第43話 安心できる場所

こうして雨妹ユイメイは、大偉ダウェイ皇子から離れることができた。

 回廊の角にいた立彬リビンは移動したらしく、大偉皇子から見えない辺りで待っている。

 そこまでたどり着いた雨妹は、安全な場所まで来れたことで気が抜けたのか、足がもつれるように地面にへたり込む。


 ――助かった、無事だよ私の髪!


 もみくちゃになったせいでボサボサの髪だが、とりあえず無傷だ。

 それがなによりも嬉しい。

 雨妹だって女なので髪は大事であるし、あんな短剣で切られるなど冗談じゃない。

 そんなことにならずに幸いだったが、できれば今すぐに洗髪を始めたい。

 大偉皇子に頬ずりされた感触を洗い流したい。


 ――まだ寒いけど、この際井戸の水でもいい!


 雨妹がそんなことを考えつつ、とりあえず落ち着こうと大きく息を吐くのを、立彬は黙って見ていたのだが。


「全く、用があり呼びに行けば配置場所におらず、探せば危ない御仁に引っかかっているとは。

 一体なにをしていたんだ」


そうため息交じりに言われて、雨妹は見上げて言い返す。


「その危ない御仁とやらが、あんなところをウロウロしていると思わなかったんですよ!」


皇子が一人で回廊を歩いているなど、誰が思うだろうか。

 妃嬪(ヒヒン)たちもそうだが、皇子や公主だって自ら動かずとも、用事を済ませるための側仕えがいるものなのに。

 葉っぱをくっつけて茂みを突っ切っていた友仁ユレンとの出会いは、あくまで例外だったのだ。

 それにしても、短剣を向けられた時にはヒヤリとした。

 あの刃が、雨妹の身体ごと髪を切り裂かなかったとは限らないのだ。


 ――やばい、今ごろ怖くなってきた……。


 雨妹は今更ながら恐怖を覚え、身体が震え出す。

 辺境育ちで都会っ子よりも多少身体が動くとはいえ、刃物を向けられる生活をしたことはない。

 そんな自分に、短剣を平然と振り下ろそうとした大偉皇子を思い出すと、冷や汗が出るのがわかる。

 ついさっきまで友仁皇子と楽しく饅頭を食べて体の芯までぬくぬくだったはずなのに、今は寒くて仕方がない。

 そんな雨妹の様子を見ていた立彬が、前に屈むとそっと腕を伸ばし、髪がぐしゃぐしゃなままの頭に手を置いた。


「平気か?」


そして静かな口調で問いかけてくる。


「……髪、切られるかと思いました」


そう呟いて一人震える雨妹をどう思ったのが、立彬が手を使ってぐしゃぐしゃの髪をそっと梳いてきた。


「怖い思いをしたな」


髪を整えながら言う立彬に、雨妹は肩の力が抜けるのを感じた。


 ――あったかい手。


 同じ手でも、大偉皇子のものとは違う。

 少なくともこれまで、この手が自分に危害を加えたことがない。

 そのことに安心すると、雨妹の寒かった身体に少しずつ熱が戻って来るように感じる。

 立彬はしばらくそうしたままでいてくれたが、やがて雨妹が落ち着いたのを見てとったのか、「立てるか?」尋ねてきた。


「また大偉皇子殿下と遭遇したら厄介だ、動けるなら早く行くぞ」


この言葉に、へたっていた雨妹はすっくと立ちあがる。

 あの皇子とまたばったり遭遇、なんてことには絶対になりたくない。

 今度は礼儀なんぞかなぐり捨て、悲鳴を上げて逃げるだろう。


「行きます、さっさと行きます!

 そう言えば私を探していたんですか?」


「そうだ、だからここから移動するぞ」


立彬がそう言って雨妹が握ったままだった簪を取ると、簡単に髪を巻いてさしてくれたので、ボサボサ髪よりも少しは見れるようになった。

 こうして元の場所に戻らず、さらにどこかへ行くこととなった雨妹だが。

 喋ったら声を聞きつけた大偉皇子が出てきそうな気がしてしまい、黙ったまま足音も忍ばせて立彬に続くことしばし。

 立彬に連れていかれた場所は、やはり太子宮だった。


 ――やっぱりね!


 半ば予想していた通りである。

 立彬は太子に言われて雨妹を呼びに来たに違いないので、向かうのはここしかないだろう。

 そして太子宮の庭園でも、妃嬪ヒヒンたちが料理や酒を囲んで歓談している様子が見られた。

 その中心にいた人物が、立彬に連れられた雨妹に気付く。


「まあ雨妹、よく来たわね!」


そう言ってこちらへゆったりと歩いてやって来るのは、玉秀ユウシォウだ。

 未来の皇后へ最も近い玉秀が雨妹を気にしたことで、他の妃嬪やお付きの者たちの視線までもがこちらに集中する。


 ――目立ってる、目立ってるよ!


 今は色々な意味で目立つのはあまりよろしくない雨妹は、どこかに隠れたくなってしまい、手っ取り早く立彬の後ろに隠れようとしたのだが。


「大人しくしておけ、挙動不審は余計に目立つ」


しかし立彬からの指摘に、それもそうだなと思って元の位置に戻る。

 こうしてわたわたするうちに、玉秀が雨妹の目の前までやって来た。


「久しぶりね、雨妹」


「江(ジャン)貴妃、お久しぶりでごさいます」


玉秀にそう声をかけられ、雨妹は深々と頭を下げる。

 玉秀とはあのインフルエンザの件の後初めて会ったが、とても顔色もよく健康そうだ。

 あの時は痩せて骨ばっていた身体も、女性らしい柔らかい線を取り戻している。


「お元気そうで安心しました」


そう告げる雨妹に、玉秀が微笑みを浮かべる。


「ええ、全てはあなたのおかげよ。ありがとう雨妹」


そう話す玉秀は、今まで病でやつれている時の印象が強かった。

 だが健康になると生き生きとした表情をしており、ただ美しいだけではなく、内なる強さがにじみ出ているように感じる。

 なるほどこれが皇后となる人なのかと、雨妹も納得して内心で頷いていると。


「……あの」


子供の声が聞こえた気がした。

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