玄関の向こう側

明日香

日曜日

 柔らかくて温かい頭を撫でる。

「パパイヤも少し食べる?」

バナナを分けながら聞く。

「今日は日曜日だからね、特別だよ」

リビングからベランダの奥を覗くと小さな空が見える。駅前のマンションは便利だけど四階では近隣のビルに囲まれて空が切り取られてしまい閉塞感がある。以前は広いベランダ付きの上層階に住んだら気持ちが良いだろうな、と思ったけれど、最近は全部ビルに囲まれて空が見えなくても良いとさえ思う。初めて青空を見ると辛いと感じたのは十年位前に入院した時だった。天気が良く遠くから子供達のはしゃぐ声が聞こえる平和そのものの日だというのに、病気でベッドから出る事も出来ない自分は世界から切り取られて忘れられ、たった一人のように感じた。

小さいけど青く澄み切った七月の青空を見て気分が一層沈んだ。日曜日で仕事も休みだというのに七時前におきてしまったうえ予定も無い。軽い朝食を済ませた後はニュースを見るでもなくチビの頭を撫ぜては溜息をつく。そんな風に無駄に時間を過ごしている自分が情けないけど何かをする気にもなれない。

 チビはうさぎだ。部屋に一人でいる淋しさから、仕事帰りにペットショップで衝動買いして八年になる。

「ねぇ、チビ、十時だからそろそろ裕さんを起こした方が良いかな?」

チビは撫でられて目を細めている。

(Did you wake up? かな、Are you getting up? かな、うーん、Will you get up? の方が良いかな? 英語って難しい)

「It is sunny day today. Will you get up and have a breakfast?」

チビを相手に英語で声をかける練習をしてみる。でも、日本語も英語も判らないチビは首を傾けて今度は右耳下を撫でて、と訴えている。

 愛犬家が犬は人の言葉を理解できる、というけれど、私は犬が人の感情を理解できるのだと思っている。実家で昔飼っていた犬は私が泣いていると足元に座って慰めてくれた。でも、うさぎは人の言葉も感情も理解できないみたいだ。ただ、それでも餌を与えて撫でてくれる私に強い関心を持っていることは確かだ。私がリビングに出入りをする度にケージから鼻を出してピクピクさせたり、ケージを齧って出してとアピールしたりする。今の私は言葉が通じなくても、立場が違っていても、それでも繋がる何かを強く求めている。


 寝室のドアを開けると小さな鼾が聞こえる。薄暗いが目が慣れると穏やかな顔の裕さが浮かび上がる。昨日も眠れなかったのだろうか。肩を軽く叩いて呼びかけてみる。

「Yu san, it is 10:00. Can you get up?」

「Hmm, bra bra bra, close the door.」

『ドア閉メテ』の前に何と言ったのかは解らなかった。言われたとおりにドアを閉めると部屋が暗すぎて裕さんの顔がはっきり見えなくなった。遅くまで寝ていると今夜もまた眠れなくなるに違いない。「悪循環だから頑張って起きて朝ごはん食べた方が絶対に良いよ」、と無理にでも起こした方が良いだろうか、と思ったけど、再び寝息が聞こえてきたので静かに部屋を出る。

 裕さんに言いたいこと、話したいことが沢山ある。でも、私の英語力では無理だ。高校時代英語は赤点だらけだったし専門学校の時に受けたTOEICは285点で、どうやったらその点数を取れる訳?鉛筆転がしても300点は取れそうなのに、と友達に呆れられた。でも、日本にいれば英語力なんて無くてもどうにでもなる、と思っていた。それが三十を過ぎた今頃、一生懸命勉強しておけば良かったと、こんなに後悔するなんて。

相手が興味や関心を持っていれば、例え言葉が通じなくても表情やジェスチャーで伝わる部分がある。でも、私に関心が無く、しかも心を開いてくれない裕さんが相手の場合、言いたいことが話せないと、聞いていることが理解できないと伝えられない、伝わらない。あぁ、私は独りぼっちだ。

 

