈は腑に落ちたようにそう思ったのだ。

 そしてしばし沈のお目付け役をする明と出会い、そこから人生が変わっていくことになる。

 一方で沈の母は尼寺送りとなり、そこでそう長くはない生涯を終えた。

 あの戦乱の時期に、甘い言葉に乗せられて一瞬の頂点を夢見た娘だ。

 己の知りたいことだけを知り、都合の悪いことは見えなかった母は、最後まで初心な少女のようであった。

 むしろああでないと、国の戦乱期に皇后位に就こうなど考えないだろう。

 そんな母と、リフィは似ている。

 けれど母に比べれば、リフィの性質はまだ可愛い方であるとも思う。

 リフィは色々問題があるものの、弱者に手を差し伸べることができる人間だ。

 ただそれが、自身に絡むと途端に認識が歪んでしまう。

 いや、善良で真面目であるからこそ、丹でも宜でも上手く立ち回れなかったのだろう。

 多少の悪意を抱いて生きることができれば、あの王太子をてのひらで転がし、己を優位に持っていけたであろうに。

 沈がリフィへどんなに忠告しても、彼女の心にその言葉は響かない。

 それは沈が皇子――国主一族の男子であるからだ。

 不遇の姫という立場で育ったリフィは、沈のような立場の相手に対して大いに卑屈な劣等感を抱いていた。


「己が王子であれば、こんな扱いを受けなかっただろう」


そうした思いがリフィの根底にあるのだろう。

 けれどそれならば、同じ境遇、いや、むしろもっと不幸な生まれの娘の言葉であればどうだろうか?

 そう思ってぶつけてみた結果が、今のリフィである。


「リフィよ、世の中とは広く、己とは矮小な身であるぞ?」


沈はとりあえず、それっぽい説教をしてみた。

 普段であれば、内心を押し殺した姫らしく品良い微笑みで「承知しております」と答えるのだろう。


「わたくしがとるに足らない存在であることは、よく存じておりますとも」


だがリフィは今、あからさまにふてくされてみせる。

 自分の世界を壊す言葉を一切受け付けてこなかったリフィに、やっと変化がもたらされようとしていた。

 沈とて、色々な術は授けてやった。

 あとはリフィが自ら閉じている檻の出入り口を、開け放つだけだ。


***

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