第54話 宿屋にて

 ともあれ軒車を建物の前に横付けすると、店内から店の者が飛び出してきた。


「ようこそお越しくださいました」


「やあ、世話になるよ」


丁寧な態度で出迎えられ、太子はゆったりと応じた。

 出迎えの者は相手が太子だと気付いてはいないだろうが、軒車に乗るのは金持ちだと決まっている。

 これが身なりが貧しく見えると断られたりするのだろうが、おかげで特に揉めることもなく。

 すんなりと店内に通されたら、旅券の確認を終える。


「お部屋はどうなさいますか?」


そう尋ねる店の者の視線は雨妹(ユイメイ)に注がれている。

 どうやら宿には使用人用の部屋もあるらしく、お供の雨妹にはそちらがあると勧めているのだろう。

 酷い場合は供には部屋が無くて厩で一泊ということもあるので、これは高級宿だからこその破格の待遇と言える。

 しかし太子はこの勧めを断り、なんと近衛である立勇(リーヨン)と同じ格の部屋を用意してくれた。


 ――別に、使用人部屋でもよかったんだけど。


 この宿だったらきっとそちらの部屋だって、下手な安宿よりもいい部屋だったに違いない。

 けれど格の高い部屋に泊まれるのが嬉しかったのも事実であり、雨妹は思わず頬を緩ませる。


「あの、ありがとうございます」


小さく礼を言うと、太子は微かに笑みを浮かべた。


「なに、ケチな主だと思われたくないからね」


こうして部屋を決めたところで、宿についての説明を受ける。

 ここは役人用宿のように全てが宿側で揃えられており、食事も提供しているという。

 お金持ちだと、旅をするのも楽なものらしい。

 それに一階が食事処でもあるようで、部屋に案内されがてら通り過ぎる際に眺めた食堂は、そこそこ賑わっていた。


 ――この分だと、ご飯に期待できそう!


 しかも沐浴までできて浴槽が使えるという。

 旅の最中に湯に浸かれるとは、さすが高級宿である。

 そうして雨妹が案内された部屋は、広さのある室内に立派な床几(ショウギ)とフカフカの布団、お洒落な机のある上品な内装だった。

 寝るには今世で一番贅沢な部屋である。

 雨妹としては部屋でゆっくり落ち着きたいところだが、先に沐浴で旅の汚れを落とすように勧められる。

 時間的にしばらくしたら夕食なため、その前にさっぱりした気分で食事をしてもらおうという心配りだろうか。


 ――じゃあ早速お風呂へ行こう!


 こうして素直に沐浴場へ向かえば、なんとそこには世話人がいて。

 その人から洗髪してもらえ、なおかつ髪を丁寧に拭ってもらえるという好待遇ぶりだった。

 多分雨妹のことをただの使用人ではなく、いい家の娘だと思われたのだろう。

 この国にはドライヤーなんてものがないので、洗髪した後は自然乾燥に任せるのだが。

 世話人に手触りのいい布をふんだんに使って拭ってもらえば、当然乾くのも早いもので。

 おかげで夕食の部屋に向かう時には、さっぱりした姿でいた。

 夕食は一階の食事処ではなく、宿の一室を借りての食事らしく。

 ホカホカ状態で夕食へ行けば、そこには既に太子と立勇がいた。

 どうやら雨妹の沐浴が一番長かったようだ。


「お待たせしてしまいまして、申し訳ございません」


「いいんだよ。

 寛げたかい? 雨妹」


謝る雨妹に、太子が尋ねて来た。


「はい、明様のおかげで得しちゃいました」


「君はいつも働き詰めみたいだからね、ご褒美だよ」


正直に告げると、太子は楽しそうに笑ってそういった。

 それにしても太子も立勇も沐浴後のために髪がしっとりとしているためか、色気のようなものが滲み出ているように思える。

 一方で雨妹が沐浴場にあった鏡を覗いても、そんな雰囲気は微塵も出ていなかった。この差は一体なんであろうか?

 ともかくこうして雨妹が揃ったところで、夕食となるのだが。

 これが後宮であれば先に太子が食事をして、雨妹と立勇は待機か、もしくはどちらかが毒見をするかだろう。

 しかしこの場では、太子は雨妹と立勇に一緒に席に着くように促した。


「こんな時くらい、誰かと食事をしたいんだよ」


そう言われても、「はいそうですか」と座るわけにもいくまい。

 どうすればいいのかと立勇を見ると、あちらは即座に椅子へ着いた。


「こうした場合、意見を下げられることはない。さっさと座れ」


近衛の立勇にまでそう言われたこともあり、今度は雨妹も素直に座る。

 すると早速料理が運ばれて来て、まずは前菜の皿が並ぶ。


「さあ、食べようか」


太子の合図が出ると、立勇が真っ先に料理に箸を伸ばし、それぞれの大皿から一口分ずつ取る。

 普通なら立場が上の者が先に食べるのを待つのだろうが。


 ――やっぱり毒見するんだ。


 こんな宿の食堂で毒の心配があるとは思えないが、必要ある無しに関わらず、形式を踏むことが大事なのかもしれない。

 だが本来毒見役をするべきは、一番下っ端な自分のはず。

 そう気づいた雨妹は皿と箸を手にすると、立勇と同じように各大皿から一口分ずつ取る。

 その様子を立勇が眉を上げて見る間に、サッと口に運ぶ。


 ――美味しい!


 春雨の和え物はさっぱりとした口当たりだし、叉焼(チャーシュー)も食欲をそそる味付けだ。


「た、じゃない明様、美味しいです!」


「そうかい? ならよかった」


雨妹が思わず報告すると、太子も料理を取り分けようとしていた手を止め、微笑ましそうに笑う。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る