裕さんが突然家では英語以外は話さない、と言いだしたのは一ヶ月くらい前、何も無くても気分が湿りがちな梅雨の時期だった。

「何それ? 私が英語を苦手なのは裕さん良く知っているじゃない」

困惑しつつも笑いながら問いかける。でも、裕さんは私の動揺には全く気づかない。もしかしたら気づいているのに無視しているのかもしれない。

「ネットで英語を勉強し始めたけど、週二日の会話レッスンじゃ全然足りないんだよ。読むことはある程度出来ても、苦手な会話を克服するには一日中英語の環境にいることが近道なんだって。だからテレビも英語の番組に限定するし思考も英語にする。明日香とも家では英語でしか話さないから」

食後のインスタントコーヒーを飲みながら裕さんはそうするのが当然のように話す。

「でもね、英会話がしたいなら駅前のレッスンに通うとかでいいじゃない?話せない私とじゃ、会話なんて成立しないよ。それに、裕さんが言っていることが解らなくて、言いたいことも話せないなんてなったら、私ストレスで体調崩しちゃうよ」

「病気の治療に協力する、って約束したじゃん、それって嘘だったの?」

「もちろん協力するよ。今だって協力しているつもりだし…… でも、英語は気持ちで話せるものではないでしょう」

『絶対無理』という言葉は飲み込んだ。感情的な言葉は避けなければいけない。言ってはいけない言葉がいくつかある、と本で読んだ。あなたの為に、頑張って、絶対に、普通は、みんなは、やる気が足りない・・・・・・、たくさんありすぎて混乱する。少しでも油断すると何かしらタブーな言葉を発したり、してはいけない言い方をしたりしてしまいそうだ。話す度に緊張する。

「別の方法で何とかならない?」

考えを変えてもらおうと裕さんをまっすぐ見て話したけど裕さんはコーヒーを見つめているだけで私の方をチラッとも見てはくれない。

「明日香も同じネットで勉強すれば良いよ、基礎から細かくコースが別れているから大丈夫だよ」

傷つけずに怒らせずに解ってもらうにはどう話せば良いのだろう?ぬるくなったカフェラテを一口飲む。

「裕さんが英語の勉強が必要だというのは良くわかっているよ。でも、私は時間がないし、話せなくても特に困らないし、もう年だし頭良くないし、お金がかかるだけで勿体ないと思う」

裕さんが一瞬だけ私の顔を見た。微かにだけど顔つきが険しかった。きっと、何かが引っ掛かったのだろう。

「確かに明日香は仕事して家事して忙しいよね。お金のことも心配しているだろうし。それもこれも全部僕のせいだよ。悪いと思っているよ」

コーヒーカップに手をかけただけで飲もうとはせずに裕さんは話を続けた。

「でも、今の僕には英会話の上達が絶対に必要なことなんだよ。明日香が英語で話したくないと言うなら・・・・・・」

口では悪いと思っている、と言っているけど顔は怒っている。

「明日香が僕の邪魔をするなら、このまま一緒には暮らせないよ。日本語を話すわけにはいかないから暫く実家に帰ってくれないかな?」

私は驚いて裕さんの顔を茫然と見つめた。

「もちろん僕だって明日香と暮らしたいと思っているよ。離婚を望んでいるわけじゃない。でも、元に戻るには、幸せになるには、今は英語を勉強しないと駄目なんだよ」

裕さんは傾けたカップに視線を注いだまま長々と主張を力説した。話し合いの余地が無いことは表情を見ていればわかった。本気なのだ。英語が話せれば人生薔薇色と信じているのだ。そして英語の上達を妨げるものは、例え妻である私でも裕さんの敵なのだ。

でも、どうしてそんな風に考えることが出来るのだろう?

私が恋をした裕さんは思いやりのある強い人だった。結婚すると男の人は変わる、と言われたけれど気配りのある優しい人に変わりはなかった。意に反することを強要されたり我を押し通されたりした記憶なんて一度もない。

目の前にいるのは本当に裕さんだろうか?裕さんには私の知らない一卵双生児の弟がいて、ある日何らかの理由で入れ替わったのではないだろうか。もしかしたら夜中に宇宙人にさらわれて実験をされたのかもしれない。外見は同じに見えるけど中身が違うような、そんな違和感から逃げられない。こんな変な考えをするなんて私もどうかしてしまったのだろうか?


