第283話 名前を書く
後宮では定期的にある露天市以外に、常時買い物ができる店がちゃんとある。
しかし店があるのは後宮と宮城との狭間の宮であり、そこまで出向いたとしても、本当に必要最低限の物資しか置いていない。
というより、他の宮女たちが文字の勉強をするとなれば、そうした店に出向いて自力で筆記用具を揃えるか、誰かのお下がりを貰うこととなる。
それが楊からこうして筆と木簡を揃えてもらったのは、とても有り難いし特別なことなのだ。
静のことは恐らく、生活の全てで予算が貰えるのだろうけれど、あまりなんでもかんでもを揃えてやりすぎると、宮女の中で「特別扱いだ!」と悪目立ちしてしまう。
楊としても、これがギリギリの援助だったに違いない。
――自分で稼いで身を養う、っていうことも勉強だしね。
まだ子どもだとはいえ、この先静の保護者たり得る者が現れないとも限らないのだ。
杜の言う通り、自力で生きる術は確かに必要だろう。
「静静、今度買い物にも行ってみようね」
「うん!」
雨妹がそう勧めると、静は期待満面の顔で大きく頷く。
たとえ品揃えが悪いとしても、「いつでも品物が手に入る」ということは、ド田舎者からすると画期的なことなのだ。
それはともかくとして。
それから静は何度も自分の名前を木簡に書くにつれて、名前を書き慣れてきたようだ。
こうなると他にもなにかを書きたくなるもので、雨妹は静と楊に貸してもらった文字見本を一緒に読んでいく。
文字見本は文字と絵が一揃いで載っており、絵が文字の説明になっているようだ。
誰かがこの文字見本を編み出したのだろうが、なかなか考えたものだ。
この見本を手本にして、早速静は簡単な挨拶などを書いていく。
――まるでクレヨンと落書き帳を貰った子どもみたい。
雨妹は微笑ましく思いつつも、静が目をショボショボさせてきた頃合いを見計らい、本日の勉強は終わりにすることにした。
「そうだ、はいこれ」
そして雨妹はまだまだ十分にある木簡を、全て静に差し出す。
「静静、この木簡はあげるからさ、今度からこれに日記を書いてみようか」
「日記? なにそれ」
このように告げる雨妹に、静が首を捻る。
「その日にあったことを記録しておくのが、日記だよ。
短くてもいいの、『今日は寒かった』とか『すごく疲れて眠い』とかね」
「ふぅん、文字を書くような偉い人って、そんなわけわからないことをするんだね」
雨妹の説明に、静はそんな納得の仕方をする。
偉い人がみんな日記をつけているかは定かではないが、記録をつけるということは、なにがしかでしていることだろう。
――自分が日常で使う文字を覚えないと、意味がないものね。
それでいうと、日記はうってつけなのだ。
「書いた木簡は私に見せなくてもいいよ、自分で保管しおいて」
雨妹がそう付け加えると、静がとたんに不安顔になる。
「え、ちゃんと書けるかわからないから、見ておくれよ」
「最初からちゃんと正しく書けなくったっていいの!
『間違うかも』とか『正しいかな?』とか考えながら書いても、楽しくないでしょう?」
前世でも文字を習いたての子どもなどは、文字なのか絵なのか判別がつきにくい不可思議な文字を書いたりしていたものだ。
最初から見本を綺麗に写した完璧な文字を目指さなくてもいい。
「う~ん」
けれど不安顔の静に、雨妹はなにか文字を楽しく書くことはないかと、考えを巡らせる。
「そうだ、ダジャさんに手紙を書くのはどう?
こっそり頼んで届けてもらうことはできると思うよ」
雨妹の思い付きに、静は一瞬顔を明るくしたものの、すぐに沈ませる。
「……ダジャは字を読めない」
「読めなくったって、誰かに読んでもらえるじゃない。
それとも案外、ダジャさんも読み書きの勉強をしていたりしてね?」
雨妹がそう言うと、静はようやく微笑んで「手紙、書く」と述べた。
どうやらやる気になってくれたようだ。
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