第200話 記憶

「しっかりしろ!」


ミンが励ましながら、ドォン雨妹ユイメイたちの元へ運んできた。

 騒ぎを起こしてシュの演奏を止めるわけにはいかないので、雨妹たちは演奏が聴こえる範囲で離れた場所へ移動する。


「なにがあった?」


ドゥが短く問うのに、明がまるで上司に対面しているかのように背筋を伸ばした。


「は、この東が琵琶師を見たいというので、見える位置に移動したところでこのようになったのです」


雨妹はこの報告を聞きながら、東の様子を診る。


「ヒュッ、ヒュッ!」


東は上手く呼吸ができないようで、息苦しそうに蹲っていた。


「過呼吸を起こしているみたいですね。

 東さん落ち着いて、まずは息を吐きましょう」


雨妹はできるだけ穏やかな口調で、背中をゆっくり撫でながらそう声をかける。


「吐いて吐いてぇ~吸ってぇ~、はい、やってみましょう。

 吐いてぇ~」


「ゲホゴホッ!」


雨妹が深呼吸を誘導すると、東はすぐには出来ずに咳き込む。


「焦らなくてもいいですからね、吐いて吐いてぇ~吸ってぇ~」


それでも雨妹は急かさないように気を付けて、根気強く語りかけていると、東は次第に呼吸がちゃんとできるようになってくる。

 雨妹は誘導しなくても東がきちんと呼吸できるようになったのを見計らい、語りかける。


「落ち着きましたか?

 東さん、どうして具合を悪くしてしまったのですか?」


こう問われて、東は改めて呼吸をする以外のことに意識が行ったようだ。


「あの、ここは、どうして、私は……」


東は混乱するように切れ切れに言葉を紡ぐと、青い顔をしてキョロキョロと周囲を見回す。

 なにかを訴えたいようだが、考えていることに口が追い付いてないらしい。


 ――これは、一旦落ち着かないと話は無理っぽいな。


 東の心になんらかの変化があったのは確かなようだが、情報過多のせいで混乱しているように見えた。


「東さん、大丈夫ですから、ほら、今はあの琵琶の音だけを聴いていましょう」


雨妹はそう告げると、持っている頭巾用の布で東の目のあたりを覆って視界を遮る。

 一旦目から入る情報を遮断して、落ち着かせようと思ったのだ。


「ああ、この琵琶の音だ……」


東の身体から、ふっと力が抜けた。

 杜と明もこちらのやり取りを聞いていたらしく、東と同じように黙って琵琶の演奏に耳を傾ける。

 そしてしばらくして、杜が口を開いた。


「あの琵琶の音は呼んでいるようではないか?

 あの琵琶師が一番会いたいと願う者のことを、たとえ幽鬼になり果てていたとしても会わせてほしいと」


杜の東に語りかけるようでもあり、独り言のようでもあるその言葉に、東の肩がビクリと跳ねる。

 雨妹は思う。

 記憶を失った東が徐の恋人であるならば、この心を震わせる琵琶の音が、記憶の奥底で眠っている心に響かないなんてことが、あるはずがない。

 雨妹はそんな確信と、願いを込めて東に問いかけた。


「この琵琶の音が呼んでいるのは、あなたではありませんか?」


「私を、呼んでいる……」


そう呟いた東の目元にあてられた布が、じわっと濡れ出す。

 雨妹がそうっと布を外すと、東は泣いていた。


「今なら答えられるだろう、お前は誰だ?」


杜の質問に、東は泣き顔のままじっと廟がある方を見つめたまま、答を紡いだ。


「自分は、朱仁ヂゥ・レン、商家に婿に入るはずだった男です」


東――いや、朱の答えに、雨妹は杜と目を合わせて頷き合う。


 ――やっぱり、そうだった!


 朱仁とは、徐の実家に婿入りをするとされていた男の名である。

 謎がひとつ明らかになってひそかに興奮する雨妹だが、杜による朱への問いは続く。


「朱とやらよ、そなたはこれまでなにをしておったのだ?」


そう己に発せられる杜の声になにかを感じたのか、朱が涙を乱雑に拭って姿勢を正す。

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