 「ご主人は強迫観念が少し強いようですね」

清潔で誠実というイメージで作ったのかもしれないが、一面真っ白な診察室は私には居心地が悪いだけだ。先生の椅子は革張りで大きいのに患者側の私が座っている椅子はビニール張りの丸椅子だ。特に小柄な私は先生を見上げる形となる。無力感や威圧感を感じてしまう。必要以上に広いのが更に心許なくさせる。

「一言で抑鬱鬱症状と言っても色々あります。ご主人は白黒思考で思い込みが強いようですね。もともとそういう傾向が強かった為、仕事などで上手くいかず挫折した時に病気になりやすかったのかもしれません」

 鬱と言えば食欲が無くなる、朝起きられない、夜眠れない、やる気が出ない、涙が止まらない、そんな感じだと思っていた。怒りっぽくなったり何かに夢中になったりするなんて知らなかった。

 色々調べると、不安からくる強迫観念に取り付かれて夢中になってしまうらしい。裕さんの場合は仕事で英語力が足りないために残業が増えたり交渉が上手くいかなかったりしていたらしいから、それで英語が上達しないと復帰しても上手くいかないと不安でたまらないのだろう。眠れないので夜はテレビやネットで時間を潰し、昼間に寝て、それ以外の起きている間は英語漬け、という一日だ。そして、上手くいかないことへの焦りと不安から、また、感情のコントロールが上手く出来ないことから、怒りっぽくなるのだそうだ。

 英会話力が上達しないと人生真っ暗、終わりだ、と思っている裕さん。だから、それを邪魔する私を排除したいと思うのだろう。妻を養わなければ、という強迫観念がある一方で重荷に感じているから、恐怖や苦痛の対象になってしまうのだろう。でも、私はただ英語が話せないだけなのだ。こんなにも裕さんのことを思っているのに、恐怖や苦痛の対象と捉えられてしまうなんて、ただ、ただ切ない。

先生から病気についての正論を説明されれば、頭では理解が出来るのだけど気持ちが抵抗する。悲しい想いが強くて素直に受け入れることが出来ない。

(どうして?)

(誰のせい?)

病気になった原因は何だろう。病気になったのは会社に問題があるのだろうか。それとも先生が言うように裕さんはなりやすい傾向を持っていたのだろうか。養育環境が原因かもしれない。先生が原因探しは無意味だと言ったけれど、私は答えが欲しくて考えることを止めることができなかった。

ふと、ある考えが頭をよぎった。私がもっと早く異変に気づいていれば、もっと病状が軽く済んでいたかもしれない。ううん、私と結婚していなかったら、そもそも裕さんは病気にならなかったのかもしれない。

馬鹿げた考えだと言い聞かせるけど無駄。あの時こうしていれば、ああしていれば。自己嫌悪に陥っていく。


 「おはようございます、レジ代わります」

遅番の藁谷さんが私のレジに入ってきた。レジ中止案内を出して素早く交替の準備をする。

「おはようございます、今日は今のところ暇ですよ。レジ袋の補充とかして時間を潰したくらいです。休憩いただきます、よろしくお願いします」

 以前は店の特売とか日替わり弁当を食べていたけれど今は簡単な弁当を家から持ってきている。マンションの向かいにコンビニがあるのだけど、裕さんは一人で昼食を買いに行くこともできないので、レンジで温めれば食べられるものを用意するようになった。コンビニだけでなく人目が気になって家から出られないらしい。平日の昼間に毎日家にいるなんて変だ、と近所の人や管理員から思われるのではないか、悪い噂が立つのでは、と不安でたまらないという。でも、親しくしている人はいないし、隣の人には会った事さえない。付き合いの希薄なマンション暮らしでは、誰も何も気にしないと思う。とにかく、こうして昼食の用意が必要となり、一人分も二人分も大差が無いと思って自分の弁当も作るようになったけれど、一か月もすると負担に感じるようになってきた。仕事、仕事の裕さんとの生活は一人で待つ時間が長く、ついこの間まで寂しく感じていた。面の皮が厚く自己中なオバサマ達が亭主元気で留守が良い、なんて言って大声で笑っているのを聞くと、半分羨ましくて、半分腹立たしかった。文句を言うくらい旦那様が家にいて良いな、と思ったし、裕さんが定時に仕事を終えて家に帰ってくれたら私は嬉しくてたまらないのに、と思っていた。でも、毎日しかも一日中、家に裕さんがいて、三度の食事を用意しなければならないことは想像以上に大変だったし、何より全く一人の時間が無い、ということは予想外の大きなストレスだった。

