第344話 こちら、雨妹たちは

さて、場所は百花宮に戻る。

 雨妹ユイメイジンは、シェンやあの宦官がいるあの場から離れて、皿洗い場へと戻っているところであった。


「はぁ、ご飯を食べそこねたぁ」


静がしょんぼりとした様子で、そう漏らす。

 雨妹とて気持ちは同じ、いやそれ以上に口惜しい。

 内心では血の涙を流さんばかりに、あのお邪魔宦官が憎たらしいが、ここは先輩らしく余裕を見せたいところだ。


「運がなかったね、この悔しさは花の宴が終わって食べるお料理にぶつけようか」


雨妹はすました顔でそう言いながら、静を慰める。

 この時間は、結果的に休憩どころか、ただ疲れただけのようなものだ。

 けれど沈という皇子と出会えたことは、最初迷惑だったが幸いだったように思える。

 雨妹にとって揚州とは地図上の名前でしかなかったものが、これで人が住む場所という認識になったのだから。

 沈が述べた蛇やら豪猪以外にも、きっと庶民にとっての名物料理だってあるに違いない。


 ――誰か、揚州の出の人がいたかなぁ?


 情報を集めてみたくなった雨妹が、顔を知る宮女たちの出身を考えながら歩いていると。


 ガタガタッ!


 頭上でふいに物音がした。


「……なに?」


大きな猫が屋根の上を駆けたかのような音に、雨妹は周囲に建っている建物の屋根の上を見上げる。

 今日はどこでもご馳走がたんまり並んでいるので、それにつられて野良猫もご馳走になんとかありつこうと、活発に動いているのかもしれない。

 そんな風に、のん気な想像をしている雨妹だったが。


 ガタタン!


 また物音がして、今度はなにかが屋根から落ちてきた。

「……!」

その落ちてきたものを、雨妹はギョッとして見つめる。

 大きさは野良猫ではなく、その数倍では足りないくらいに大きい。

 というか、落ちてきたのは人である。


「なに、なに!?」


突然のことに怖がる静を雨妹は背後に庇いながら、落ちてきた人を観察する。

 動きやすい格好に頭巾で顔をすっぽり覆った姿で、これはもしや後宮でも幾度か見かけたことがある、あの護衛の人ではないだろうか?

 黒ずくめではないのは、今が日中だから逆に目立つからかもしれない。

 そして怪我をしているのか、服に血が滲んでいる。

 怪我人となると、「手当をしなければ」と咄嗟に考えてしまうが、雨妹はそんな己に制止をかけた。


 ――いやいや、敵の侵入者っていうこともあるから。


 東国に気をつけろと、雨妹はなにかにつけて忠告を受けていたので、さすがに覚えていた。

 そして雨妹はこういう格好の人の中身が、敵か味方かの判断をつける手段を、今の所持ち合わせていない。

 しかし、この落ちてきた人はどうやら味方だったようだ。


「逃げなせぇ、ゲホッ、走るんだ……!」


落ちてきた人が、雨妹を見て声を振り絞ってきたではないか。

 この人がこう言うからには、なにかある。

 雨妹は静の手を掴むと、即座にその場から駆け出す。


「ねえ、なにっ!?」

「わかんない!」


怯えて混乱する静に、雨妹も正直に返す。


「けど危ないっぽいし、人がいるところまで逃げるよ!

 なにも考えずに走る!」

「……うん、わかった!」


雨妹にやるべきことを告げられ、引っ張られるままであった静も、ちゃんと自分で走ってくれるようになる。


 ――ここから一番近い、人がわんさかいる場所、どこ!?


 雨妹は頭の中の地図で必死に検索していたが、敵は雨妹たちをこのまま逃がす気はないらしい。


 ヒュン!


 風を切る音がしたかと思ったら、雨妹の足に細い縄が絡みつく。


「うぎゃ!」


これに雨妹は体勢を保てず、地面に転がってしまう。


「雨妹!」


静が雨妹を立たせようと、足に絡んだ縄を解こうとする。


 バサァッ!


 そこへ畳みかけるように、網が放たれたのが見えた。


 ――いけない!


 ドンッ!


 雨妹はとっさに、静を突き飛ばして己から離す。

 その時静の腕に引っ掛かったらしく、雨妹の髪から簪が抜けた。

 その直後、雨妹は襲い掛かった網に捕らわれるが、静はかろうじて網の外だ。


「雨妹……」


地面にへたり込んで泣きそうな顔の静に、雨妹は叫ぶ。


「一人で逃げなさい! 先輩命令よ!」


雨妹が響かせた大声に、静はビクッと背筋を伸ばすと、その手に当たった雨妹の簪を反射的に掴み、立ち上がって再び駆け出した。

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