「明日香、大丈夫なの?」

飲み物の注文を受けた店員が奥に歩いていくのを目で追いながらし母が心配そうに聞く。平気を装っているのだろうが不安でたまらない内心が声に表れている。

「裕二さんは最近どんな具合なの? 先生は何て言っているの?」

最初は家族に内緒にしていたが、裕さんから英語を話さないなら実家に帰って、と言われた後、母に裕さんが病気で会社を長期休んでいること、精神科に現在通院していることを出来るだけ簡潔に、そして心配させないように要点だけを電話で伝えた。ゴールデンィークは旅行に行くと嘘をついて実家に帰らず、その後も何とかごまかしていたけれど、今まで比較的頻繁に会っていた分、何か月も会わないと疑問を持つだろうし、無理をして会えば言動から違和感を覚えて結局気付かれてしまうと思った。

すぐに言わなかったのは私自身に後ろめたさというか不安があったからだ。私がまだ学生の頃は精神科への偏見も大きかった。でも、今は不眠で通院する人もいるらしいし、雑誌の特集でもカップルカウンセリングが取り上げられるほどだから、私が心配するほど精神科に通院することは特別ではなく、それなりの受け止め方をしてくれるだろうと思った。でも、翌日母から話を聞いた祖母から電話があり、なんて可哀想、あまりにも不憫だ、と電話口で何度も何度も言われ、結婚前に本当は気になることがあった、こんなことになるくらいなら反対をしておけばよかった、と今まで聞いたこともなかった話を一方的にされた。そして親戚には病気のことは内緒にしておきなさい、とまで言われた。親戚が何だというのだ、祖母が心配しているのは私のことではなく祖母自身の体裁のように聞こえた。私はただびっくりして、うん、とか、そうだね、とかしか言えなかったけれど、受話器をおいたら胸がチクチクと痛かった。気が狂った夫を持った私に未来は無いのよ、と言われたような気がして傷ついていた。

「先生からは会社に行けないと焦らず、ゆっくり休養を取るのが大切だ、って言われている」

薬が増えたこと、気分にムラがあることは言わなかった。これ以上心配をかけたくなかった。

「そう、・・・・・・ あちらのご両親は知っているの?」

夏休みとはいえ始まったばかりだし、平日なので街にそれほど人は多くない。喫茶店も十一時前なので空席が目立つ。母と会うのは四月に一人で実家へ帰って以来だった。母から近所まで行くからお茶できない? たまには一緒に買い物でもしましょう、と三日前に誘われ仕事の無い日に会う約束をした。裕さんには仕事に行ってくると嘘をつき、弁当もいつもどおりに用意をした。この後母とレストランでランチの予定なので、家に帰る前にどこかで捨てないといけない。どこで捨てたら良いだろうか。

「ううん。裕さんは言わないし、私も口止めされているから・・・・・・」

「でも、明日香一人では大変でしょう、一人で抱えると明日香自身も参ってしまうと思うわ」

「このくらい大丈夫よ」

「でも、鬱って、ほら・・・・・・ 何て言ったらいいのかしら、家族のサポートがとても大切と聞くわ。その、あの、ほらね、追い詰められて考えてはいけないことを考えたりするでしょう」

緊張したせいだろう、母は既に空になっているホットミルクのカップを口に運ぼうとして途中で気が付いて手を止めた。

「もう、お母さんは心配しすぎ! 裕さんなら大丈夫よ」

無理して大きめの声ではっきりと笑いながら答えた。

「そう? それならいいのだけど・・・・・・」

母は少しほっとした様子だ。私の演技は上手くいったのだろう。でも本当は先生から鬱状態が重い場合は自殺念慮がないか家族が注意する必要がある、と言われている。それ以来、何となく不安で裕さんの行動をついつい監視してしまうし、長時間外出することが出来なくなった。でも本気で自殺する気であれば、例え五分でも図れるだろう。心配をしたらきりがなく、仕事にも買い物にも行けなくなってしまう。

「大丈夫、大丈夫」

半分は母を心配させないように、残りの半分は自分に言い聞かせるように言った。でも、本当はしんどかった。最初は一か月も休めば何事もなかったように全てが元に戻ると思っていた。でも、一生懸命やっているのに病状は悪化していて、本で読んだとおりにはならなくて、治らなかったらどうしようかと不安で堪らなかった。母に全部話して『あなたの接し方は間違っていないわよ』とか、『万が一離婚になっても大丈夫よ、帰っておいで』と言ってもらいたかった。



最近、裕さんは英会話の勉強をほとんどしなくなっていた。というか、ベッドの上に横になって天井を見ている時間が多かった。いつだったか、『コウシテイルノガ一番安心スル』と言っていた。体がとにかく重いらしい。それでも鬱にとても良いと本で紹介されていたため、どんなに体調が悪くても週に一回は散歩をしていた。

 先日も四時半に散歩に出かけた。時間もコースも決まっていて、近所の公園の周りを一周して帰るのは決まって六時少し前だ。私は気分や体調で距離を変えたり、飽きないようにコースを変えたりした方が良いと思うのだけど、今の裕さんは変化を極端に嫌う。