 休憩室では石原さんが先にお弁当を食べていた。定年まで小学校の給食室で働いていた彼女のお弁当はいつも美味しそうだ。今日も卵焼き、魚の照焼き、ほうれん草の胡麻和えとトマト、きんぴら。色合いが綺麗なのにいつも感心する。一方、私の弁当は冷凍を温めただけの唐揚げ、昨日の夕食の残りの肉じゃが。一応色合いを気にしてプチトマトも入れたけど品数が少なく全体に茶色だ。それでも私としては相当頑張っているのだけど。

「加藤さんと金曜日にお茶しよう、って話をしていたのよ。坂田さんもどう?」

勤務当初から古株の加藤さんに誘われて、月に一、二度レジ仲間で近所のケーキ屋でお茶をするのが習慣になっていた。

「すみません。ちょっと用事が入っていて。しばらく金曜日は都合が悪いです」

「あら、そうなの。今回、藁谷さんも都合が悪くて駄目だっていうのよ。いいわよ、別の日を加藤さんと相談するわ」

「すみません」

「あら、でも毎週金曜日が駄目ってこと? 何かあるの? 今までは大丈夫だったわよね」

石原さんは麦茶を一口飲み、理由を言いなさいよ、と催促するような顔で私を見た。悪い人ではないのだけど、聞きたがりで言わないとすぐ機嫌を悪くする。私の母と同じくらいの歳なのに子供っぽいと時々内心で苦笑する。

「実は英会話に通う事になって」

隠すほどのことではないけど、出来れば言いたくなかった。

「若い人はいいわねぇ。私くらいになると今さら英会話も何もないもの。でも、教室に通うとなると結構高いでしょ? 旦那様の収入が良くて子供もいないから出来るのよね。ほんと亭主元気で留守が一番よね」

また亭主元気で留守が一番、だ。石原さんが嫌味を言っているわけではないのはわかっている。私が何も言っていないのだから知らないのは当然だ。子供がいないことは変わりない。でも、二か月前に裕さんは病気になり、会社に行けなくなり、それ以来家に引きこもっている。

「そうですよね。有難いことですよね」

笑ってごまかす。私の笑顔は絶対に引きつっているはずなのだけど、石原さんは全く気付かない。

「今度から外国人のお客様で困った時は坂田さんを呼ばせてもらうわ」

「駄目ですよ、私は全然話せなくて勉強しに通うのですよ。呼ばれても無理です、主任を呼んでくださいね」

はいはい、と手をひらひらさせている石原さんを見ながら、もし、裕さんの事を話したら何て言われるかな?と考えてみた。祖母と同じように石原さんも精神科に通うイコール狂ったと捉えてしまうのだろうか。そして職場の人達に、『坂田さん可哀想なのよ、旦那様が頭おかしくなって会社休んでいるらしいわ。辞めたらどうするのかしら?パート収入じゃ生活出来ないわよね』、などと話してまわるのだろうか。


初めての英会話レッスンを終えて家に帰ると家の中は電気が点いていなかった。外はまだ明るいけれど、ビルに囲まれたマンションの四階は、夏でも四時を過ぎるともう薄暗くなる。特に北側の寝室は日が差さず日中も暗い。そんな部屋で裕さんはベッドに横になっていた。

「I am home.」

具合が悪そうだ。眠っていたわけではないらしく声に反応して私の顔をチラッと見たけれど返事がない。

「He comes from England.」

はっきりとした年齢はわからないけど年下の男の先生で、日本に来る前はオーストラリアや韓国の語学学校で英語を教えていたことなどを伝えたいのだけれど、簡単なことなのに言葉が出て来ない。気持ちと言葉の間に大きな溝があるみたいだ。じれったくて仕方ない。

「He looks like Jim Carrey.」

実際、挨拶の時の第一印象がコメディ俳優そっくり! だった。何本か映画を観ている裕さんなら興味を持ってくれると思った。でも反応がない。

「Is the British English OK? What do you think?」

自己紹介だけで必死で全く余裕が無かったけど、印象は悪くなかった。ただ、オーストラリアに留学したことのある人から、職場でアクセントや表現の違いに苦労していて、安いからと安易に留学先を決めたことを修飾語に後悔したという話を聞いたことがあり、先生がアメリカ出身じゃないことに少し不安を感じていた。

