第34話 女官の罪
それから友仁(ユレン)皇子は、仮の手当てをされただけだった背中の折檻の跡を、子良に治療してもらうこととなった。
皇帝はそのまま屋敷に滞在し、家族との団欒の時を過ごすという。
友仁皇子は皇帝に対してまだ怯えが消えないようだが、それも徐々に改善されることだろう。
そんな穏やかな家族の場から離れた、人気のない回廊で。
「こんな、こんなはずじゃあなかったのに」
文君(ウェンジュン)がブツブツと言いながら、床を蹴立てるようにして歩いていた。
「もう一度皇太后陛下にお願いして、あの女を……」
だがやがて文君は回廊の先に立っている、大小二つの人影に気付く。
先程部屋で別れたはずの立彬(リビン)と雨妹(ユイメイ)である。
雨妹は文君と話をするために、立彬と共に先回りをしていたのだ。
「あなたには、大事な話があります」
雨妹が告げると、文君はギリッと両手を握り締めた。
「小娘、お前が余計なことをしたせいで!」
そう叫んだ文君が、悪鬼のごとき表情で掴みかかろうとする。
しかし、これに怯む雨妹ではない。
辺境をうろつく野生動物に比べれば、可愛いものである。
――辺境育ちを舐めるなよ!
雨妹が反撃の体勢で迎え打つつもりでいると。
「黙れ、醜い女だ」
スッと自然な動きで一歩踏み出した立彬が、素早く文君の腕を取ったかと思えば、次の瞬間その身体を床に叩きつけていた。
その流れるような動作に、雨妹は一瞬見惚れる。
――この人が宦官って嘘、絶対嘘だ!
立彬への深まる疑惑に意識をとられようとしていたのだが。
「くっ……、たかが宦官の分際で私にこんな仕打ちをして、どうなるかわかっているんでしょうね!?」
立彬によって床に押さえつけられた状態で喚き立てる文君の声に、雨妹はすぐに我に返る。
「あなたこそ、このまま逃げられると思わないことです」
見下ろしてそう話す雨妹に、文君は頭を上げて唾を飛ばさんばかりに反論する。
「おかしなことを言わないで、何故私が逃げなければならないのよ!?」
意味がわからないといった様子の文君を、雨妹は冷ややかに見る。
「あなたは、皇子殿下は卵が食べられないことを知っていましたね?」
この言葉に文君は一瞬、目を見開き息を呑む。
「……なにを言っているの、私があんなふざけた話を知っているわけがないでしょう!?」
文君は甲高い声でそう言うと、フイッと顔を逸らす。
――嘘をつくのが下手な人。
雨妹は追及を緩めず話を続ける。
「友仁皇子殿下のような体質の人は、自分が食べられない食事に敏感なもの。
卵がほんの少量使われているだけでも、避けようとするでしょう」
実際に太子の話では、友仁皇子は蒸しパン食べなかったようであるし、自身では卵が食べられないことを悟っていたに違いない。
それが何故食べられないのかという原因の説明が難しかったから、理解されなかっただけで。
「それなのに友仁皇子殿下は、皇帝陛下主催の宴という失敗が許されない席で、卵を口にして大騒動になりました。
私はこの点がおかしく思えて仕方がなかったんです」
宴の料理は卵料理ばかりではないはず。
そちらを食べて誤魔化せばいいものを、わざわざ卵料理を食べて苦しむ羽目になり。
しかもその後も同様のことを繰り返している。
「ですが、友仁皇子殿下が卵を自ら口にしたのではなく、むしろ誰かが食べるように強制したからだと考えれば、納得できます」
「……」
雨妹の言葉を、文君は唇を噛み締めながら聞いている。
「そしてあなたは、私に友仁皇子の体質について言及された時、大して驚いた様子を見せなかった」
初めて聞く内容ならば、太子や皇帝のように怪訝な顔をしそうなもの。
なのにあの時文君は顔をしかめていた。
雨妹にはあれが「余計なことを言うな」という態度に見えたのだ。
「そんなもの、言いがかりにすぎないわ!」
「言いがかりかどうかは、取り調べの中で明らかにしてもらおうか」
反発する文君に、立彬が冷たく言い放つ。
「もし知っていて食べさせたのなら、友仁皇子殿下に対する仕打ちは陛下に向けられるも同然。
つまりは陛下に歯向かう大罪だ」
立彬が厳しい声音で告げると、文君はわなわなと震えだす。
そして血走らせた目で叫ぶ。
「……私が、本当は私こそが選ばれるはずだった!