 帰りが六時をまわることは滅多になかった。でも、六時十分を過ぎても帰ってこなかった。普段は鍵しか持たずに出かけるけど、今日はもしかしたら何処かに寄るつもりでいたのかもしれない。そう思って棚をみたら財布も携帯もが所定の位置に置いてあった。

 たった十分遅いだけで心配するなんて馬鹿みたい、と思おうとしたけれど、私が仕事に出かけている間に何かあったのかもしれないと思うと不安でたまらなくなり、昨日や今日の裕さんの行動を思い浮かべた。けれど、特に兆候らしいことは思い浮かばなかった。考えても仕方ないと思い、調理を中断して探しに出た。

 マンションを出てまっすぐ歩く。駅に向かう左へ曲がった方が近道だけど、マンションの居住者の多くが使う道なので裕さんは避けている。交差点まで出るとさすがに人通りが多かったけど、ほとんどはスーツ姿の男性か買い物帰りの女性だったのでショートパンツ姿の裕さんは目立つはずだった。でも、姿は見当たらなかった。予備校の前を通り過ぎ、ビジネスホテルの前を過ぎてもいない。公園の入り口まで来ても姿は見えなかった。もう六時半を過ぎている。交差点ですれ違ってしまったのだろうか。最近、歩くコースを変えたのかもしれない。あと五分行って見つからなかったら帰ろうと思った。

公園を右手に、時々犬を散歩させている人とすれ違いながら歩き、そろそろ引き返そうと思った時に裕さんを見つけた。歩道と公園の間にある桜並木に、花見の時ぐらいしか人が座っているのを見たことのない古い木のベンチがある。そこに公園側に向かって座っていた。柵には蔦が絡んでいるし、背の高い雑草があって公園の中はほとんど見えない。考えごとでもしているのだろうか? そっと近づくと肩が小刻みに震えていることに気付いた。

裕さんは泣いていた。ショートズボンの裾をぎゅっと掴んで、目を強く閉じ口を真一文字にして堪えるように泣いていた。


ふわふわの毛に覆われた背中を掻くと、チビは左足を少し浮かせてバタバタさせた。気持ちが良いのか神経の反射なのか、背中を掻くといつもそうする。

「ねぇ、チビ、裕さん大丈夫かな? 私、どうしたらいいかな?」

チビは何も答えない。掻いている場所は同じなのに今度は右足をバタバタさせた。

気を紛らわすつもりでつけた音楽番組では十代のアイドルが元気いっぱいに踊って歌っている。彼女達にも悩みはあるのかもしれないけど弾けるような笑顔をしている。以前の私も同じように笑っていたのだろうか? 


「I am home now. I stopped at the library on my way, so I was late.」

裕さんは七時半をまわったころ帰ってきた。

「I see, but I was worried. I think I should go out and look for you.」

嘘をついた裕さんに、私も嘘で返した。やっぱり裕さんは私に泣いている姿を見られたことに気付いていないようだ。嘘をついたということは知られたくないということなのだろうから、私も嘘に乗っかった。でも、ばれるのではないかと少し緊張した。

「It took a while, I lined up in a long line at a receipt desk.」

以前は裕さんに嘘は通じなかった。私は嘘をつくと微妙に口に力が入るらしい。『これ以上は企業秘密だから教えないけど、明日香は単純というか、すぐ顔とか声とか仕草に出るからわかりやすいんだよ』と言って私のことは何でもわかっているように自慢げに笑った。でも、今は私の顔を滅多に見ようとしない。

「I see, It is OK, I prepare the dinner.」

嘘がばれていないことに少し安心して裕さんの顔を見ると、まだ少し目が赤かった。

「No, I do not need it. I have a stmach ache, so I will lie down for a while before having a dinner.」

視線を逸らすようにそれだけ言うと裕さんは寝室へ入ってしまった。

 布団の中でまた泣くのかもしれない。何がそれほど裕さんを苦しめているのだろう?



「新しく入った子知っている?」

加藤さんは早番で先に昼食をとっていた私の前に座ると、いつものように一方的に話を始めた。会ったことはないけど家事手伝いをしている人が入ったとは聞いていた。週末は若いバイトが多いので重宝がられているらしい。

「少し前に入った土日だけ働いている人のことですか?」

「そうそう。二か月くらい前に入った子でね、確か二十八だったと思うのよ。でね、主任にお似合いだと思うのよ」

「へぇー、そうなんですか?」

二十八歳なら立派な大人だと思うけれど、加藤さんにとっては子なんだ、と心の中で苦笑した。

「主任って性格は良いけどモテないのよねぇ・・・、やっぱり禿げているからかしら? 私の年になると外見なんてどうでも良くなるけど、若い子はやっぱり外見なのかしらねぇ?」

加藤さんは田中主任を新人の時から知っているらしい。結婚相手には良い人なのよ、などと以前から言っていた。

「ただね、内田さんって人づきあいが良いタイプじゃないのよ。あ、新しい子ね、内田っていうのだけど、大人しくて受け身な感じなのよ」

内田さんに会ったことがないので返事に困ってとりあえず頷くと、加藤さんは味方を得て安心したような顔をした。

「でね、四人で食事でもどうかしら、と思って。坂田さん、土曜日の夜出てこられない? 主任も内田さんも、歳が近い坂田さんがいれば話しやすいと思うのよ、きっかけ作りを手伝ってくれないかしら?」