 裕さんの意見を聞きたい、でも、友達の例を何て説明すれば良いのかわからなかった。無言の状態が三十秒ぐらい続いた。

「Are you hungry?」

英会話の話を諦めた私の問いかけに、ようやく裕さんは『yes』と、やっと聞こえるくらいの小さな声で答えると寝返りをうって背中を向けてしまった。食べたくない時は無視することが多いので、お腹は空いているのだろう。

「Wait for a while. I make it in a hurry.」

背中に声をかける。本当は裕さんの為に通うことになった英会話教室のことなのに無視されたようで悲しかった。『どうだった?』と色々聞かれて久しぶりに話しが出来ると思っていたのに裏切られた気分だった。でも、私の気持ちを裕さんに言っても良いのだろうか? 言葉は受け止める人がどう捉えるかで変わってしまう。何気なく使っている『頑張れ』や『あなたの為と思って』が重荷に、『悲しい』とか『辛い』という言葉が叱責に感じられたりするらしい。私だって言葉に傷つくことはよくある。あまり考えずに言ってしまって後悔することも多い。けれど、お酒飲んだり、友達に愚痴を聞いてもらったりすれば一週間ほどで立ち直れることがほとんどだ。でも、心を病んで弱っている人に対しては言葉が凶器になり実際に死へ追い込むことがあり得るのだ。日本語でも言い方が難しいのに英語で単直に発したら取り返しのつかないことになるかもしれない。何を話して良いのかわからなくなり、言葉を発することが怖くなり、時々途方に暮れる。

結局、出かかった言葉を飲み込んで私は静かに部屋を出た。


今日の夕食の献立は鯖の味噌煮と茄子の煮浸しだ。もともと箸使いが上手くなかった裕さんは、薬の副作用と言われる手の震えで更に箸を使うのが苦手になり、塩焼きなど食べにくいものは出しても手をつけなくなった。食べやすい物、味の濃い物、甘い物を好んで満腹中枢が刺激されるまでたらふく食べる。病気の改善に良いと言われる青魚を少しでも食べてもらおうと骨抜き処理のされたものを選び、野菜を中心にした食事を用意したけれど、ハンバーグや唐揚げ、豚の生姜焼きなどが好きな裕さんは私の用意する食事に物足りなさそうだ。きっと今晩も食後にポテトチップかインスタントラーメンを食べるのだろう。

食事のことだけでなく、私は朝から晩まで裕さんの様子を気遣って生活している。でも、裕さんは私に興味が無いようにみえる。だからといって空気のような存在という訳でも無い。むしろ邪魔に思っているのではないだろうか。今の裕さんは本来養うべき奥さんに世話になっている現実を受け入れることが出来ず、現状から逃避し、私を無視しているのではないだろうか。


以前は夕食時にテレビをつけることは無かった。その日一日にあった事や明日の予定など、他愛もない話が尽きなかった。今思えば団らんのひと時が夕食時だった。でも最近はほとんど会話がない。それで重い空気を少しでも変えたくて二か国語放送のニュース番組をつけている。私にとってそれはニュースでも言葉でもなく音でしかないけれど、裕さんと私の隙間を埋めるように流れ聞こえてくる存在は大きい。

「How are you ? Can you sleep well at night?」

裕さんは首を縦に頷く。

「Do you ask the doctor?」

裕さんは首を横に振る。英会話の勉強中というのに『ハイ』も『イイエ』もない。診察の際に私から先生へ不眠を伝えて薬を増やすか変えてもらえるようお願いした方が良いだろうか。

気象情報へ変わった画面は明日の天気を曇りマークで表している。洗濯物が外干しで乾くかなぁ、なんて考えていた。

「Don’t say anything to the doctor. It will make the medicine increase.」

唐突に裕さんは怒った顔で一方的に言うと、部屋を出ていってしまった。

「I understand.」

私の返事は裕さんに届いただろうか?今の返事だけじゃなく、私の声は、言葉は、気持ちは裕さんに届いているのだろうか。

リモコンを操作しお笑い番組に変える。面白くもないけれど無理に笑ってみた。笑っているはずなのに涙がこぼれた。

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