小娘、お前がいなければあの目障りな女と子供を後宮から放り出せたのに!
しゃしゃり出て余計なことをするから!」
雨妹を詰る文君は、こちらを見ているようで、しかしここではないどこかを見ていた。
「あのパッとしない女が選ばれて、私が付き人?
冗談じゃないわ、私こそが陛下の寵愛を受けるにふさわしいのよ!」
文君のその表情は、怒りに溢れているようでもあり、どうしようもなく悲しんでいるようにも見える。
そんな文君を、雨妹はなんとも言えない気持ちで見つめていた。
彼女はきっと、「お前は国母となるのだ」と言い聞かせられて育ったのだろう。
そして自身もそのつもりで生きてきたのに、直前になって突然女官になるように言われた。
胡昭儀の実家は、陛下の女の好みを見抜いたのだろう。
だから本来の候補だった文君ではなく、地味寄りの容姿の胡昭儀が選ばれたのだ。
一族の思惑に振り回された文君を、可哀想だと思いもする。
――けれど、皇帝の寵愛を受ける以外にも、女の幸せはあったでしょうに。
むしろ妃嬪とならなかったことで、胡昭儀よりも自由な立場が手に入ったはず。
誰かに恋をして、その相手と結ばれる未来だってあったのに。
明るい未来に背を向け、後宮に生きる女としての宿命に自らを縛り付けた、憐れな女だ。
静かに見下ろす雨妹に、文君が酷く顔を歪める。
「……見るな、そんな憐れんだ目で私を見るな!
私こそが皇帝陛下の寵愛を受けるにふさわしいのに、どうしてっ!?」
文君の慟哭は、回廊に虚しく響いていた。
***
その日のうちに文君(ウェンジュン)が友仁(ユレン)皇子の殺人未遂で連行され、裁きを受けるまで牢に入れられると聞かされた。
文君は友仁皇子が卵を食べると身体に異変をきたすことを知っていて、それを報告することをせずに、卵を残すことを許さずに食べさせていたのだという。
――まさか、そんなにまで憎まれていたなんて……。
胡昭儀は文君が、自分たち母子をよく思っていないことを知っていた。
けれど実家の力は文君の方が上であるため、家族のことを思うと強く出られなかったのだ。
それに本来なら文君が得るはずだった立場を、自分が横から奪ってしまったという負い目もあった。
文君が友仁の付き人になる話が出た時も、彼女が最も位が高かったために止められず。
あの時強固に反対していれば、文君に道を誤らせることにならなかったのだろうか。
胡昭儀はずっとそんな「もしも」の話が、頭の中を渦巻いていた。
そんな泥沼の中にいるようだった胡昭儀を、清水へと導いてくれたあの医官の助手。
皇帝は彼女を知っているようだったが、そう言えば名乗らなかったことを、今更ながらに思い出す。
普通はあわよくば取り立ててもらおうと、聞かれなくとも名乗るものなのに。
「助手だというあの娘、なんという名なのかしら?」
「さあ、医官付きでしょうが、存じ上げません」
お茶を淹れてくれている年配の女官に聞いても、知らないという。
しかし一つだけ明かなことがある。
あの娘は、強い光を宿した青い目をしていた。
「あの青い目の眼差し、昔の陛下に似ていたわ……」
胡昭儀の呟きは、女官に拾われることはなかった。
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