全く予想していない展開だった。加藤さんは契約社員だから忘年会とかで主任と飲むこともあるし、仕事場でも打合せとかで話す機会も多いはずだ。でも、パートの私は職場で会っても挨拶する程度で、ほとんど話をしたことがなかった。いきなり食事、しかもキューピット役なんて出来るのだろうか。

「約束は出来ないですけど、都合が合えば・・・」

気が重いと思いつつ考える前に答えてしまっていた。それから泣いていた裕さんの姿が脳裏をよぎり、土曜の夜に外出して大丈夫なのか、と心配な気持ちになった。でも、加藤さんから必要とされたことが嬉しかった。最近、自分の存在に価値が無いように感じていたから、無意識に誰かの役に立つことを強く求めていたのかもしれない。

「早速、週末に内田さんと主任に都合を聞いてみるわね」

うん、うん、と加藤さんは段取りを考えているのか嬉しそうに頷く。

「あ、でも、決まるまではとりあえず内緒にしておいてね」

「え? あ、はい。わかりました」

おしゃべりでおせっかいな加藤さんが内緒に、というのでびっくりした。普段はペラペラ何でも話してしまうのに。

主任のことは優しそうだけど禿げていてナヨナヨしていてヘラヘラ笑っていて、あんまり仕事が出来そうにみえないな、というぐらいにしか思っていなかったけど、きっととても良い人なのだろう。加藤さんの企みが上手く運ぶと良いな、と思った。


一人で食事をするのには慣れている。でも、一人じゃないのに一人で食事をするのは寂しい。食事の用意が出来たと寝ている裕さんに伝えたけれど、『ウーン』と言っただけで起きてこなかった。とりあえずラップをする。そしてニュースを日本語に戻した。

結婚した当初は二人で食べることが多かったけれど、裕さんが営業に配置転換になってからは平日のほとんど、そして土日も頻繁に一人だった。付き合いで遅いわけではなく、仕事に追われ疲れてお腹を空かせてへとへとになって日付の変わる頃ようやく帰宅をするわけで、それなのにろくに働いてもいない私が先に食べたら申し訳ない気がして合わせたら、そのうちに体調を崩してしまった。昼食と夕食の間が長時間空きすぎるのが悪いのではと思い夜七時ぐらいに間食をとってみたものの、もともと胃腸が丈夫ではない私は通院が必要なほどになってしまった。みかねた裕さんから食べずに待っていると思うと仕事が終わらないことが余計に負担になる、と言われてようやく先に一人食事をするようになったけれど、せめて作り立ての美味しいものを食べてもらおうと揚げ物や炒め物はカエルメールを受けてから支度をした。結果、夕食を二回作ることになり、胃腸の調子は良くなったけれど、いっしょに食事していたときの二倍の手間がかかるようになってしまった。ただ、この大変さ、が私の罪悪感を少し薄めてくれた。


子供の頃の記憶で今でも鮮明に覚えていることがある。父がテーブルの脚を蹴り、母に向かって『このタダ飯喰らいが!』と怒鳴って部屋を出て行ったシーンだ。どうして父が怒ったのかは覚えていない。でも、母が片づけながらシンクの前で泣いていた後姿は覚えている。

 私はただただショックを受けた。母は内職をしていたし、家事も同級生のお母さん達よりしっかりやっていたと思う。節約の為に一時間もかかる激安スーパーまで買い物に行ったりもしていた。決して何もしないでラクしてご飯を食べていたわけではなかった。そもそも、父は母にプロ―ポーズする時、自分は一生懸命働くから君には専業主婦になって家を守って欲しい、と言ったと聞いていた。その母がただ飯喰らいなら、父は私のことを何だと思っているのだろう。

私は大きくなったら仕事をする、そして結婚しても絶対に主婦にはならない、と思った。


でも、結局は私も主婦になった。

手に職をつけよう、と調理師の免許を取りレストランに就職したけれど、温かい家庭に憧れていた裕さんが描く生活を送るには私の仕事は向いていなかった。裕さんが休みの土日祝日はフルタイムで働かなければならないし、早番のはずが混んで日付が変わるまで帰れない、なんてことはザラだった。実家から通っている分には大丈夫でも、結婚して家事と両立させるのは大変だった。

裕さんと出会うまでは主婦になることが怖かったけど、何年も付き合って裕さんが父と育ちも考え方も違うということがよくわかった。二人で負担を分担して生活しよう、という言葉に安心できたし、何より幸せで温かく穏やかな家庭を知らない裕さんに安らぎを与えたい、そう思って結婚を機に退職した。

ただ、今思うと無意識な部分で不安があったのかもしれない。生活の為に働く必要は無かったのに私は専業主婦にはならず、裕さんの都合にあわせて働けるパートを探し何らかの仕事をし続けた。

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